森 大那|土地と創造性
「若者の街」――と呼ばれるエリアが、東京にはありました。
20世紀の幕開けには浅草、続いて銀座。
1960年代に新宿、70年代に原宿と渋谷。中央線沿線に吉祥寺とその周辺。
世紀末から2000年代初頭に秋葉原が突如台頭し、そして――
そして、今日、「若者の街」はどこなのか。
若者がいない繁華街はありません。
これらの街が経済機能を後退させるのはまだまだ先のことでしょう。
下北沢だって、清澄だって、新大久保だって、若者がいます。
しかし、では、今、渋谷が「若者の街」なのか。
東京という大都市を歩き回る習慣のある人は、そう断言することにためらいを感じるはずです。
その街から何が「生み出されて」いるのか、分からなくなっているのです。
動画共有サイトが群雄割拠となったのは2000年代後半。
2008年にTwitterとFacebook日本版。
2010年以後のスマートフォンの急激な普及、ノートパソコンの軽量化。
すると、2020年から始まるコロナ禍は、約10年の時間をかけてオンライン・インフラが行き渡ったタイミングでの出来事と言えます。
人は、家から出なくなった。
家から出られても、「地元」から出なくなった。
では、街は無くても済むのか。
もちろん、そうはいかない。
しかし、土地と創造性とは、もはや結びつく必然性がない。
新宿でなくても仲間と話せる。
渋谷でなくても音楽は作れる。
若者は各地に散開し、活動基盤を街に依存せず、80年代の人々が「サイバースペース」「電脳空間」と呼んだ情報の場で、せっせと文化を作り始めました。
2000年代半ばから2024年現在までのおおよそ20年間で、文化には革命が起こったのです。
ある街から何が「生み出されて」いるのか。
一見、その答えは曖昧になったように感じられます。
しかしそれは、曖昧になったのではありません。
言うならばそれは――情報インフラの発展によって、在り方が、場所性が、「抽象的になった」のです。
ところで、「若者の街」とほぼ同じ意味で、「文化の発信地」という表現があります。
かつてほどは用いられなくなったその言葉が指し示す土地は、「若者の街」と同じでした。
したがって、「文化の発信地」の称号も、その本当の意味を再審にかける時が来たということになります。
世界的ハイブランドの店舗が軒を連ねることが「発信地」を名乗る条件なのでしょうか。
交通の要所であれば無条件に「発信地」の資格を得られるのでしょうか。
その土地における購買量を増やすことがそのまま「発信」と呼びうるのでしょうか。
誰かがものを作って、誰かがそれを手にいれ、この世界を歩き、冒険する、航海する、その先で別の何かを生み出す、その環流を、その風土を、言語化し、整理して、文字通り「発信」することこそ、私たちが再び「文化の発信地」を取り戻す方法だと考えられるでしょう。
それにしても「文化の発信地」というにくい言葉は、人類の終焉まで残ってほしい言葉でもあります。
そこには、人生の時間を思いがけない生彩でいろどるための憧れと、それがなければおしまいではないかという危機感と、ふたつの気持ちがないまぜです。混ざりながらも、自然とひとつの方向を目指すその思いは、社会のそこかしこに生え出てくる壁を突破するためのエネルギーとなり、すべての人にその力を与えます。
これが、「文化の発信地」なる称号に感じられる、私たちの実感です。
かつて、人はなぜ、「発信地」に集まったのか。
何かを創造しようとした経験のある人なら、思い当たることがあります。
ものを作ろうとしたって、いつだって、材料も、アイディアも、不足しているのです。
だから、予想を超えたインスピレーションを得るために、私たちは友人に会いに行き、店に入り、ものに触り、新しい音楽、新しい書物、新しい映画を求める。
するとどこかで必ず、創造性の植木鉢につめるための土が見つかる。
ならば、とっととその場所で作ってしまう方がいい。
結果として、人がそこに寄り集まるのです。
モーヴ街は、オンライン上のストリートです。
芸術家たちが、デザイナーたちが集結し、モーヴ街でしか生まれ得ないもの、モーヴ街でしか手に入らないものを日夜つくり、取り揃えています。
現実のストリートがそうであるように、モーヴ街は行き通いの場であり、立ち止まりの場としてあります。
彗星ブランドは、『彗星ブッククラブ モーヴ街店』を新設し、「文化の発信地であるモーヴ街」、「文化の発信地である彗星ブランド」の発展に取り組みます。
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著者|森 大那
書籍名|【サイン入り】『深い瞳を鋭くして』
サイズ|14.8cmx10.5cm
260ページ
発行日|2023年6月30日
装幀|森 大那
発行|合同会社彗星通商
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