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【京大吹零会 起業家インタビュー】株式会社AZOO 横田 裕子さん 工学部卒 

「京大吹零会」とは、京大出身(在学中も含む)の起業家を集めた、起業家コミュニティです。京大には変人が集まると言われるように、京大出身の経営者も変わった人が多いので、周りに理解されず、孤独になってしまうこともあります。そんな「吹き零れ」たちが集まり、経験をシェアして切磋琢磨する、唯一無二の会です。メンバー同士の交流を促すため、また、これから起業したい方に吹零会メンバーを知ってもらうため、隔週で「京大吹零会 起業家インタビュー」をオンラインで放送中。このイベントで収録した起業家たちの講演内容を書き起こし記事としてお送りします



【要チェック!】

公開インタビューのスケジュールや、記事を見て「起業したい!」と思った方のための「京大・起業相談デスク」についてはコチラをご覧下さい。

学生時代のこと。

私がちょうど中学生の頃、環境問題という言葉が世の中に知られ、問題になっていました。レイチェル・カーソンが書いた「沈黙の春」がベストセラーになっていた頃です。そういうのに影響されて、進路を考えた時に環境っていうキーワードで勉強しておくと将来につながるんじゃないかと思いました。
そんな観点から大学を調べた時に京大の中に地球工学科というのがあって環境の勉強ができるらしいということがわかったので、志望して進学したんです。とはいえ、勉強っていうよりもずっと陸上をやってまして、部活ばっかりの4年間だったんです。なので校舎じゃなくてグラウンドで青春時代を過ごしてました。
工学部の学生が大学院に行く場合は(市内中心部から離れた)桂キャンパスに移らないといけなくて、でも私はなんとか陸上を続けたかったので、吉田キャンパスに残れる方法を探したら、限られた研究室の中から選ぶことになり、最終的には大学院にも行きませんでした。

そんな選び方だったんですが、所属していた研究室がけっこう面白くて、百貨店と組んで環境に関する展示会をやったりとか、鴨川で環境を感じよう、と題してウォーキングツアーをやってたりとかどっちかというと研究よりもイベントをやってるみたいな研究室だったんです。
伝えることって面白いなと感じて、メディアの世界に行きたいなと思いまして。最初の就職は毎日放送という大阪のテレビ局に就職しました。最初の2年は東京で、テレビ編成っていうところに配属になりました。
人気番組の収録に立ち会わせてもらったり、視聴率を分析したり、当時から韓国のドラマがめっちゃ流行ってたんで買い付けをしたりといった2年間でした。
その後2年間は大阪に配属になり、いわゆる制作の現場にAD(アシスタント・ディレクター)として入りました。三脚を担いで走り回ったり、忙しすぎてトイレで仮眠するみたいな生活をしてましたね。
過酷も過酷、超繁忙な毎日を過ごしました。

4年間の中で、テレビ局の世界の中で生き残るにはコンテンツ制作力、つまりクリエイティブ能力が不可欠だなと感じました。仕事は過酷でしたが給与は良かったですし、何なら起業してる今よりも全然良かったんですが 笑 そのまま局員みたいな感じで居座っちゃうと、多分どっかで何も使えない人間になるなと思いまして。制作の現場で出会った優秀なクリエイターの方と比較して、自分は全然できなくて。そこにちょっと限界を感じてしまって、クリエイターになる才能がないならいったんあきらめようと思ったんです。

すでに20代後半だったので、ガラッと環境を変えて自分の強みを作りたいというか、何かこう、1個で良いから柱となるような強みを見つけたいなと思って退職してインドネシアに留学したんです。

なぜインドネシア?と聞かれましたが、インドネシアには縁もゆかりもありませんでした。  もちろんハーバードとかケンブリッジとかの名門校に留学したいなと思いましたが語学力も含めて全くそんな能力はないし、欧米の超エリートと戦っても絶対勝てないと思ってたんですよ。なのでマイナーだけど、未来のある国に行って勝負するのがいいかなと。 調べてみたらインドネシア語って世界一簡単だという話があり、実際簡単だったんで、それなら私もできるんじゃないかと思ってインドネシア行こうと思ったって感じですね。
インドネシアが国家として、日本のような先進国向けにも奨学金を出してくれていました。それを活用しつつローカルの友達を作って、生活費は極限まで抑えて、1ヶ月リアル1万円生活をしていました。上水はないので、シャワーも時には溜めた雨水、もちろん冷房もテレビもないネズミも出る、みたいな環境で1年半ほどを過ごしました。

厳しい環境でADをしていたのが活きたのかもしれませんが、インドネシアの暮らしの方は、とても楽しかったです。途中で日本へ帰ろうって気持ちにはなりませんでした。精神的にとても自由だったから、毎日生き生きしていました。
大学院もインドネシア語の授業も午前中しかなかったですし、連絡もなしに先生が来ない日があったりして。そんな日は自分で勉強して、ついでに英語も勉強して、終わったら昼から何しよっかなみたいな生活でした。久しぶりの超モラトリアムですよね。自分で自分のスケジュールを決められる生活がとても合っていました。

起業のこと。

インドネシアで就職するか、インドネシアに進出したい日系企業で働くか、漠然と考えていたのですが、友人がJICAで働いていて、常に人手不足で募集してると教えてもらって。ご縁をいただいて、日本側のJICAに入りました。灌溉の施設などの円借款の審査をす含めて部署にいて、いろんな手続きの担当をしていました。専門家を派遣する案件もありましたね。

その後、環境省に移り引き続き、中央省庁での国際協力を行う業務につきました。東南アジア諸国、たとえばインドネシアなどへの国際協力プロジェクトに従事し、インフラを日本から輸出するための施策に関わったのですが、これらの経験で視野が開けまして。
というのも、書類を作るたびに、「それは日本にとって何の外交的利益があるのか?日本企業に取って、日本経済にとって利益があるのか」とか、「そのプロジェクトを実施することで、協力した国の環境が10年後どう変わるのか?」といった議論があったんです。相手の国や、日本という「国家」のために何かをするとか、未来に向かって事業をするのは、すごく面白いことだなと。
世の中を見てみれば、2014年ぐらいから日本への観光用のビザが緩和されて訪日客が急激に伸びている時期でした。JICAや環境省の時にしていたような、日本から海外に企業を持っていくことも大切なんですが、インバウンド需要が高まる中で日本に来てもらって、地方とか中小企業の活性化につなげていくようなことができたら、日本の国の将来にプラスになるんじゃないかと。
そう考えて観光分野で起業しました。2020年の1月に創業したので今5期目になってるところですね。カナダ人の共同創業者と一緒に起業したんです。

実際やってみたらすごく大変でした。宿泊施設向けの業務システムを作ってるんですけどホテルとか旅館の業務システムなんで、当たり前ですが24時間365日、きっちり稼働させないといけないですし、会計とかお客様の情報とかを管理するサービスなので、責任も重たいです。経営的にもピンチを迎えたこともありますが、先輩の経営者の方にアドバイスを求めて、乗り切れたおかげで、今起動に乗っています。日本は人口が減少していくので、どうしても元気がなくなっていくわけですから、海外のエネルギーを日本に入れていくことが必要だし、そういったことに関わりたいんです。観光のフィールドだと、若い方がホテルを作って地域を活性化しようと挑戦するケースもあるので、そういう人の後押しをしていきたいですね。先輩方のお話を聞くと自分の何かハードシングスなんて本当ハードシングスじゃないなと思うことが結構あったりしたので何かそれをもうとにかく乗り切るまで頑張るしかないかなっていう感じです 笑

20代ですべきこと。

私の例は参考にならないかもしれませんが、インドネシアに行ってみよう!とか、定石から外れた場所に身を置くと、価値観が大きく変わるので、それを1回やっておくとすごく人生が開けると思っています。
最初は、チャレンジもありますが、実は良い思い出話に変わっていくんです。何かそういうガラッと環境を変える経験をしてもらえたらいいかなと思います。
インドネシアで「日本といえば何?」と友達に聞いたら、味の素とおしん(注:日本の古いドラマ)と、私も知らなかった古い民謡の3つしか出てこなかったんです。韓国は?と聞いたらK-POPとか韓国ドラマと知っていたのに。いくらなんでも、「おしん」はないだろうと……笑 それを聞いて、日本人としてどうしていったらいいんだろうとか、もっと日本のことを観光を通じて、伝えたいって強く思いましたね。
そうやって自分の常識が通じないような国に飛び込んでみて生き抜いていく経験みたいなのが、後で生きてくるんじゃないでしょうか。
最近若い方で「アフリカ行きます!」と宣言している方がいらっしゃいますが、そういうのが良いと思いますね。


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