名前のない森 | 第1章 (1)
Chapter 1
森の中、イゾルデは息をした。
夜の森のざわめきがイゾルデを包む。すぐそこにある木々が、遠いところにある木々が、すべての木々が、一斉に風と踊っている。イゾルデは目を閉じて、それを聴く。森は深く、どこまでも深い。ここがどこなのか、まったくわからない。けれど、風に踊る森に抱かれていることに、イゾルデは深く安心をした。きっと大丈夫。
何かから逃げていたのか。それとも、何かに向かっていたのか。記憶は曖昧だった。ぼんやりとしたカタチにならない色彩は浮かんでくる。その色で、それが喜びであったのか、悲しみであったのか、そんなことも何となくわかるような気がする。浮かんで来る色彩はいつも混ざり合っていて、そこには様々な想いがあるように感じられた。悲しいと嬉しいとそれ以外の様々な想いは、揺らめきながらひとつになろうとし、そしてまた離れ、そうやって永遠に運動を繰り返していた。その色彩を辿りながら、その変わりゆく色たちをイゾルデは心の中で追いかけた。でも、確固たる輪郭のある答え、記憶、そうした何かに出会うことはなかった。
揺らめく想いを追いかけながら、イゾルデは目を瞑る。森のざわめきを聴きながら、その色彩を追いかける。何かが思い出せそうな、そんな予感がして、名前をつけるそばから逃げてゆく色たちをどこまでも追いかける。木々は風に揺れて、揺れながらひとつになって、森という全体としての生命をそこに差し出そうとしていた。
夏の始まりの恥じらうような暑さが、森の空気の冷たさと出会う、その瞬間が感じられる。熱気と冷気は、混ざり合うふりをしながら、交互にイゾルデの肌を通り過ぎてゆく。空気のその正直さに、イゾルデは目を瞑りながら微笑んだ。
木々のざわめきが止むと、あちこちで様々な虫たちが羽をこすって音を立てているのが聴こえて来る。遠くでフクロウも鳴いている。森に棲む生命たちが、静かに音を立てている。そして一瞬、完全な静寂が訪れる。するとまた、あの魔法のような風が中心から起こって、森の全体に広がっていった。イゾルデは、その音の物語を目を瞑ったまま聴いていた。
イゾルデというのは、きっと本当の名前ではないのだろう。本当の名前は思い出せない。それでも、森の中でひとり、自分自身に語りかけるのに、名前が必要だった。名前。名前。ふと、イゾルデという言葉が頭を過る。
イゾルデ。
自分をそう呼んでみて、そこに感じられる、半分の違和感と、半分の希望のようなあたたかさにイゾルデは満足した。
うん、イゾルデでいい。
(つづく)
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|a story|名前のない森
全7章 33回 - 森と街、仔鹿と彼、陽光と雷雨、教会と閃光、ひとりとふたり。交錯しながら溶け合う、ふたつの物語。
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