このままではがらんどう
深夜に敬愛する鈴木貴雄のドラムを観ていたら、ふと考えること。
自分はまだ22歳。なんやかんやで社会人になったばかりだけど自分はそれなりに物事を見る目とか考え方とかは知っている「つもり」で生きている。しかし、まだまだ若い。新生活が始まって大人を相手にして尚更強く思う。多分誰しもが経験するであろう、小学校6年生から見た1年生、中3から見た中1、高3からの高1。そして、大学4年から見た1年生を見た時の勢いや若々しさ。年齢を重ねるにつれて、その段階ごとにフレッシャーズを見ては若いなぁ!頑張れよ!とか思ったり、悩んでいる姿を見て微笑ましくも背中を押してあげたくなったり、物事を教える機会が多くなったりして麻痺してしまう。
今夜も後輩たちの新歓ライブが良かったとか、悔しいとか、反省点がある、何々が楽しかった、笑えたとかTwitterに流れてくる。(有り難いSNSだ)老婆心というか、何だか微笑ましく、懐かしくなっている。それを見て自分は例の如く、若いなぁとか何か勢いを感じて自分の古巣の将来が楽しみになっている。
けれど僕も社会全体から見ればたかが22年生きただけで物事を理解した気でいるバカな若造に変わりない。勘違い甚だしく、何が老婆心だという感じだろう。これは僕が昔からイメージする「大人」に早く近づきたくて無意識に形成された偽りの落ち着き、大人しさだと思う。僕はまだまだ何も解っちゃいないバカでグズなホラ吹き野郎だけど後輩達の前で虚勢を張っているに過ぎない。「ハッハッハ可愛げのある後輩達じゃないか、その勢い忘れんなよ。君たちにはまだ時間がある。」という言葉は自分に言い聞かせたいのかもしれない。
自分は大人のフリをするのにはもう慣れていると思う。僕だけじゃなくて同年代なら嫌でもそろそろ慣れてくる頃だと思う。
僕は22歳で、若く居るうちにもっと熱を持ちたい。変に大人ぶってるのではなくて、はしゃぎたい。全力でありたい。何についてもエネルギーをもってそれを余すことなくさまざまな方向に向けたい。別に意識高く〇〇をしようとか、人生の目標があるとかではない。僕はいい大人になりたいから今を全力で生きる必要があると感じた。カッコいい大人になるための下積みが要ると感じたから。(ライブ映像観ながら考えることじゃないが)
将来自分が30,40,50と中年になり、60,70と老年になったとき、本当にカッコよくて渋い大人になるには今を頑張ることだと思った。引き算の美学を僕は感じているが、将来引くために今はなるべく足しておきたい。引いて何も無くなってしまう大人にはなりたくない。
同じ曲の中でも時の流れによって音符を減らしてより良く見せるにはまずは誰もできないような事を、とにかく速く強くエネルギッシュなプレイをしなくてはそこに辿り着かない。その美しい引き算の先の魂がこもった一音だけを掬い取って、自分のものにしようとしても無理だ。僕のような若造の偽物の一音と、様々な経験を通してたどり着いた一音では歴然の差が出る。憧れのドラマーの真似をしても結局、凄みが足りなかった。音楽だけじゃなくて多分全てにおいて言えるんだと思う。なら、今からでも遅くないから今はなるべく大人ぶらずに、足して足して生きていこうと思う。
きっと明日死んでも足していれば後悔はないはず。
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