#042旧新田地を歩くー身近な史跡、文化財の楽しみ方(8)
今回も少し時間を作って、原稿作成のための写真撮影に現地調査に出ました。今回のフィールドはJR八尾駅の南側、明治時代には龍華村大字植松、大字安中付近を歩いてみました。大字安中は、江戸時代には大和川だったところで、川の付け替えによって新田開発され、安中新田として新たな新田地として河内木綿などの栽培がおこなわれた場所です。
まずは渋川神社に行ってみました。渋川神社はJR大和路線の八尾駅を南口から下車してすぐの場所にあります。渋川神社は式内社ではあり、若江郡に所在していましたが、天文二年(一五三三)の大和川の水害で被害にあい、現在の位置に再建されたとのことです。
鳥居をくぐったところすぐに国旗掲揚台がありました。昭和3年12月新調の日付が入っています。宮の前町から寄進され、昭和3年の御大典記念で設置されたようです。祭神については公式HPをご参照ください。
境内には、春日社、稲荷社、厳島社などの摂社もいくつも含まれており、境内全体の敷地面積としては2214坪と、結構な広さを持つ神社でした。個人的には玉垣などに何軒かの石工の名前があったことが気になりました。石材加工が盛んだったのか、調べてみる必要がありそうです。また、隣接する大字安中の地方名望家である植田一郎の寄進した灯籠も、拝殿の前で見つけました。下の写真になりますが、年代が入ってなかったのが残念でした。
『中河内郡誌』には「社域広濶にして老樹鬱蒼として枝を交へ」とあるとおり、広い境内には何本ものクスノキの老樹があり、大阪府の天然記念物にも指定されています。また祭神の一つが菅原道真ということもあって、梅もあちらこちらに植わっていて、春先にはきっと境内一帯から良い香りがするのでしょう。
戻るまでの道中の道路が下の写真。googlemapや住宅地図で見た時には直線の道路で表現されているのですが、元々が河川だったところを埋め立てた土地だけに元の河川が流れていた通りに埋め立てているので、その後も土地の区画も曲がったままになっています。単なる道路なので漫然と見てしまいがちですが、こういうところに江戸時代の土地の名残が残っています。
そのあと、何カ所か寺社を回り、植田家住宅も見学しました。こちらは建物が寄贈される際の初動調査に関わっているので、しばらくぶりの訪問です。植田家住宅は、大和川の付け替え後に出来た安中新田(明治以降は大字安中)の新田会所として利用されていた建物で、植田家が新田支配人を務めており、現代にいたるまでこの地に住んでいました。先の植田一郎は明治時代の当主です。彼は新田で生産している、地域の商品作物である木綿を保護するために綿花海関税撤廃の反対運動をしており、大阪府庁まで筵旗を打ち立てて地域住民らを率いてデモをしに行ったという人物で、その様子が新聞で報道されることもありました。残念ながら綿花海関税は明治29(1896)年に衆議院、貴族院で可決されて廃止されますが、植田一郎は地域の産業保護などに奔走したという業績があり、『自由党史』に記載されている唯一の大阪出身の民権運動家としても知られています。その植田一郎の居宅が植田家住宅です。
以前に調査をしている最中には、たくさんの物が置かれている中、二間続きの広間を掃除して何とか作業場所を確保して調査する、といった状態でしたので、他の建物や庭などを見て回る余裕もなく、門長屋に稲荷社を祀っているなんていうことも全く知らず、今回の訪問で初めて知りました。
今回の訪問では、洗面所、トイレ、風呂場がなかなか興味深かったです。明治時代以降にしつらえられたものだとは思いますが、白い大理石にはめ込まれた陶器の洗面ボウル、排水溝には昔懐かしいチェーンを付けられた栓が繋がれています。
トイレには小便器と大便器が別室にしつらえられています。通称あさがおと呼ばれる小便器は壁に据え付けてあり、陶器製で接地部分の床は室内の他の床と異なり、竹を使ったものになっています。竹は水をはじくので小便器からはねた小便が零れ落ちても、さっと一拭きするだけできれいになり、衛生的であるために、よくこのようなしつらえにされています。大便器の方には個室にトイレットペーパーホルダーが見当たりません。おそらく右前にある籠に落とし紙を積み上げていたのでしょう。大便器も小便器と同じ色の陶器製で出来ています。
風呂場には、洗い場部分に陶器製の白い洗面台がしつらえられています。よく見ると、蛇口のすぐ手前にソープディッシュに当たる部分があり、石鹸が置けるようにへこんでいます。風呂は檜の四角い風呂で、中を覗くとブリキで出来た風呂釜部分が見えています。昔ながらの昔ながらの鉄砲風呂の原理を使った構造です。湯船の側の壁面には蛇口が付いているので、ここから水を注いで、外から薪などで風呂を焚いたのでしょう。筆者の家も子供の頃にはこのような作りの風呂でしたが、うちでは風呂釜はむき出しではなかったので、想像してみるにこの状態ですと、ちょっと油断すると風呂釜に触れてしまってやけどをしてしまうのではないかと思ってしまいます。
植田家住宅の後に、さらに西へと歩を進め、植松共同墓地も見学してきました。こちらは日露戦争に従軍した戦没者の墓がいくつかあったり、ご近所に天理教の教会があったためか天理教の信者の墓がいくつも見受けられました。また何の師匠かは記載がなかったので判らなかったのですが、墓石の水鉢部分に「門弟中」と記された墓がいくつもありました。何か芸事の師匠なのでしょうか。この点はもう少し調べてみたいと思います。
半日ではありましたが、JR八尾駅南側を重点的に、なかなか有意義な調査が出来ました。植田家住宅の学芸員の方には、近隣にウィリアム・ヴォーリズが建築したキリスト教会があるという情報もいただきましたので、またの機会にそちらも見に行ってみようと思います。