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私の生い立ち(誕生から少年期)

◇私の生い立ち(誕生から少年期)◇
◇誕生から幼少期

 私は、自然が豊かな田舎で専業農家を営む七人家族の長男として生まれました。家族構成は、曾祖母、祖父母、両親、私、弟でした(曾祖母は私が一歳の頃亡くなりましたが、私のことを可愛がってくれたとのことです)。動物も沢山いました。犬、猫の他、牛一頭、ヤギ、鶏がいました。祖母がめちゃくちゃな人で、家の中を引っ掻き回すこと以外は、動物や自然、近所の気の知れた人たちとの触れ合いの中で、比較的やりたいことを好きなようにやり、自由に育ちました。
 祖母のことに少し書いておきます。祖母は、今から考えると自己愛着等の何か精神面に障害があったのではなかと思います。家事や家の仕事の手伝いは全くと言っていい程何もせず、日中はテレビを観ながら、たばこをふかし、お茶をすすることで時間を過ごすことが多かっと思います。アルコール依存もあり、酒は主に夜吞むのですが、子供たちが寝るころになると、大きな声でいろいろと喚き散らしていました。それに対し、祖父は時々言い返したりするのですが、基本的に諦めてしまっていて、何も言わないことが多かったです。それでも偶に怒りがこみ上げるようで、夜中に「オドレ、叩き殺したる」と叫びながら、棒を持って逃げる祖母を追いかけることがありました。
 そんな祖母の攻撃の矛先が、嫁である母にしばしば向けられますので、母と祖母の関係は酷いものでした。最後には、母は食卓で食事をせず、時間をずらして台所で一人食べるようになっていました。例えば、祖母が夜中に、オカメ(母のことです)がついだ飯は不味くて食えんから始まり、ウチの嫁はパンパン(昔の売春婦の呼び方)で誰とでも寝るとか、クソジジイ(祖父のこと)とも寝とるなんて喚き散らすものですから、無理もありません。
 祖母に関する話の最後に、お風呂の話をしたいと思います。お風呂は、祖母、祖父、母と子供たち、最後に父の順に入ることが多かったのですが、私たちが風呂に入ろうとすると、湯舟に物凄い量の垢が浮いていることが時々ありましたし、何だか分からない大量のゴミのようなものが入れられていることもありました。なんでそんなことをするのか、普通の神経では理解不能ですが、おかしなことを言ったり、したりする人でした。
 そんな祖母を祖父は諦めたかのように放置していたとかきましたが、父はどうしていたかについて書きます。父は、家のゴタゴタから逃げるように夜は外に出ていることが多かったです。どのような心理なのかは分かりませんが、祖父と同様、諦めているかのように祖母のことを放置していました。それでも偶には怒りが起こるようで、朝起きると大きな灰バチが土間に放り投げられて割れているとうことが何度かありました。
今思うと家の中は酷い状況だったはずなのですが、私自身はなぜかそれには無頓着で、それ程気にしていませんでした。

◇急性アルコール中毒事件

 祖母が家の中をかき回すので、家の中がゴタゴタしていること以外は、寛容で自由な雰囲気の家でした。お酒についてもとても寛容で自由な家でした。そのため、私がお酒の味を覚えたのも早かったです。4、5歳の頃から、父がお酒を呑んでいると、湯呑を持って父のところへ行き、ちょっと入れてもらい、それを呑むようになっていました。ウイスキーとビールは余り美味しくないけど、日本酒はとっても美味しいと思っていました。日本酒の味を気に入っていた私は、もっと日本酒を呑みたいと思うようになっていきました。
 6歳になる頃、とうとうそれを実行したのです。家族が留守で、家に居るのは私と弟だけでした。最初は一升瓶から湯呑に注いで1杯吞みました。ごくごくとジュースを飲むような感じで呑みました。これがやっぱり美味しくて、直ぐに2杯目を注ぎ、2杯目もごくごくと一気に吞みました。
 もっと呑もうと思い、3杯目を注ごうとしたのですが、一升瓶が重くて注ぎにくいので、お酒を一升瓶からヤカンに入れ、3杯目からはヤカンから湯呑に注いて呑みました。何杯呑んだかは分かりませんが、お腹がいっぱいになるまで呑んだように記憶しています。弟にも、お前も呑めと勧めましたが、吞みませんでした。
 お酒を呑んで暫くすると、グルグルと目まいがするような感じになり、さらにはフラフラして歩けなくなっていき、変だなと思っているうちに、意識が混濁していきました。弟によると、急に暴れ出して襖を2枚ほどなぎ倒した後、ひっくり返って動かなくなったそうです。それを見ていた弟(当時4歳になる少し前)が、これは大変だと思ったようで、畑の父母に私の様子を知らせに行ってくれたのだそうです。
 病院へは父が車で運んでくれました。病院に着いたときには、鼓動が弱く、血圧は測定不能で、瞳孔反射も無く、医師は直ぐに助からないかも知れないと言ったそうです。いつこと切れるか分からないので、処置室に父母も一緒にいていいということなり、処置が施されたそうです。
 意識は病院に搬送された日の夜中に戻りました。意識を失っている間、一種の臨死体験のような変わった夢を見ていました。憶えている夢の内容は、深い井戸かトンネルの中を歩いて行こうとしていると、何だか後ろの方から自分の名前を呼ぶ声がするのです。声が聞こえはじめた初めの頃は、無視してトンネルの中をさらに進もうとしていたのですが、繰り返し自分を呼ぶ声がするので、うるさいなとか、わずらわしいなとか、何なんだと思っているうちに、段々と目が覚めるようにして意識が戻っていきました。
 病院は2晩泊まって退院しました。医師は急性アルコール中毒の後遺症(麻痺や知覚低下等)を心配していたようですが、それも無く、直ぐに回復して退院することができました。
 退院後、父母はなぜか私のことを余り叱りませんでした。ただ、アルコール類はどこかに仕舞われており、これからはお酒を勝手に呑んだりしないようにと強く言われました。呑みたいときは、そう言いなさいと言われました。普通なら、もう呑んだらダメだということなるのだと思うのですが、私の家はそうではなかったのです。急性アルコール中毒で死にかけた後も、相変わらず私は、父が晩酌していると、湯呑を手に持って父のところに行っていました。
 次に紹介するエピソードも、私自身や私の自由奔放な様子がよく分かる内容だと思います。

◇明美ちゃんとの思い出

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