京都のアンダーグラウンド


京都アンダーグラウンドの代表格といえば祟仁らしい。祖母の住んでるその土地に幼い頃から週末になると訪れ高校時代には居候をさせてもらっていた私から言わせればそうだともいえるしそうじゃないとも言える。
今は高齢化と過疎化がすすみ平穏な町だといいたいけれど先日 殺人事件が起こった。ほら、やっぱりあの地域はと言われもしたが容疑者として連行されたのは東京にすむ青年だった。
私が物心つく前はどうだったか知らない。けれど幼い私から見ればそこは、美味しいものがたくさんある町だった。
市風呂から出れば天ぷら屋さんが二件並んで天ぷらを売っていた。ジャガイモの天ぷらが美味しかった。二件並んだ天ぷら屋さんは、一人はほっそりとしたおばあさん。一人はぽっちゃりとしたおばあさん。お隣同士仲がいいのだろうかといつも気になっていた。
少し歩けばお好み焼き屋さんにかき氷。
氷を拳で砕いたんじゃないかと思うほどのジャリジャリとしたかき氷には白玉がついていた。
路地裏には、でっかい鍋で煮られたおでんがあった。
私は、よくカマボコを買ってもらっていた。カマボコを三角に二等分にして、割り箸がさしてある。
あつあつの一本40円で売られているカマボコは汁が染み込んであつあつで、ハフハフいいながら食べていた。
ホルモン屋さんにうどん屋さん
チョボ焼きに、だがし屋、焼そば、
ホットケーキ粉で作ったクレープ、
キスの天ぷらや肉じゃがかやくご飯ぬか漬けがある惣菜屋さん。
食べるものには困らなかったしそのどれもが美味しかった。
ヤクザ屋さんが黒服のままキャッチボールしていたり機動隊みたいな人達が盾を持ってズラリと並んでいたこともあったけれど。
ここに住んでいることを人に知られたら偏見の目で見られるんじゃないかと思ったこともあったし今も思うことはあるけれどいざ、建て壊しが始まって、そのあとに大学が建つのだとするとそれで良かったと思う反面、寂しい気もする。
少なくとも学校の道徳で見た同和教育ビデオに出てくるような大人しく真面目で悲壮感漂う人たちに私は(少なくとも祟仁では)会ったことがない。
私の知ってる祖母やおばちゃんやおっちゃんたちはいつも陽気すぎるほどに陽気で、いい意味でも悪い意味でも開けっぴろげで生命力に満ち溢れていた。
おばちゃんは、ほとんどがパンチパーマに花柄のモンペをはいていた。
市風呂の女風呂で暴れまわる子供を
『そんなに暴れたらチンチン噛みちぎるで!』と独特のワードチョイスで叱っていた。
夏には、ヤクザ屋さんが開催するお祭りに出かけていた。
入れ墨が入ったテキ屋のお兄ちゃん達は威勢がよく屋台は全部 タダだった。
祖母は、若い頃、ヤクザ屋さんのエライ人の子守りをしていたらしく祭りにいくとお小遣いを貰っていた。
貧しい子供時代を過ごした祖母の中で子守り時代のことは、とても楽しい思い出だったらしい。坊(ぼん)を連れて映画を観に行ったり芸能人に会ったこともあると何度も何度も嬉しそうに話していた。
確かに祖母の家には、ヤクザ屋さんの名前が入ったタオルが何枚もあった。
イトコのお姉ちゃんが箔がつくからと、タオルが欲しいと言ったとき、おばあちゃんはそれを持っていたらややこしいことになるかもしれないからあまり人目につかないようにと注意していた。
そう注意する祖母の枕には、
何代目○○襲名と入ったタオルが枕シーツの代わりに縫い付けられていたし、部屋で使っていた団扇にも何代目○○襲名と入っていた。
私は思わず笑ってしまったけれど祖母は字が読めないから、これまぁ致し方ないのかもしれないと可笑しいような物悲しいような何とも言えない気持ちになった。
元来、人の話をあまり聞かない性分なもので祖母の話もおとぎ話のように聞き流していたけれどあるとき桐箱に入った牛肉が届いた。祖母が言うには坊『ぼん』が持ってきてくれたらしい。
今まで見たことも食べたこともない美味しい肉をほうばると現金なもので祖母の話す【坊(ぼん)】は、偉い人なのだと俄に現実味がでてきた。
簡単な字しか読めないけれど、(簡単な字しか読めないからこそかもしれないが)祖母は愚直なほどに地道に地に足をつけた人生を送っていた。尊敬する人はときかれたら、まずまっ先に祖母が浮かぶ。
幼い頃から貧しい一家を支えるために釘を拾って家計の足しにしていた。
女盛りの頃には、子供を4人抱えて途方にくれていた祖父と結婚した。
随分な年の差があったのだが
祖母の父親が『人助けのためだと思って』と言って結婚をすすめたのだそうだ。
祖父は子供を抱えて心中しようとするぐらい追い詰められていたらしい。
そんな経緯はあったものの祖母と祖父は仲が良かった。
記憶の中の祖父は、よくセブンスターを吸っていた。
祖父は研ぎ師で当時日当で9000円ほど稼いで帰って来る日もあったらしい。
えらく短気で蕎麦屋の依頼で包丁を研ぎ
にいったくせに仕事終わりに、そこの蕎麦屋で注文した蕎麦が出てくるのが遅いと怒って店を出ていく。
母に言わせれば【おとんはムチュウや】だそうだが
その短気は当の母に立派に受け継がれている。
私は祖父は怖かったけれど祖父は私をえらく可愛がっていて赤ちゃんの私をチャンチャンコに包んで七条大橋を何度も行き来していたそうだ。
そうすると近所の人が
『可愛いですね』と声をかけてくる。
そうすると
『へぇ、孫ですねん』
と返すのを楽しみにしていたと何度も聞かされた。
そんなに可愛いかったのかと思われると面映いので、申し添えるが私は赤ちゃんの頃は男の子とよく間違えられお地蔵さんみたいだと手を合わせられたことも度々、あせもが頭皮にできたからと髪の毛を2回 バリカンで刈られていた。
写真をみてもここまで目が垂れるのかというほど垂れている。

そんな祖父や祖母との想い出が色濃い祟仁の町並みが消えようとしている。歴史や文化も消えてしまう。同和や被差別部落は当事者である私にはあまり聞き馴染みがない。
周りはみんな在所(ざいしょ)と言う。
在所ならではの食文化といえば、
さいぼし(馬の干し肉)と
油かす(牛スジをひたすら焼いて脂を捨ててカリカリにしたものに醤油や砂糖で味付けしたもの在所の家庭料理ともいえる)
ちょぼ焼き(ちょぼ焼き専用の鉄の板にたくあんやネギやこんにゃくや唐辛子をいれた粉物)
などがある。
これらも継承する人がいなくなってしまう・・・と私は北海道出身の夫や幼馴染に油かすの作り方を習ったほうがいいと力説している。私は料理下手だから出来ないし油かすを作る根気がない。
祟仁の過疎化は進み天ぷら屋もおでんやも駄菓子屋もなくなってヤクザ屋さんの姿もない。私の知ってるまだ活気がかろうじてあった頃の町並みは、すでに失われて久しいけれど大学がたち活気が戻ってきたとしても、それはもう私の知ってる祟仁じゃない。寂しいけれど長い目で見ればそれは良い変化なのだ。けれど祟仁の昔の姿が語られる時に物騒な町だっただけですませて欲しくないとも思う。
勿論 変な人もいた。
服がボロボロでヨロヨロで明らかに不審なおじさんから俺は警察だからエレベーターに乗れと言われたこともある。
柄の悪い人だっていたしヤンキー率は高かったかもしれない。けれど、月並みな言葉になってしまうが、どこにだって良い人もいれば悪い人もいる。
食の記憶と密接に結びつきながら私の中の祟仁は祖母や祖父が住んでいる美味しいものがたくさんある大好きな町だった。私だけでもいいから形に残したいと思ってnoteに投稿。


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