映画「グラン・トリノ」を再考する②
本稿は、映画「グラン・トリノ」を再考する①の続きです。
1.ウォルトの孤独
まず、主人公はフォードの自動車組立工を50年勤めあげたポーランド系米国人、ウォルト・コワルスキー。見た感じ、まあまあなおじいちゃんです(当時出演していたイーストウッドは78歳)。
妻を亡くし、彼は孤立した生活を送るようになります。彼の息子たち(そのうち一人はトヨタに勤務しています)や孫たちとは心の距離があり、また亡くなった妻の希望により、神父がたびたびウォルトの元を訪れますが、それを拒絶します。
なお、ウォルトは朝鮮戦争に従軍した際に、相手方の若い朝鮮兵を殺していることがトラウマになっています。それを示す神父との印象的なやりとりがこちらです。
町のバーにて、神父がウォルトとの対話を試みようと、静かに語りかけます。
このシーンでは、ウォルトが戦争という過去にとらわれており、うまく「今を生きる」ことができていないことが分かります。
2.隣人との不協和音
ウォルトは、いかにも「年配のアメリカ人男性」という感じ(※映画公開の2008年時点で)で、家にはアメリカ国旗が掲げてあり、彼の大事なものは映画のタイトルにもある、フォード社のヴィンテージカー「グラン・トリノ」。家の見た目、内装なんかも、アメリカっぽい、いわゆる「インダストリアル」な感じ。また、服装はアメリカンカジュアルと呼ばれる恰好(彼はかならずベルトをし、シャツをチノパンにインしているのです)をしています(彼がフォードの自動車組立工をしていたことや退役軍人であることが関係しているのかな?と思いました)。
そんなウォルトですが、彼の住む地区はかつて自動車産業で栄えたものの、治安も悪化し、今はアジア人をはじめとした様々な民族が住む街へと変化しています。そして、ウォルトは隣に住むモン族に対し、偏見を通じて批判的な眼差しを向けており、距離をとって接しています。(「バーバリアン(野蛮人)」と呼んでいました)
3.グラン・トリノの強盗未遂とギャングとの対立
様々な人たちと断絶状態のウォルトですが、あるとき、隣の家に住む若者、タオが同族のモン族のギャングに脅され、ウォルトのガレージから「グラン・トリノ」を盗もうとします。ウォルトは銃を用いてタオを撃退しましたが、さらに、ギャングがタオを追い詰めるためにタオの家に押し掛けたり、タオの姉、スーが他民族の男に連れ去られそうになったり、トラブルに巻き込まれます。その際、ウォルトは銃を構えて追い返します。この行動により(ギャング以外の)モン族はウォルトを「英雄」として扱い始めます。
今まで交流のなかったウォルトと隣人たちとの交流が、(タオの盗みという最悪な形ではありますが)始まるという、非常に重要なシーンです。
ただし、大切なものや、自分・人を守るためとはいえ、ウォルトは「銃という有形力の行使」という形で対峙する「男」である、という呪いも同時に観客は見せられる形になっています。
このように、ウォルトは一見偏屈なジジイのように見えるものの、正義感があること、しかし戦争の記憶に苦しんでおり、さまざまな葛藤に苦しんでいるアンビバレンツな人物であることが丁寧に語られます。
さらに、見逃せないポイントがあります。それは、ウォルトは犬を飼っていたり、家の手入れなどが上手く、ケア労働のスキルや関心が高いという描写があるということです。私には、ウォルトの本質は男らしさではないのでは?というメッセージも同時に発せられているように思います。※DIYは「男性的な趣味やスキル」と結びつけられて捉えれることも多いと思いますが、住む人のことを思う、大事なケア労働であると私は思います。