そらのサカナ
ここはどこだろう。朝なのか、夜なのかすらわからない。空はクレヨンで塗りつぶしたように真っ黒なのに、白く乾いた地面がどこまでも続いているのがはっきりと見えた。それから、自分のからだを確認してみる。ぼく自身だった。ただいつもと違うところは、心臓のあたりがぼんやり光っていること。それともうひとつ、違和感があった。
顔が濡れている。手で何度拭ってもそのうち手がべたべたしてくるだけで、止まる気配がない。ぼくは泣いていた。白い服の裾で涙を拾い上げるのをやめて、仕方なく、ぼくは歩き出した。すると、一粒の涙が宙に浮かんだ。頬をすべり落ちることなく涙は次々とぼくの目の前で水滴になる。ふしぎだ、と思ってぼんやりそれを眺めていると、15個目のしずくがみるみるふくらみだした。ぼくの背丈の半分くらいに届きそうになったとき、その球体のなかに何かの像が浮かんできた。見えたのは、ぼくのママだった。
「ママ!」
ぼくは涙の中のママに思わず声をかけた。けれどもその表情はピクリとも動かない。そのうち像はどんどんはっきりとしてきた。それは今目の前にいるようではなくて、監視カメラで撮影した映像を見せられているような、気味の悪さがあった。ママの隣にぼくも見えた。ぼくは息をのむ。これはぼくの記憶だ。暗い顔をしているママ。いつもそうだった。ぼくがテストで満点をとっても、先生に褒められた絵を見せても、ママはいつも難しそうな顔をして、
「次も、がんばりなさいね。」
ちょうど目の前に映ったママの口が、その通りに動いた。痛い、と思った。映るぼくの足は微かに震えていた。きいて、ママ。ほめて、ママ。よしよしって頭をなでてよ、ママ。涙に浮かぶぼくが、ぼくを見ながら叫んでいる。ぼくはぎょっとして、涙をかき消した。すると涙は散り散りになった。まるで、本物の涙みたいに。顔をあげるともう、ぼくもママも、どこにもいなかった。
あまりに動揺して、硬い地面に座り込んだ。するとまた、涙がふわふわとふくらんでくる。やめろと、と短く声を出したけど、すぐにぼくの背丈をおいこして、また何かの像を映した。今度はママじゃない。ぼくのクラスメイトだった。場所は教室だ。嫌な予感がした。ぼくはうずくまって耳をふさいだ。聞こえないように。見えないように。ごめん、と言ってぼくに背を向けたあいつを、もう二度と見たくなかった。足が震えているのがわかる。痛い。ちょうど心臓がある部分が締め付けられるようにぎゅうと痛んだ。薄目でそこに目をやると、明らかにひかりが弱まっていた。ゆっくり、ゆっくりと、輝きが失われていく。ぼくははっとして立ち上がった。目の前の涙に、思いきりの蹴りを入れる。こんなもの、こんなものっ……。
ぼくは走り出した。涙がすごい勢いで後ろに流れていく。涙がふくらみ始めるよりも前に、必死で足を踏み出し続ける。ぼくは泣いていた。宙に飛び出す涙の数は変わらなかったけれど、ぼくは声をあげて、鼻水を垂らしながら、わんわん泣いた。涙の数なんて関係なく、人は泣くのだ。ぼくはこのとき、はじめて心から泣いたような気がした。
どれほどの間走っていたのだろう。涙の合間に、ひとつの丘が見えた。それは、白い地面と暗闇が続くこの世界の中でぽっかりと浮いているみたいだった。黄金色の砂が積み重なってきらきらと光っている。ちょうどてっぺんには、空から光がさしてるみたいに、一筋のきらめく線が見えた。ぼくはもうほとんど光っていない心臓のあたりに手を押し当てながら、祈るような気持ちで丘を目指した。涙はずいぶんと小さくなっていた。
丘のふもとで足を止める。遠くから黄金色に見えた砂は、近くで見るともっと優しい色で、ぼうっと光を放っていた。ちょうど、はじめのころの、僕の心臓みたいだ。小さな丘だったから、ぼくはてっぺんを目指してみることにした。
一歩踏み出すたびに、砂に足を取られそうになる。なんどもよろめきながら、ぼくはまぶしいほうを目指した。近づくたびに、体が軽くなっていく気がした。天国に続く道みたいだった。ぼくは、それでもいいと思った。どうしてぼくは生まれてきたんだろう。ママの目にもあいつの目にも、ぼくは映っていないみたいだった。いや、本当に映っていなかったのかもしれない。もしかしたらこの世界は夢なんかじゃなくて、現実なのかもしれない。誰もいなくて、暗くて、乾いていて、何も聞こえない。ぼくがずっと見ないようにしていた世界が、しびれを切らして、迎えに来たのだろうか。本当に静かだ。今ここで、ぼくが「さみしい」とか「くるしい」と声に出しても、きっとすぐに暗闇に吸い込まれてしまう。
空が近い。ぼくのまわりに散らばる無数の涙がまぶしい光を反射して、宝石みたいにきらきらと光っている。見あげると、小さな星屑が尾を引きながら、ぼくに降り注いでいた。
てっぺんに着いたみたいだ。ぼくはそっと膝を下ろし、もうほとんど光を放っていない心臓の前で手を組んだ。そして強く祈った。そうしなければいけない気がした。
「かみさま、かみさま。どうか連れて行ってください。目が覚めてもひとりなら、ぼくはまた、なんどでも涙を流し、心を痛めるでしょう。もう疲れてしまいました。目が覚めてしまうくらいなら、この光が失われる前に、どうか、どうかぼくを連れて行ってください。」
つむったまぶたにぎゅっと力を籠めると、涙がじわりと広がったのがわかった。それきり、涙は出てこなかった。ぼくの願いを、かみさまは聞いてくれたのだろうか。無音。何も聞こえない。瞼に透けて、光は見え続けている。ぼくはたまらなくなって、手のひらに力を込めた。どくどくと心臓が動いている。いたい、いたい。張り裂けそうだ。とうとううずくまりかけた、そのとき、硬く握った手に、あたたかさを感じた。
驚いて、目を開ける。また、すぐに見開いた。少女が、ぼくの顔を覗き込んでいた。
「いかないで、■■。」
澄んだ声が、はっきりと耳に入る。ぼくには、ぼくとそう変わらない年齢に見えるこの少女が、かみさまだとは思えなかった。よく見ると、白く長い彼女の髪に透けて、赤い翼のようなものが見えた。少女と翼。きみは、天使なのか?
何も話さないぼくを心配そうに見つめたあと、少女はぼくの両手を包み込んだ。あたたかい手。ぼくの手はこんなに冷たかっただろうか。それからおでこにも、同じあたたかさを感じた。
「■■。」
少女がぼくの名前を呼ぶ。また涙があふれ始めた。でも、もう涙は宙に浮かばない。何度も何度も、頬をすべり落ちる。ひどく安心した。これは安堵の涙だった。少女が僕の心臓に手を伸ばす。すると、光が、吸い寄せられるようにして、彼女のちいさな手のひらに乗った。ぼくはただじっとそれを見ていた。少女はそのわずかなひかりをそっと抱きしめた。同時に、ぼくは、まるで少女に抱きしめられている心地がした。ふと少女の目を覗き込むと、切りそろえられた前髪の隙間から、ぼたり、ぽたりとしずくが落ちてきている。ぼくと同じ、透明な涙だった。涙の筋が次第に太くなって、彼女の手のひらにしずかに降りていく。ぼくの光は、その涙に当たるたびに、輝きを取り戻した。ぼくは、同じようにぽたぽたと涙を流しながら、少女の手のひらの中で僕が癒されていくのを見ていた。追いついていくように、痛みは次第に小さくなっていった。
少女が顔を上げた時には、手の中の光は初めのころよりいっそう強くなっていた。少女は少し微笑んで、そっと、光をぼくにもどした。それから、いまだに泣き止まないぼくの手を握って、言った。
「いかないで。私はずっと呼んでいたのに、きみは一度も気づいてくれなかった。わたしはずっと見ていたよ。きみがひとりぼっちだと思う時も、ずっとだよ。今きみがいる世界がきみにやさしくない世界なら、目を、耳を、塞いでいい。きみがきみとして、安心していられる世界にいこう。かけがえのないきみとして居られる世界にいこう。きみを助けてくれるのはかみさまなんかじゃない。■■。きみなんだよ。」
少女の澄んだ声ははっきりと僕に届いた。目と目が合う。その目は真剣そのものだった。
ひとりぼっちじゃない?きみは?見ていた?ずっと?
「さあ、目を閉じて。戻るよ。」
少女が僕の手を取った。
「きみの幸せを願っているひとは、すぐそばにいるの。どうか、そのことを忘れないでいて。」
「まって、戻るって、どこに?夢から覚めるなら、嫌だよ。ぼくは、ぼくは、」
きみの名前すら分からないのに。
言いかけて、僕は言葉をのんだ。少女が消えてしまったから。正確には、宙から降ってくる光が僕を包んでしまって、何も見えなくなった。夢から覚めてしまう。どうしようもなく不安だ。こわい。それでも、同時に、ぼくは、このひかりのあたたかさに、ほんのすこしだけ、救われた気がしたんだ。
* * *
カーテンの隙間から光がさしている。午前9時24分。少年の世界は終わらない。朝日が反射して、水槽の中の真っ赤な金魚が、泣いているように見えた。
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