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『命懸けの虚構〜聞書・百瀬博教一代』#7

相撲取りへの憧れ

 中学時代に、すっかり自我の芽生えた博教は将来に想いを馳せていた。
 自分が何の職業に付くのか、新田新作の養子になって実業家になるのか、それとも大好きな相撲を志すのか、心が揺れていた。

 生真面目に考えれば考えるほど、自分を縛る掟がなければ、立派にはなれないと思い当たった。
 そして、生涯に渡る自分への決め事をした。
 それは、まだ子供なので、はじめてはいないが、大人になったら、はじめてしまうことが約束されたことだった。故に一生やらないと決めたのは……

 それは酒と博打だった。

  博教は子供の頃から侠客の父の下に出入りする、乾分たちの生活を見るうちに、酒・博打は大嫌いになっていた。
  酒で間違いを起こした、父の乾分のインディアンの和が、父に木刀を背負わされる(しよわせる)のを目撃し、そのとき、「一生、酒はやるまい」と決意した。
  稼業が博打打ちにも関わらず、梅太郎は家では賭け事をする姿を見せなかった。
 例外は、競馬だったが、父の使いで馬券を買いに行った乾分の三郎が、サラリーマンの給料2ヶ月分ほどの当たり馬券を呑んでしまって容赦なく殴られた。
「親父の金を早乗るんなら、ヤクザじゃなくて泥棒になりやがれ……」
 三郎は一家を追い出された。
 その日以来、博教は博打には手を出さないと決意し、その誓いを生涯、守り続けた。

  博教が二十二歳の時、三郎と池袋駅で再会した。
くすぶっているらしく、昔のダンディーさは見られなかった。
  その後も、あんまり薄汚れた形だったので、博教は折った札を胸ポケットに突っ込んでやったこともあった。

  博教が博打嫌いになったのは、もうひとつに博打の時に、こずるいことをする人間が多いからだった。
  中学一年生の時、麻雀のつみ込みの名人が家に来て、その妙技を見せてもらったが、その腕に感心しながらも、こんな奴がいる世界では絶対に勝負したくないと思った。
 また仲間同士の麻雀ですら聴牌した自分より下の者や年下が、上の人間に「通す!」などと言うのが許せなかった。
 実際、一時「通す!」で揉めたことがり、以来、二度と杯を囲むことはなかった。
 子供の頃から、ベーごまでもビー玉でもズルする奴がいた。そんなときは「この野郎」と怒鳴りつけた。

  兄の孝治は麻雀好きだったが、三人で組まれてイカサマをされても、それが分かってたところで、喧嘩が弱いので歯ぎしりしている様子は辛いだろうなって思っていた。
  振り返ってみると、父の梅太郎をはじめ、乾分達も博打が稼業でありながらも、身上を起こした者は一人もいなかった。
  そんな中で箱崎の倉吉だけは、仲間内でも博才があると信じられていた。
  実際、夢で三―四、三―四って、言いながら中山競馬場へ行き、百万円儲けたことがあると言っていたが、「そんなことは生涯に二度しかなかった」と博教が高校生の時、倉吉が話してくれた。

  倉吉は梅太郎の数倍、立派な暮らしをしていて、どこで合っても小遣いをどっさりくれたが、それは不良の他にもドラム缶を洗う小さなエ場を経営していたからであった。

「わかるだろ。俺が普通の家ではなく親父の子供に生まれてきて良かったと思うことの一つに酒と博打ってのが、いかに人生に哀しい瞬間を持ち込み、ばかばかしいものかということを、子供の頃から見聞きさせてもらったことなんだよ。
 でも他人がやるのは全然かまわないんだよ。だって俺が用心棒をやったラテンクォーターなんてお酒を飲む場所なんだしな。それが俺が子供の時に決めた、大人になる俺を律するルールなの。それは守り通すんだよ俺は。」

  さて、この頃、大学生になっていた兄・孝治にも転機が訪れる。
 ある日、酔漢が家の植木棚に飾ってあった盆栽をいたずらした。
「何をやってるんだ!」梅太郎の声がしたと同時に、博教は裸足で飛び出して行き男の胸ぐらを摑んで、ぐいぐいと押した。
 下駄をつっかける時間だけ遅れた梅太郎が、腕まくりして出て来た瞬間、酔漢の連れが深々と頭を下げて詫びたので、博教は許した。

 この夜、孝治も博教と一緒に居たが、14歳の博教が一番乗りで、外でもみ合っていたにも拘らず、一歩も家から出ようとしなかったばかりでなく大学生であったにも関わらず小学生の妹へ、「交番に行っておまわりさん呼んでこい」と命令した。

  その話を聞いて、梅太郎は激怒し、この日を境に、梅太郎は孝治の顔も見るのも嫌がり「出て行け!」と罵られ孝治は家を出た。

  中学に入っても勉強嫌いは相変わらずのままだが、読書好きは高じて、学校がはねると、本を自分で熱心に探すようになった。
 主に双葉山時代の相撲本・少年漫画「冒険王」や「おもしろブック」、手塚治虫のを探すための古本屋通いだった。

  古本屋ほど博教の好奇心を満たす場所はなかった。
  時を忘れて、博教は古本屋に居続けられた。

 そこは、博教のもう一つの宇宙であった。

 以来、今日まで獄に居るときを除いて、暇があれば古本屋に入り浸る生活は継続した。
  生涯を通じて膨大なる本の山を集積し、活字の小宇宙を築いた。

「おもくれーなー。その通りだよ!オマエは良く見抜くね!
 俺が一番好きな場所は古本屋なんだよ。古本屋を訪ねて、訪ねて、それで日本一の古本屋になる。見てみろ、この部屋はもう誰が見ても古本屋だろ。だけどよー、ひとつ違うのは、俺はここにある本は誰にも売らねぇってことなんだよ」

 博教の死後、その膨大な本の山、想い出コレクションは放出され、都内の古書店市場を活気づけさせたと聞く。
 博教の想い出コレクションは、時を経て、やがて私にも巡り巡って届くことになる。

  博教は肥満体ではあったが、中学一年生の時はまだ背が低かった。
 しかし、二年生の夏休みに、一気に十七センチも背が伸びると、体重も80キロを超えて、どこからみても偉丈夫であった。
 遊びで相撲を取ってみても、どんな奴が来ても大丈夫と思うようになった。
  相撲読み物を熱心に読んでいた博教が、自分の腕っ節に自信を持ち始めると、丁髷や化粧褌をつけた自分の姿を夢に見るほど憧れるようになった。
  そして、相撲観戦に国技館へ熱心に通うようになった。

  ある日、国技館で相撲を観た後、老雄・名寄岩(現春日山親方)にサインを貰うと「どうかね相撲は好きかい」と尋ねてきた。
   博教は中学を卒業したら相撲取りになろうとの志は、密かに持っていたが、大男ぞろいの相撲界で自分の力が通じるかどうかが不安だった。
 「相撲は大好きですが、家の者が反対です」と答えると、名寄岩はおもむろに紙とエンピツを出して「君の住所を書きなさい」と博教に書かせた。
  博教は本物の力士に認められたうれしさで住所を書いてからしばらく話して別れたのちも、浮き浮きして、よし明日からでも相撲取りになろうとなどと考えながら家路についた。

  家に帰って、その話を母・菊江にすると「あなたが相撲界に入りたいなら反対はしないけど、高校だけは絶対に卒業してちょうだい」と強く言われた。
  この頃、博教にとって相撲取りを身近にさせたのは、母・菊江の妹である叔母の坂本和子の恋人が力士であったこともある。
  叔母は小野川部屋の幕内力士、後に関脇まで出世する、信夫山(しのぶやま)と交際していた。
  信夫山は家に来るたびに、博教にアメリカン・ポップスのレコードを買
ってくれた。それは浪曲、講談、歌舞伎、漫談、軍歌だらけだったレコードコレクションが一変することになり、子供心に相撲取りをカッコいいと思わせた。
   博教にとって相撲取りは、力人(ちからびと)の象徴であり、古き良き伝統を守りながらも、当時の時代の最先端にも位置づけられる憧れの職業であった。

  しかし、その反面、ネガティブな想いに浸ることもあった。  
  ある日、相撲を見た帰りに両国駅の近くの親戚の家に行った。
  すると親戚の家の隣が、元関脇・大潮の家であった。
 そして、体の大きい大潮がしゃがんで、パタパタと団扇をあおいで七輪の火を熾していた。
  その姿を眺めて、博教は訳もなく哀しい気持ちに襲われた。
  大潮は双葉山時代の老雄で大器晩成型で長く現役をつとめた。
 40歳の時に横綱、男女の川(みなのがわ)を破ったこともある。
  名力士でもあったのに、その引退後の侘しさは、博教の胸を打った。

「俺はひとより特別に感傷的なんだろうけど、そんな姿を見たくなかったんだよ。当時、俺が持っていた雑誌に、大潮が年をとって皺だらけの顔を模写した漫画があったんだよ。それも覚えていたから、その侘びしさったらなかったね。あれは、もう今でも忘れられないね、父の乾分も大酒くらいで、ずいぶん貧乏しているのがたくさんいたけど、相撲取りと違って彼らは幾つになっても命ををかけなければならない稼業だから、どこかセクシーなんですよ。それを考えると生涯セクシーさが続かないような職業は駄目だと思ったんだよ」

  この頃、博教は相撲取りへの哀しい思いと憧憬は相半ばしていった。
 引退した後に、落ちぶれたくはない。
 かといって一度は髷を結ってみたい。
  その、どっちつかずの、もやもやを解消したのは、理事長挨拶だった。

   博教が初めて相撲で理事長の挨拶を見たのは12歳の時だった。
   秋場所の初日で出羽海相撲協会理事長が、その後ろに横綱、大関を従えて挨拶するところ見た。
   その模様を見ると、横綱の土俵入りより、博教の体中の血が滾り、例え、引退していても男らしくセクシーな姿に思えた。
  その後、何度も理事長挨拶を見るようになり、その姿は、博教を惹きつけた。いつしか、自分が理事長となり、協会挨拶が出来るほどの力士になれば良いのだと考えるようになった。

「そう。よくわかったな。これは大発見だったよ。だって理事長にまでなれば力士になって引退してからも、もう落ちぶれないわけだから。それで俺が晴れて相撲部屋に入る意義を見つけたんだよ。そこなんだよ!」

  この博教の、日々、高まる相撲志望を菊枝は気がついていた。
  中学を卒業する間際、叔母・和子と一緒に家に遊びに来た、信夫山は、
「博ちゃん、相撲取りだけはやめなさい。栃錦関が居る春日野部屋に入りたいと思っているらしいけど、あそこは大江戸っていう、いじめの名人がいる。博ちゃんが理由もなく殴られたり、蹴られたりするのを僕が横で見ていられますか」と言った。
 これは、どうしても高校を卒業させたいと思う、菊江が妹の和子に相談したのだろう。と博教も悟った。
 それでも相撲取りへの想いは募るばかりだった。

  15歳、博教が中学三年生の時だった。
 意を決して「時津風部屋に入りたい」と梅太郎に打ち明けた。
 梅太郎は、冷静に諭すように
「お前、相撲取りに小遣いやる人になったほうが気持ちいいぞ。」
 と言った。
  芸人を贔屓にし、事あるごとに、お小遣いをやり、金を切っていた梅太郎は柳橋で定期的に行われた街相撲の勧進元でもあった。
  市川に移っても市長の浮谷竹次郎氏の協力で、青少年の相撲大会の歓進元となった。

  素人大相撲大会は、東京の夏の風物詩で都内の神社や広場で、町内の有志が勧進元となって毎夜、行われていた。
  特に浅草、向町、人形町、蔵前、深川で行われる相撲大会には、高額な賞品や賞金が出ていて、その稼ぎで一年を暮らす強豪もいた。
  梅太郎の主催する大会は賞金も高額であったので、柔道の高段者や、元力士などの名うての猛者が揃って出場していた。
  その連中を集め、豪快に酒やお金を振舞った梅太郎は、今で言うところの大会プロデューサーであった。

「いいかい? 親父の、この一言を覚えていているから俺はずっと小遣いやる方だったんよ。でもまさか、これが現在のPRIDEのプロデューサー役に繋がることになるとは思ってもみなかったねー。それが、こんどの理事長挨拶になるから、俺がリングに上がって挨拶することになるんだよ。まったく、おもくれーだろ!」
 
  2003年8月10日 さいたまスーパーアリーナで、いつもはリングサイド最前列に座る正体不明の「プライドの怪人」は突如、リングに上がるとマイクを持って挨拶に立ち、最後に四方に頭を垂れた。

 博教は夢を叶えたが、その真意を知っている観客も誰もいなかった。
 私以外には……。

 さらに、梅太郎は博教の決意を“冷やかし” だと見定めて、
「相撲をやるなら、横綱になるつもりでやらなきゃあ出世できない。冷やかしは、十両くらいまでは早く出世する。だけど、最後は命懸けで真面目にやってきた者が、三役揃い踏みくらいのところへ入るんだ。横綱はそれからの努力と運なんだ。これだけは言える。冷やかしは絶対に横綱になれないぞ」 と言った。
 この時の父の諌言にもかかわらず、それでも博教が相撲取りになることを諦める様子がないので、梅太郎は博教を浜町の明治座へ連れて行った。
 このとき49歳の新田新作は「坊や、中学を卒業したら小父さんの子供になるって話、忘れたわけじゃあないだろう。相撲界は坊やの思っている世界(もの)とは違うんだよ、今、力道山が来るからよく話を聞きなさい」
 と諭した。

  新田新作の力は絶大だった。博教の針路相談のため、今度は本当に天下の力道山が博教の前にやってきて、直々に、
「甘っちょろい気持ちで相撲とりになるのが沢山いるけど、百人が百人成功できない。聞けば、坊ちゃんは新田会長の養子になるそうじゃないですか。一生懸命勉強して、会長の手助けが出来るようになって欲しい」
 と説得した。
 そして、さらに、少し遅れてやってきた、元横綱東富士までが、
「おにいちゃん、お相撲だけはあきらめなさい」と進言した。
一介の中学生に対し、日本一のプロレスラーや天下の元横綱にまで、ここまで言われると、さすがに博教の夢は遠のき、菊江に高校へ行くと告げ猶予期間を置くことになった。

「これもホントの話なんだよ。俺はまだ15の小便たらしですよ。なんで力道山や横綱が直々に説得にくるんだよ。でも、ここで相撲に入っていたら、もしかしたら、出世して天下の大横綱になっていたかもね。そしたら、オマエなんかもう相手にもしませんよ。こんな話を夜中にすることもねぇなー(笑)

  昭和31年、博教は、市川学園高校入学した。
 ちなみに高校の一年後輩には、芸能界の大立者のバーニングプロの周防都雄社長。また中学、高校を通じて、一年後輩にケー・ダッシュの川村龍夫社長がいる。
  博教は川村龍夫とは中学時代から顔見知りであったが、周防都雄とは高校時代には交遊はなかった。
  周防、川村の同級生には歌手の鹿内淳が在学し、また4年後輩には俳優の高橋英樹もいた。
  博教と高橋も高校時代には面識はなかった。が、その後、高橋が日活の俳優になってからは、会うたびに「先輩!」と気持ちよく挨拶してくれた。

 周防都雄は、後に千葉県富津市出身の代議士・浜田幸一の運転手をつとめ、芸能界に転進した後は、人脈を作り大成功を収め巨大なバーニング帝国を築いた。
 川村龍夫もまた同級生の鹿内の誘いでブルーコメッツのマネージャーから田辺エージェンシーに入社し副社長にまで登りつめた。
  その後、ケー・ダッシュを設立し、渡辺健を筆頭に短期間に数々の人気タレントを手がけ大スターに育て上げた。
 それだけではなく、プロレス、格闘技通が高じて小川直也を擁するUFOの社長、新日本プロレスの役員を歴任した後、日本テレビの格闘技イベンドへと手を広げ、博教と競合することに相成るのだった。

 博教の子供の頃からの持病である、死恐怖症は、思春期を迎えて、さらに深刻な症状になっていた。
 高校一年生の冬休み、叔母の家に泊まった真夜中、殺される夢を見て目を覚ました。〈こうして元気で息をしている自分が何時か死ぬのだ〉と思い込むと、どうにも我慢出来ずに、真夜中に大声を出してしまった。
「ヒロちゃん!」従弟が、眠っている博教を起こした。二階で寝ているはずなのに、博教が大声を出したので、泥棒でも入ったのかと思い、木刀を片手に駆けつけた。
 真夜中に死の夢を見て大声を上げる癖は、このまま治らす、高校を卒業し、成人式が済んでも再三、周囲を驚かせた。

「こういう癖があると、俺が、例えヤクザになったとしても出世できないんだよ。たぶん、組長のお付きとかにはなれなかっただろうな。逃亡してても目立ってしょうがないだろ。いびきや、歯軋り、寝言なんていうのも、あの世界ではご法度なんだよ」

  高校時代、それまでは、一度も臆することの無かった自分の出自や、家の稼業も何かと意識させられるようになった。
 ある日、高校生になった博教が、家で「旅笠道中」の一節〜亭主をもつなら、堅気をおもち、とかくやくざは 苦労の種よ~
 と唄っていると「そんな歌をうたんじゃありません」と菊枝に夜叉のような目で睨まれた。
 このときばかりは、菊江の日頃の苦労をおもんばかると「そうか、つまらないことをしてしまったな」と思い、歌うのをやめた。

 また、高校生の時に、梅太郎と「市の湯」へ行った時のこと、
「あんちゃん、先に上るぞ。ゆっくり温まってこい」と、湯舟から出た梅太郎が流し場に行って頭を洗い出すと、それまで黙っていた二人組みが、
「じいさんだから皮がたるんじゃって、刺青の絵が何だか判らないね」
「ああ、刺青も年とっちゃ、お終いさ」
と博教が横にいるにも拘らず陰口をきいた。
「おい、お前、もう一度言ってみろ、お父さんの悪口言うと承知しねえぞ」
博教の見幕に二人はシュンとなった。
「何してるんだ」博教の大声に気づいた梅太郎が立ち上がる気配を見せると、あわてて二人は浴び湯も使わずにそのまま脱衣所へ逃げて行った。
《弱い者いじめなど死んでも出来ない優しい父も、彫ものを見せた瞬間から邪悪なものとして後ろ指をさされるのだ》
 そのとき痛感した思いを百瀬は書いている。 

  今では、信じられないことだが、高校時代の博教は品行方正な正義漢であり、また周囲を巻き込む、生来のお祭り男でもあった。
  高校2年の体育祭の時、柔道部40数人を動員し、三橋美智也のソーラン節の出し物で仮装行列に参列した。
 このとき、博教の発案で、全員が御揃いの浴衣、本格的な踊りを決めて全校一位を獲得した。

たぶん、この時、体育祭を仕切ったからことが、祭りごとに興味を持っようになるきっかけなんだろうなぁ。祭りに血が騒ぐんだよ。俺が鳥越祭りやプライドとかやるようになる、その素地に目覚めたんだろうな」

 そして、このとき、お揃いの浴衣を作ってくれた、母、菊江を、それ以前は口うるさく面倒で大嫌いだと思っていたが、その態度を改め、母にさえ礼儀正しく接するようになっていた。
  母ばかりでなく子供時代には互い牽制し、いがみあった曾祖母の坂本ふみともすっかり和解していた。
  年老いた、ふみの遅い足取りに合わせて銭湯へ一緒に行ってやり、時には負ぶって帰ることも多々あった。
  ふみは、博教の背中で「すまないねぇ。すまないねぇ」と繰り返した。
  おおきな体で人一倍目立つため、博教のこの善行ぶりは、近隣でも良い意味で噂になって広がった。

「俺は獄上がりでこういう風体だから悪人と思われがちだろ、こんなことは若い頃から、もうお茶の子さいさいなんだよ。ひと目も一切気にしないし、照れることもない。今でも、困った婆さんがみたら、おんぶくらいはヒヨイとしちゃいますよ!」

 私はこの取材をしていて、誰彼なく博教が人を抱えあげたり、おんぶをしたりする、そういうシーンは日常茶飯事で、そのたびに驚かされた。

 おんぶと抱っこは博教のコミニケーションの基本であった。

  博教の、この孝行息子で正義漢ぶりは益々高じていき、市川学園高校3年の時、当時の学生の風紀の乱れに憤慨して「公衆道徳委員長」に就任した。
 この役職は、もともと学校にあるものではなく博教が自ら考案し、自分で市川学園新聞に発表し就任した。

 この新聞に博教は少年が相撲取りを目指す物語である「ちょんまげ」という題の連載小説も執筆していた。
 こうした熱血ぶりは、当時、佐藤紅録の「一直線」の主人公に自分を重ね合わせていたからであり、父親が町の顔役であったため、子供の頃から不正、不良な行為にも敏感でガキ大将ではあるが、過度に真面目な生徒であった。

「あの頃、学校の新聞には、公衆道徳委員長だけじゃなく、相撲部主将、柔道部副将、詩吟部参与って肩書きつけてんだよ。当時、学校にドチンピラみたいな真似してる奴がいたの、落下傘スカートがいいとか言って銀座の「あしべ」に行ったとか、どうのこうの言ってる連中を、俺が『けしからん』と取り締まってたんだ。『学校でそういう話をするな、家でやれって』って怒鳴りつけてたんだよ、オモクレーだろ」

 博教が高校2年生だった、昭和32年、6月26日──。
 博教を可愛がり、将来は義父になるはずの新田新作が51歳の若さで亡くなった。
 告別式は浜松公園の仮設テントで行われた。
 祭壇の隣には、新田が馬主であり、天皇賞に輝く名馬メイジヒカリも参列し、花輪4千7百本を言う盛大さであった。
  参列した力道山の横で大きなハンカチを出して、東富士が涙を拭いていた。
 博教は祭壇に飾られた遺影に手を合わせながら、自分の予測していた輝かしい未来の選択肢が一つ無くなったことを自覚した。

  新田の死により、博教の実業家の養子になる夢のような話はなくなったが、相撲取りになる夢は諦めてはいなかった。

 確かに中学卒業当時は、梅太郎に一度は諌められたが望みをなくしたわけではなかった。
 しかし、博教は高校に相撲部はなく、仕方なく柔道部に籍をおいていたが、入学と同時に蔵前国技館の中に出来た力士養成学校である『相撲練成道場』入門した。

  会員番号10番、博教は毎週、土曜、日曜は市川から風呂敷に包んだ褌を持って稽古に通った。
  道場では出羽海部屋の十両力士・福井山と幕下力士の出羽登が会員達に稽古をつけた。
 昇級、昇段日の前に元笠置山の秀ノ山親方、元幡瀬川の楯山親方も裸になって「汗は一番一番拭かなくては駄目だよ」とか言いながら相撲を教えた。   

 それどころか理事長の元双葉山が胸を出してくれたこともあった。
   博教が高校へ通いはじめ力士を目指して汗を流していた、この年、経済白書が「もはや戦後ではない」と宣言した。

 そして、この年、七月、弱冠二十三歳、一橋大学法学部の学生であった石原慎太郎が「文學界」に発表した「太陽の季節」が文學界新人賞、第三十四回芥川賞を受賞し、そのセンセーショナルな内容は“太陽族”の流行語まで生み出した。

 この年、高校一年生の博教は親に隠れて、この“問題小説”を読んだ。
 博教の兄と同じ昭和七年申年生れ、二十三歳の慎太郎がどうしてこんな立派な文章を書けるのか信じられなかった。
 そして、この話題作「太陽の季節」は、その年、日活で映画化され、慎太郎の弟、石原裕次郎がボクシング部の一人として脇役で映画デビューした。
 博教はこの映画を立ち見で見た。
   原作にある主人公の高校生が恋人の待つ部屋の障子を男根で突き破るシーンを見たかったが、映画にはそんな箇所はなかった。あったのは障子の外から男が声をかけ、振り向いた女の表情が変って、男根を突き差したあたりめがけて読んでいた本を投げるといったシーンだけだった。
  しかし、『太陽の季節』の裕次郎は、たった10シーンほどの出演ながら、最初のボクシング・ジムのシーンで強い印象を残し、これはすごい俳優が出て来た、と博教だけでなく日本中に衝撃を与えた。
  慎太郎、裕次郎の鮮烈なデビューは博教に夢を与えた。
  ある日、いきなりスターになる。そんな幸運が微笑むこともあるのだ。

  そして、博教にも小さな幸運が舞い降りた。
  高校二年生になって、博教が学校に行ってる時に、伊勢ノ海親方が突然、家に来た。
 家の近くにあった司旅館は錦島部屋の親方になった行司の木村今朝三が経営していた。そこへ伊勢ノ海の若い者が来た時、博教の体を見たらしくて「躰の大きいのが市川にいるって」親方に報告したらしい。

 親方が来た時、家には、菊枝とふみしかいなかったが、一応家に上がってもらい、話を聞いたが「大学に行かせる」と言って断わった。
 この日、博教本人は居なかったが、この話は、相撲取りを目指していた博教の大きな自信となった。

 博教は高校時代に「相撲錬成道場」へは通っていたが、まだ物足らなかった。
〈もっと稽古をしなければ〉
 博教の通っていた私立市川高校には相撲部がなかった。
 試合に出場する為には、まず相撲部を学校に設置して、連盟に登録しなければならなかった。
  なにより、相撲を稽古するには土俵を造らなければならない。
〈無ければ、自分で作れば良い〉と閃いた博教は校舎の裏のゴミ捨て場の横に空き地があるのに気が付いた。
 博教は授業が終ると、くる日もくる日も空き地の雑草を一人でむしった。
 三年生の夏休みの少し前、クラスメイトは受験勉強に没頭している時、博教はバイトで貯めた自費で赤土をトラック二台分買った。
 毎日、赤土を運んでいると、柔道部員の後輩二人がやって来て、
「先輩、おいら達も手伝うよ」と、言って、リヤカーに赤土を積む手伝いをしてくれた。これで一人ぼっちだった相撲部員が3名にふえた。
ある日、博教たち3人が土俵作りに作業を続けていると、
「君、なんだいそれは。堤防の決壊を防ぐために使うんじゃあるまいし、そんな大きな俵なんかあるもんか……」
 と声をかけられた、誰だか判らないので睨みつけていると、
「土俵だけは、専門家にやらせなければ駄目だよ。市川高校の裏で土俵造っている人がいるって聞いたので、一度見にこようと思ってたんだ」と続けると「自分は冨貴島小学校の鈴木です。よろしく」と名乗った。
 このときが、近くの富貴島小学校の教諭であった鈴木忠三先生との出会いだった。

  鈴木は専修大学相撲部ОBで、我流で見よう見まねで土俵作りに取り組む、博教たちに土俵作りを教えてくれた。
「土俵が出来るまでうちの学校に稽古にいらっしゃい。小学生用の小さい土俵だけれど、まだまだ君に胸出すことぐらいは出来るから」
 鈴木の申し出に、博教は冨貴島小学校の土俵で毎日稽古するようになった。
  博教は稽古が終ると褌姿のまま近くの泉湯に行き、先生の背中を流した。風呂を出ると、酒の好きな先生と一緒に駅前のもつ焼屋か、焼とり屋に行った。先生が酒を飲み、博教はサイダーを御馳走になった。
 そして、夏休み最後の日曜日に、土俵造りの職人に千住から来てもらった。土俵がすっかり出来上ったのは七時過ぎだった。
  塩を撒き、酒で清めを済ませると、博教たちはトレパンを脱いで褌を付けた。
 お初の土俵の上で、四股を踏む気分は最高だった。
  鈴木先生に、土俵が出来上った報告に行った。
  そして、そのまま、鈴木は市川高校相撲部初代コーチに就任した。

「相撲好きはたくさんいますよ。でも、相撲の土俵を一から作ったって奴は業者以外ではなかなかいませんよ。ま、最後の仕上げは頼んだけどな。しかしな、この経験がまた将来役に立つんだから不思議なもんだよ。稲川親分の相撲大会の話はこの後だな」

  9月2日、博教が作った即席相撲部は、鈴木の尽力で千葉県高校相撲大会に出場を果たした。
  即席メンバーではあったが、試合は初出場で決勝に進んだ。
 千葉県大会の数日後、中央大学相撲部道場で、国体に出場する関東代表を決める試合が行なわれた。博教は千葉県から3人の代表に選出され試合に出場した。決勝で二対一で敗れたが、二位までは国体に出場出来たので、十月には静岡で行われる国体に出場することになった。
  それは誉あることだった。
  級友が見送る静岡へ出発する本八幡駅の上りホームで裕次郎の「俺は待っているぜ」が流れてきて歌に合わせて歌った。 
 この年、「狂った果実」の大ヒットにより、石原裕次郎は本格的なスターの道へ歩み、“裕次郎時代” が到来していた。
  裕次郎が歌った全ての曲がヒットチャートの上位にあった。
 そして、この年、邦画最大のヒットとなったのが、裕次郎主演の「嵐を呼ぶ男」だった。
  しかし、博教がこの映画を観たのは十二月末の封切と同時ではなかった。
 冬休みも終って久しぶりに行った学校で、旧友が両手に鉛筆を握って机を太鼓代り叩いているのを目撃してからだった。
「何だお前、その真似は……」
「『風を呼ぶ男』だよ。お前観てないのか」
「うん」
「面白いぞ。裕次郎がもの凄く格好いいんだ。でも観てない奴にはわかんねえよ」
  博教は彼の口コミにすぐさま乗った。
 その週末、市川近辺の映画館では観られなかったので、わざわざ総武線で錦糸町まで行き、駅前の「江東劇場」裏の江東楽天地の一番小さな映画館に入った。
  超満員。立ち見の客が多過ぎて扉も閉まらない。
 長身の博教は、客と客の頭の間から背伸びして、覗き見し、そのまま二度観た。
 ドラム合戦のシーン、そのカッコよさに衝撃を受けた。
 
「まさかなーー、くすぶりの連中の間で錦糸町で立ち見までして見た映画だよ。『太陽の季節』の脇役から、あっという間に駆け抜けてピカピカの主演を張ってんですよ。眩しいってもんじゃないさー。あのとき、何年後に自分が、この石原裕次郎に会えるとは夢にも思ってみなかったよ」

 静岡県の大仁で行なわれた、第十二回国民体育大会の相撲の部で、博教は一回戦で捻挫して、さんざんな成績だったが、日本中には強い相手が大勢居る事を知っただけで有意義だった。
  国体が終わったが、博教の受験勉強はほとんど手付かずのままだった。

 しかし、博教の大学進学は、突然、決まった。

 この相撲部での活躍が功を奏したのである。
 国体に選手スカウトにやって来た立教大学相撲部の主将、若鍋尚志の目に、関東から東京と並んで出場した千葉県の代表として土俵に上った博教が目に焼きついたらしい。
  身長181センチ、体重115キロの巨体、唯、それだけで気に入られ、博教は、相撲部推薦の第二位となり、一位だった中京高の選手が早稲田大学に行った為、立教大学文学部史学科入学と相成った。
 しかし、実のところは、博教は、その巨体を見込まれて、立教以外にも声は掛かっていた。
 国体が終ると間もなく、明治大学、法政大学、慶應大学の柔道部、ラグビー部、相撲部から入部をすすめる手紙や電話があった。
  しかも母方の親戚は慶應ボーイでなくては男ではないというくらいの慶應贔屓だった。
 慶應は政財界の大立物の子弟が学ぶ場所で、父親が柳橋の顔役である博教が行く所ではなかったに違いないが、市川育ちの博教は慶應ボーイという呼び名はとてつもなくスマートでモダンなものに響いていた。
  慶應大学相撲部からの誘いがあった時、反対したのは母・菊江だった。
「家の経済では裕福な友達とのお付き合いがスムーズに出来ないから……」が理由であった。
  この頃、梅太郎は博打で一財産を無くし、もともと資産家であった母方の家も、すっかり逼迫していたのである。

  立教大学に入学した夜、出前の寿司を取って喰べた後で
「博教ごめんなさいね、雄三郎さんは長野に行く私に、お金を渡しながらチー坊(博教のこと)は必ず慶應ボーイにしてやって下さい。って言ったのよ」
 実業家だった母の下の弟、雄三郎は昭和二十年八月十五日の敗戦を見ると間もなく病死した。
 その時、残したお金を梅太郎が博打で無くすことがなかったら、博教は間違いなく慶応ボーイになるはずだった。

 相撲部推薦だったので入学と同時に相撲部に入部し、博教は初めて家を出て、校内の道場で暮らすことになった。

  大学の運動部は上下関係が厳しく、一年虫けら、二年動物、三年人間、四年神様の世界である。
  稽古も高校時代とちがって、本相撲以上の激しさで毎日毎日泣かされつづけた。
 四年生に稽古してもらうのだが、さすがに大学の選手には歯が立たなかった。
 博教に期待していた若鍋主将には、どうしてこんなに殴られるんだろうと思うほど、稽古中は容赦なく棒や板きれでどやされた。
 くやしくて土俵の中で何度も泣いた。
 その若鍋主将も卒業して、博教は二年生となり、三年生になる時、ある事情から相撲部を脱退することになる。

  博教が相撲部を見限るような事件があったのだ。
 1年の夏合宿で、博教が池袋の相撲部の部室で寝ていたら酔っ払いが相撲部の戸を蹴って怒鳴った。
 博教は飛び起きて、そのとき一番最初に出て行って、いきなりブン殴ったが他の部員は、ただ様子を見ていた。
 そして、殴られた酔っ払いは、さらに、殴られると思って駆け出して、当時、立教の裏手にあった空手の大山(倍達)の道場(後の極真会館)まで逃げた。
 博教は、そこまで追い掛けて行ったが、他の連中は誰も助けには来なかった。そこで揉め事になった。
 博教は当時、大山も極真空手も知らず、事情もよくわからなかったので「出て来い、この野郎!」と道場と押し問答になった。

「この空手道場とのイザコザの件を部に報告したとき、相撲部のキャプテンが『なんてことしてくれたんだ』って驚いちゃってね。土俵ではカッコいいこと言って、俺のこと竹でブン殴ったり4時間シコ踏ませたりしてたけど、そういう時の腰の引け方っていうのが、もう笑っちゃったんだよな。それが憧れ続けた相撲に幻滅したところだったんだよ。だけどよプライドじゃないけど、俺は俺で、大学生で相撲 vs 極真空手の異種格闘技戦寸前だったんだよ。ま、それで相撲部を辞めて用心棒になる、職業選択、その分け目だったわけだな」

博教の初恋

 大学生になっても博教は童貞のままであった。
 運動部のバンカラの乗りで、遊興所へ行くことへ数々の誘いはあったが、博教は頑として受け付けなった。
 昭和三十三年四月に売春防止法が公布されて、全国公娼十二万で約三万九千軒の姿は表面的に消えたので、博教は、おせっかいな友人や先輩の手で悪所へ拉致されることがなくなった。

 大学一年生の夏休みが終わると直ぐに、生まれて初めて、2歳年上の青山学院の大生と交際した。
 デートの度に、タイトスカートの似合う彼女の顔をうっとりと眺めていた。
 彼女が就職のため、二次試験まで受かっていた航空会社の最終の面接で落とされた夜、相撲部の合宿所で会った。
 彼女は泣きながら「面接で受かるのは、最初から良家のお嬢様と決まっているの。どうして私の父親は乾物屋なんだろう」と言った。
 博教は、才媛の名を欲しいままにしている彼女でさえ、父親の職業しだいでは就職が出来ないのだと思った。
 親の職業が子供の進もうとする世界を狭めてしまうことがある。しかし、生れ落ちた境遇は変えられない。才能、学力、学歴さえ、役に立たないということを恋人は教えてくれた。
  この夜、博教は大学をやめてでも、一日も早く社会に出て金儲けの仕方を覚えたほうがいいと思った。

 博教が大学をやめてでも社会に飛び込もうとしている、その矢先のことだった。
 昭和33年10月吉日、湯河原「乃ぞみ旅館」で、父・百瀬梅太郎は明治三十五年以来五十有余年の渡世家業を隠退した。

挨拶状には、
〈謹啓 秋冷の砌り貴下御一同様益々御清栄之段奉慶賀候、陳者私儀明治三十五年以来渡世業に入り、爾来五十有余年先輩諸兄の絶大なる御支援と御友情に預り今日迄大過なく渡世仕候処誠に勝手乍ら老齢に付隠退仕る可く此の段御通知申上候)と書かれた。

  梅太郎は七十二歳だった。
 この披露宴一切を仕切ったのは、若き日の稲川聖域親分であった。
 それほど梅太郎と稲川聖域とは懇意だった。
 この席にも、梅太郎が終生、贔屓にした柳家三重松が舞台にあがり、梅太郎が好んだ都都逸を歌った。
 そして、市川に引っ越して以来の付き合いの幇間の喜久八が甲斐甲斐しく、式の係りを勤めていた。
  披露会場で稲川の親分に博教が初めて挨拶すると、
「十八歳だって、ずいぶん大きいねー」と声をかけてもらった。

 稲川の大親分に若いころから目をかけられることは間接的にも後に大いに役に立つことになった。
 そして、この稲川の親分と博教は、後に意外なところで再会を果たすことになる。

 昭和34年4月10日、皇太子殿下と正田美智子様のご成婚式が行われた。
 博教は、相変わらず懐には小遣いが一銭もなく、彼女は必ず食事代と映画代を払ってくれていた。
  博教は、彼女と渋谷宮益坂上で、お二人の乗った馬車を見た後、百軒店のお座敷お好み焼きの店「千草」に向かった。 
 そして、このご成婚の日に仲良く食事をした、そのわずか半年後、彼女の方から別れを告げられた。
 未練は残ったが、己の経済的非力さを思えば別離は当然のことだった。

  博教は、この経験から学び、その後、女性に振られることがなくなった。
なぜなら、この直後から、日本一のナイトクラブの美女だらけの仕事場で働くことになり、男女の駆け引きなど全て実地に見学することになるのだった。それは日本一の恋愛指南の道場でもあった。

俺がもし最初に好きになった女とうまくいって結婚とかしてたら、いまの俺なんかないよね。いまごろ5万円ぐらい持って『カッコいいだろ』みたいに言ってるつまらない親父になってるよ。のちのち億万長者にもなれなかったし、ミス日本なんかガールフレンドにもできなかっただろうしさ。そういう意味では、最初にフラれたとき『俺みたいに一生懸命やってもフラれるんだな、女なんか一生懸命やることねぇな。一生懸命やらなきゃやらないほどモテるんだな』ってことを覚えたんだよ。女だって二股、三股かけるんだから、ガツガツしないで好きな女がいればいるほど、女をたくさん持てば、その女だって、もっともっと、いろんな男に磨かれてピッカピカに光るようになるんだからね。でも、この経験は、俺が相撲だとか学生なんかやめて、ちゃんとお金を貰える様に働こうと思う決定的な要件だったな」

 博教は、最初に付き合った女性と別れたことが、文字通り引き金となり、まるで鉄砲玉のように用心棒という名の「命懸けの虚構」の世界へ、自身が弾き出されたのだった。  
                       (第3部へつづく)

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