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『命懸けの虚構〜聞書・百瀬博教一代』  #10

  
 出会いに照れない

  昭和37年のころ、すっかり裕次郎と昵懇となった博教は、用心棒を兼ねて、店がはねた後の夜遊びにも誘ってもらうようになった。
  ある夜、石原慎太郎がオーナーと言われる、新橋のメンバー制キークラブ「易俗化」(えきぞっか)に裕次郎に連れて行かれた。
 「易俗化」は、日本のキークラブの草分とも言うべき店で、巷説では、この洒落たクラブの主人は石原慎太郎であると喧伝されていた。
  事実、各界の泰斗が夜な夜な、この店に顔をつらねた。
 ホキ徳田(後日、アーサー・ミラー夫人になる)がピアノを弾いて、島崎雪子がシャンソンを唄う店だ。

 或る夜、石原裕次郎が銀座の酒場で大いに飲み酔った勢いで、その店のホステスを数名引き連れて「易俗化」へ遊びに行った。
 この夜は、裕次郎より早く慎太郎もパ-ティの帰りだったらしくタキシードで「易俗化」に来ていた。
  それとは知らぬ裕次郎はホステス連に囲まれながらクラブの扉を敲いた。
 勝手知ったるクラブのことだから、ずかずかと入って行き、後から案内されて来たホステス達と一緒に席に着こうとした。
 それを、奥の席で仲間と笑いながら飲んでいた慎太郎が見つけた。
 慎太郎は立ち上がると、裕次郎のテーブルまで歩み寄り、
「このクラブは、酒を飲んで娯しむ店にはちがいないが、煩雑なルールがある」と告げた。
 裕次郎も文句のようなことを言った。
 すると慎太郎は、
「お前は、このクラブのルールを識らないのか」
 と言い、連れのホステス達にも「易俗化」の趣意について説明した。
  ホステスたちは週刊誌も読まないハンチクだったから、自分達に注意をしてくるタキシード姿の男が誰れだか判らなかった。
「なによ、えらそうに、あなたって、ずいぶん感じ悪いマネージャーね」
 と口を尖らせ、さらに抗弁しようとするので、兄貴に弱い裕次郎は、ホステス達の手を引っ張るようにしてクラブを飛び出した。

 そんな事のあった数日後、博教は、裕次郎と二人っきりで『易俗化』に行った。
  その夜は慎太郎は来ていなかった。
  博教のリクエストした『素敵な貴方』を、ホキ徳田さんが弾き語りで唄ってくれると、次は、裕次郎が『マイ・センチメンタル・リズン』と『ラブレター』を唄った。
 そこへ、中曽根康弘代議士がやって来て、はからずも石原裕次郎と中曽根康弘代議士の歌合戦となった。
 裕次郎が『草原情歌』を唄い、中曽根代議士は『百舌』を唄った。
 堅い事を云う慎太郎さんの現われない「易俗化」では、放歌高吟、客も従業員も全員の意気大いに上がって、夜の更けるのを知らなかった。
 中曾根氏が帰ると、裕次郎は胸のポケットから出した目薬を充血している目に点した。
 アメリカ製の特別効く目薬だそうだ。
 どんなに遅く眠っても朝の十時にはスタジオに入り、強いライトの下で撮影が始まる。
 定刻に終ることはほとんどなく、時には真夜中まで撮影が続く。
 仕事と仕事の合間には赤坂や銀座のクラブで羽根を伸ばすのだが、ホステスにさえ気を使うから、気の休まる時は少なかっただろう。
「ひろ坊、帰ろう」裕次郎と並んで坐ったタクシーが走り出すと「この間は済まなかった。すぐにあいつを探して、話をつけてくれたんだってな。有難う」と言った。
 森山の件だったが、あにきに礼を言われて博教は舞い上がった。
 
  博教の用心棒の仕事は、ラテンクオーターだけには限らなかった。
 南千住の東京スタジアムで、皇太子殿下と美智子妃殿下がデトロイトタイガースと大毎オリオンズの試合を観戦された時、大映映画の秘書課長に依頼され、遠くからお二人を用心棒することになった。
  その日は、事無きに終えると、両殿下がお帰りになってから、社長室が永田会長を紹介された。
  社長は愉快そうに、
「うん。君が有名な百瀬君か、大きいな。皇太子殿下も君が衛ってくれていたので、非常に喜んでおられた」
 と言って、大笑いさせてから、柳橋の「稲垣」連れていってくれ、博教は生まれて初めて芸者遊びをした。

「俺は用心棒としては名前が売れてたね。『赤坂の百瀬』で通ったんですよ。なんと言っても、これだけ体がでかいと一目瞭然だろ。ひと目で覚えられる。この頃は偉い人から偉い人へと、わらしべ長者ですよ。だからVIPの警護もじゃんじゃんやってましたよ。でも皇室の警護はさすがにビビったね。」

  この年、博教は初の海外渡航に台湾へ向った。
 旅の目的は裕次郎へ侘びをいれることだった。
  ことの経緯は、スキー場の事故で入院した裕次郎を見舞ったとき「宝田明は見舞いにもきやしない」という話を聞かされたことだった。
  東宝の俳優・宝田明はスマートな長身、甘い歌声、ニヒルな味をただよわせる都会青年として人気があった。
 彼の歌「美貌の都」を博教は、相撲の稽古の後に先輩達とよく唄ったものだ。
 その話を聞いた一年半後、博教は頼まれもしないのに、赤坂の「ホテルニュージャパン」のエレベーター前で偶然に合った宝田に「おい、どんなに忙しくしても世話に成った裕次郎の見舞に行かなくては駄目じゃねえか、どうして行かなかったんだ、この大馬鹿野郎 !」
  と頭から怒鳴りつけたのだ。

  この一件を仄聞した裕次邸氏が「余計なことをしてくれた」と大いに怒っていると、人を介して教えてもらった博教は、その日のうちに裕次郎宅に詫びに行った。
  ところが、数日前に「金門島にかける橋」の撮影をするため台湾ロケに旅立った後だった。
  すぐに裕次郎を追って台湾行きを思い立ったものの、今のように簡単には行かないご時世、中国と抗戦中の台湾へのビザ発行は難航を極めた。
 台湾に限らず、39年に海外渡航が自由化されるまで、パスポートの取得は銀行からお金を借りるよりもずっと難しかったのだ。
  二十二歳の用心棒稼業、社会的には無職である博教に、国がビザなどくれるはずがなかった。
  この件をクリアーしてくれたのは小田原の貸元井上喜人であった。
  当時、氏は稲川会の大幹部で、その派手な金使いと猛牛のような闘争心は関東中に知られていた。
 銀座、赤坂、六本木で喧嘩となり「井上の息のかかった者」と先方に知れると、どんなに吠えているごろつきでもピタリと黙るほどの器量だった。
  博教が、井上喜人氏と親しくなったのは、昭和三十七年の夏のこと。
  店終わりに、店の隣の『ホテル・ニュージャパン』に借りている自室に戻る途中、暗くなったロビーにプロレスラーのオルテガと目立つ化粧の女が坐っていた。 
  立ち止まって二人を見ているとオルテガが手招きした。
  オルテガの博教の目の前に立つと「Big boy ! How years old」と言った。「Twenty-two」オルテガは大袈裟な身振りでと「Good !」答えた。それから英語でまた何か言ったが、博教には解らない。
「『プロレスラーにならないか』と言ったのよ」
 と連れの女が通訳してくれた。
「駄目だ。俺は力道山みたいに力がないから」
 博教の言葉を女が伝えると、オルテガはまた何か言った。
「『力道山だって力なんかないぞ』そう言ってるわ」
 オルテガは百十五キロの博教が見ても小山のように大きい。
  テレビの中で力道山と血だらけになって闘う剽悍な表情は全く見えない。
「俺がどんなに力がないか試してくれ。ここで角力しよう」
「角力は駄目だ」
「なんで」
「もし負けたら格好が悪いし、ここの絨毯は滑りやすそうだ」
 博教はオルテガをいっペんに好きになった。
「明日の夜でも、『ニュー・ラテン・クォーター』に訪ねて来てくれ。俺が奢る」
 オルテガと握手して別れ、エレベーターに乗ろうとすると、エレベーター前の長椅子に、井上喜人氏と体格のいい若い衆が三人坐っていた。
  当時、いつも、井上喜人氏はハマコーこと浜田幸一氏を連れていたが、この夜は不在だった。
 若い盛りの博教は、怖いもの知らずの若き日のハマコーの戦闘的な視線に「舐められてたまるか」といつも応えて睨み返していた。
  その横を通ろうとした時、「百瀬君」と誰かが呼んだ。立ち止まると声の主は井上氏だった。
「百瀬さんの倅だって?」
 と言ったので「はい」と返事して二言三言喋った。
「人って直接話をしなければ判らないよな、え、印田。こうやって喋ってみれば君は中々の好青年じゃないか。ここで時々顔を合わせるが、いつでも俺を睨んでいる嫌な奴だと思っていたんだ」
  この夜が井上との出会いであった。
  井上氏は博教に化粧品会社Sの岡田課長を紹介してくれた。
 そして、博教はSの社員として、無事、パスポートを得ることができた。

  博教は、高所恐怖症だが、会いたくて会いたくて仕方のないあにきに会うために飛行横に乗った。
 初めて乗った飛行機の窓からずっと海を見ていた。
  沖縄で一時間ほど停まり、空港のスロットマシンで少し遊び、それから飛びたち、台北に無事着いた。
 そしてなんとか裕次郎の泊まるホテルへチェックインした。
  翌朝、ノックの音で目覚めた。ドアを開けると裕次郎のマネージャーも兼ねている日活演技課の坂本正が笑顔で立っていた。
「裕次郎に謝りに来たんです」
「裕ちゃんの部屋は隣の隣りだからね」
  急いで服を着ると顔も洗わず歯も磨かずに坂本の後を随いて行った。
 裕次郎が眠そうな目をこすりながら、部屋に入った博教を
「良く来たナ」
「あにき、出過ぎたことしてすみません」
 博教は深々と頭を下げた。
「いいよ、博坊の気持うれしいよ。かえって心配かけてしまって、すまないな。腹減ってるだろう。ここにはあまり美味いものはないが、シュリンプ・カクテルだけは美味いぜ……」
「何ですか、それは」
「アハハ、喰べてみりゃわかるさ。昨日来たんだってナ、遅く帰って来たらフロントで『日本からお友達が訪ねて来ました』って言われたんで、『誰だ』って聞くと、博坊だったのでびっくりした。今日はこれから野柳に行くんだ。一緒に来い」
 台北で数日一緒だった時、裕次郎の優しさには何度も触れた。
「見ろよ博坊、日本ならまだ赤ん坊として背負われている二つか三つの子供が、生れたばかりの弟だか妹を背負って仕事させられてるんだぜ。お前なんか随分可愛がられて育ったんだと思うけど、両親には大いに感謝しなけれいけないぞ」
 ロケの休み時間に、氷屋のおかみが縄で縛った大きさの氷をぶらさげてロケ隊まで届けに来た。
 そこに随いてきた幼な過ぎるほど幼い女の子が赤ん坊を背負っていた。
 その姿を目撃した時の台詞だった。
 同じ日、ロケ見物の汚れた服の少年達が大きな樽の中の水の底に七、八本沈んでいる汽水(サイダー)をほしくてほしくてたまらないといった風に覗いていた。
 それを見た裕次郎は、気持ち良く汽水(サイダー)をふるまった。
「一人で全部飲むんじゃないぞ。仲間にも飲ませてやれ」
 そんな事を言っても子供達には日本語が通じやしないのに、手を伸ばして汽水を樽の底から取り出そうとしている少年に声を掛けた。
 その一部始終を見ていた村人の一人が、裕次郎の優しい心根に打たれたのか、手に持っていた一房のバナナを彼に差し出した。
「え、くれるんですか、そりゃどうも」
 少し照れくさそうにバナナを両手で貰った、あのうれしそうな顔は博教は忘れられない。
  勿論バナナは博教にも一本分けてくれた。バナナを喰べていると、
「すまないけど、お前の力で持てるだけ汽水を買って来てくれ。先刻キャンデー売りの子供が来たんで一本買おうかと思って見ていたら、一度買った子供が一舐めして、自分の思っていた味じゃないんで突き返すと、怒りもしないでそいつを箱の中にしまっちまいやがんの。それから別のキャンデーを渡したんで、あいつのは買えねえぞ。人の舐めたのまで平気で売っちゃうんだからな」
  裕次郎は幼い頃に、鶏の佃煮の皮目のついた毛を見てから、トリがどうしても喰べられなくなったほど繊細な神経の持ち主だ。
 目の前でキャンデー売りがそんな真似をしているのを目撃してしまったら、どんなに喉が渇いていたとしても、そいつの売っているキャンデーを買うはずがない。
 博教は一切を承知して、野柳海岸から少し離れた店で汽水を四箱買った。   帰りは両手に一箱ずつぶら下げ、店の娘が天秤棒の前と後ろに一箱ずつ吊り下げて戻った。
「あにき、申し訳ありません。お金をケチってこれだけしか買わなかったんじゃありません。店にこれっきりしかなかったんです」
 そう言うと、裕次郎は満面に笑みを浮かべて、
「いいよ、いいよ、これだけで充分、有難う、御苦労さんでした」
 と言った。
 裕次郎の撮影について廻った博教は、台湾まで足を運んだことを最高に満足していた。

「これが初めての海外旅行だよ。搭乗するまでも大変だったよ。いいかい、誰か目上の人を『しくじっている』ってわかったら、その人のところへ飛んでいくんだよ。ささやかなことに思えても、目を見て話さなかったら、その人が心の中でいらいらとする熾火(おきび)は消えないから。例え海を超えても、どんなに遠くにいても、顔を見せなかったら、どんどんとその小火(ぼや)が大きくなって鎮火できなくなるんですよ。逆に距離が遠ければ遠いほど、会いに行けば『よくここまで来てくれた』って思うんですよ。わかるだろ」

 台湾から戻った博教は、いつのまにか窮地に立たされていた。
 この頃、博教の用心棒としての、縄張りなど怖いものなしの見境のない暴れっぷりは、数々の不評を買っていたのだ。

  稲川親分から湯河原の富本富次郎の経営する旅館に呼び出された。
 旅館の2階に上がると籐の椅子に腰掛けた親分が睨みつけ、
「オマエ、評判悪いぞ!」
「……」
「オマエ、いくつだ?」
「22です」
「おまえ22か、ええ、うちの若い連中もだらしねぇな。なんでオマエみたいなチンケなのに大騒ぎしなきゃならないんだ」
「……」
「おめぇは、なにしろ、評判わりいぞ、なにしろ、カッコつけすぎるんだ。おめぇは。な、それだからよー、皆が百瀬んところのチャンの家の子どもじゃなかたら、あんなもん、殺しちやうって言われてんだよ」
  博教は絶体絶命の窮地だった。
 会長が頷けば、本当に殺されてしまうのだ。
「とにかく、会長、僕は、今日帰んないで、会長のところへ行かせてください」博教は言うと、そのまま湯河原の稲川錬成道場に10日間、泊まり込み修行した。
 
 稲川錬成道場とは膨大な敷地に、武道道場と宿泊所を整備した稲川会の若い衆用の修行施設だった。
  ある日、練成道場に入って行くとカレーの匂いが流れて来た。
  庭に廻ると広場の中央に大きな鍋がぐらぐらと煮えていた。
 鍋の前に、白いジャンセンの海水パンツを穿いた稲川会長が一人で立っていて、右手に持った大きなしゃもじを時々鍋の中に入れて、じゃがいもや肉が焦げつかないようにかきまぜていた。
 額からは玉のような汗が流れている。それを拭いもしないで鍋の中の加減を見ているのである。
 柔道で鍛えた筋肉質の太腿は火だこが出来て真っ赤だった。
  博教は会長に声を掛けた。
「よろしかったら代わりましょうか」
「もうちょっとで出来上がるから待ちなよ」
「熱くありませんか」
「熱くない」
  会長の後ろに下がって、先刻からカレーの出来るのを待っている大勢の乾分衆と並んで鍋をしゃもじでかきまぜる会長の後ろ姿を眺めた。
 会長の刺青は「児雷也」である。
 夏の日を浴びて、刺青の色が生き生きとして見えるのは毎日吉浜の海岸や錦ケ浦で何時間も泳いだり、素潜りしたりして躰を鍛えているからだ。
 児雷也が着ている鎖帷子を眺めている中に、父の乾分インディアンの和が鎖帷子を見せてくれた小学生の日を思った。

「出来たぞ」
 皿に御飯を盛ってもらって会長の前に立ち、会長自らたっぷりとカレーをかけてもらった。広場に用意してあったテーブルについて十人程の乾分衆と一緒にカレーライスを喰べた。
「どうだ、俺のカレーは」会長が皆に怒鳴った。
「美味しいです」
 大声で応えたのはホテル・ニュージャパンのロビーで、時々顔を見るが一度も口を利いた事のない木更津の浜田幸一だった。
  二杯目のカレーを喰べている時、浜田は戻りのフェリーの時間が迫っているとかで、会長に挨拶すると車に乗り帰った。
  その夜、博教も東京に帰った。半月以上お世話になった稲川会長に帰宅の挨拶をしに行った。
「話に聞いたほどあんちゃんは生意気な奴じゃない。が、世間には色々な目や口があるから気を付けるこった。これを子分達にもやれ」
 と、横浜高島屋で買ったというマンシングのシャツを十枚くれた。
「でも君が一所懸命海に潜る姿を見た時、おかしくて吹いちまって潜ってられなかった。これからもなにかとあるだろうが、その時は俺の所に何時でも来な」
 半月前、「お前は評判が悪いぞ……」と叱ったあの恐ろしい会長と思えぬ優しさだった。

「俺は一家に入って鞄持ちの修行から始めたわけじゃないから、用心棒は、幕下付け出しから、いきなりデビューするようなものなんですよ。小さい時から乾分できた奴には、用心棒はできなかっただろう、そうなると遠慮するわけじゃない、俺は不良でも相手の名前を知らないから喧嘩上等で出来たんだろうな。どこどこ組のなにがしだって名前言われても、それがどうしたいってことになるから。その分、生意気だってことで、あちこちで評判が悪くなってたんだよ。でも親父と交流のあった稲川の親分だから、俺を多目に見てくれて錬成道場へ居させてくれたんだと思うよ。親父に感謝だよ。    え? ハマコーとは、あの頃は、まだ口も聞いてない。お互い睨みつけている関係だね、このあと、絡んでくるんだけどね」

   22歳の暮、博教は初めて着物を拵えに出掛けようと思い立った。
  そのとき「光る着物だけは着るなよ」と言った梅太郎の言葉を思い出した。
  博教は言われなくても濃紫色の結城紬を買うつもりだった。
  当時毎夜、国粋会会長の森田政治の着ていた茄子紺の結城と、湯河原の富本富次郎宅で時々会い、父の若い頃の話を聞かせてくれた根岸の女侠小笠原しまが、長谷川一夫に貰ったという自慢の代赭色の結城を大いに気に入っていたからだった。
 博教は小学校時代の同級生、設楽桂一郎の父親の経営する呉服店で、濃紫の結城は特注織で手の出ぬほど高価だったので、十一万円の紺色の結城を買った。
  仙台平の袴も一緒に誂えたかったが、金が足りなくなったので石ずりの袴で我慢した。
  着物の値段は赤坂のナイト・クラブ「ニュー・ラテン・クォーター」で用心棒していた博教の五ヵ月分の給料より高かった。
  しかし、これに決めると言った時「偉いなあ、こんな着物が者られて」と設楽は心から感心してくれたが、博教の金の出所は、店のホステス達に頼まれた超不良売掛金の回収等で貯めた金だったのでとても極まりが悪かった。

 この頃、用心棒の他に取り立ての仕事が立て続けに増えた。
 綾子の客は半年も支払いしない内装工事会社の社長だった。
 回収に行くと居留守を使われ裏口から逃げられたが、早朝自宅を出て来た所を掴まえた。数日後、しぶしぶ全額払う時、
「君は若い。飲み屋の集金係なんていう生活態度はやめたまえ。そんな立派な躰をしてわずかな金をやいのやいのと取りに来るなんて姿は他人の私から見ても恥かしい事だ……」
  と言ったので、博教は会社中に聞こえるほど大笑いした。
  わずかな金と思っているのならさっさと払えばいいだろう。

  美枝の客は新車の真っ赤なマーキュリーでやって来た。
 店が終ると車に積めるだけのホステスを乗せて六本木か横浜へ食事させに連れて行く豪勢な男だった。
 しかし、会社が左前になってしまい集金に行くと、これがあの豪遊していた男の住居かと思うほど汚れて小さい木造のアパートの二階に住んでいた。
  博教が部屋へ入ると奴は債権者達に囲まれていた。
 あの格好いい客とは思えぬほど惨めったらしく振る舞い、頭を下げていた。
  博教は、尾羽打ち枯らせて、債権者に応対する男の節榑れ立った指を眺めながら、一瞬にして潰え去る非力の成金を見抜けなかった自分を愧じ大いに反省させられた。

 客達にだけ驚かされたのではない。
 ミンクのコートを着ていつも外車で店まで送られて来る若草というホステスがいた。この女が仲間のホステス達から金を借りたまま半月も無断で店に来なくなった。
 メンバー係が彼女の部屋に行くと、いきなりナイフを持ったチンピラが出て来て追い返されてしまったという。
  真っ青になって報告に来たメンバー係の矢田に詳しく地図を描いてもらって、四谷のアパートの彼女の部屋の前に立つと「不在」という紙が貼ってあった。「不在」と書かれた紙の貼ってある戸をノックした。
 シンとしている。用心しながら立て付けの悪い戸の隙間から中を覗くと、人が動いたように見えた。
 「開けろ」大怒鳴りしてから、連れの居るふりをして「よし、開けないんなら薪割で戸をぶち破れ」とはったりを掛けると、女の声がして、すっと戸が開いた。
  靴のまま四畳半一間の部屋に入ると中央に丸い卓袱台が一つあって、その向うにYシャツをだらしなく着た若い男がふてくされたように坐っていた。     冬だというのに暖房器具もなく、若草の自慢のミンクのコートも店に出る服もない。灰皿もないらしく、湯呑茶碗の中に煙草の吸い殻がいくつも重なっていた。
「おい兄公。店の者をおどかしたのは手前か」
 博教より五、六歳上の男は上目使いにこちらを見たが返事をしない。
「返事しろ」もう一度怒鳴ると、若草が、
「この人じゃありません。弟が丁度来ていて、私が明後日から必ずお店に出ますって言うのを矢田さんが聞いてくれないものですから、弟がナイフを出したりしたんです。弟が私のものを持って行った質店は判りますから、明日きちんとして、明後日からきっと店に出ます」
 若草は約束の日、ミンクを着て店に来た。
 その夜から彼女は二年以上店で働いた。

  博教は、夜の世界で虚飾に飾る人の生態をいくつも見た。

  博教の女性との交遊は、店の美人ホステスばかりではなくなった。
  日本橋白木屋デパートがフランス・エレガンス協会から、ミス・フランス、ミス・ドイツ、ミス・ヨーロッパ、ミス・イタリー、ミス・オーストリアの五人を呼んだことがある。
 その宣伝を受け持った東西通信の重役の紹介で、フランス・エレガンス協会会長のゼレール氏と親しくなった。
  そして、氏やヨーロッパのトップ美女達を東京中案内して歩いた。
 彼女達の中で博教が一番気に入ったのは、ミス・オーストリアのルイザ・カルメマイヤーで特別親しくなった。
  そのきっかけとなったのは、仕事が終っての帰り道で彼女がショーウインドーで見つけたが買えなかったという黄色と茶色の混じった洋服の生地を、彼女の廻ったというあたりの店を、一軒一軒尋ねて買って来たからだ。
 欲しかった絹の生地を手にした時の彼女の顔の輝きといったらなかった。

  当時、日本中が話題にしていた、ミスユニバースの美女・小島明子とは二度言葉を交した。
  一度目は羽田で偶った。彼女が羽田空港でタクシーを拾えず大荷物を前に困っているのを見つけたのだ。
 博教が道の真ん中で強引にタクシーを捕まえてやると、その車に乗り込んだ彼女が窓の向こうから礼を言って去った。
  二度目はそれから数カ月後、赤坂のナイトクラブ「コパカバーナ」を出て車に乗ろうとすると、店を出ようとした彼女は博教の顔を覚えていてくれて、律儀にも「先日は有難うございました」と小雨に濡れながらわざわざ挨拶しに来てくれた。
  博教は嬉しかった。
 一緒だった仲間にどんなに鼻が高かったか。

 「そこに書いているガールフレンドは全部写真が残っているから、見せてやるよ。白黒だけどよー、見ろよ。べっぴんさんだろ。もう外人だろうが、ミス日本だろうが、おかまいなしですよ(笑)ルイザと親しくなりたくても英語がわかんねぇだろ。だから移動中のタクシーの中で彼女の抱えていた花束のなかから薔薇を抜いて、ムシャムシャって食べたんですよ、受けたよ!そんな日本人はいないからね(笑)そういうコミニケーションが俺は出来るんですよ」

 博教はどんな美女にも照れることがなくなった。

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 1963年、博教は大学に在籍しながら用心棒を続けた。
  お店と学業の両立は、23歳の若さであったが、次第にキツくなった。
   博教は八時きっかりに店に入って、午前二時、芦田やすしの楽団が演奏する「グンナイ」の曲が終り、総ての客が帰るのを待ってからホテル・ニュージャパンの部屋に戻り眠る毎日だった。
 翌日早起きして無理に大学に出掛けても教室に居るというだけで、午前中の授業の総ては机に突っ伏したままで眠るのが常だった。
  そして日曜日には市川の家に帰った。
  或る日曜日、父の言いつけで井戸水を汲んでいると、国粋会会長森田政治と副会長の高橋岩太郎が一人の乾分も連れず二人きりでやって来た。
  隻眼、固太りで黒豹のように俊敏な森田政治、巨漢、剽軽な事ばかり言って周囲の人を笑わせるのが好きな高橋岩太郎の両人は、褞袍姿の父の前に正座すると持参した土産「千疋屋」の果物の横で挨拶した。
「まあ楽にしろよ。森田には時々競馬の人参代を貰いに行くから会う事は多いが、岩、お前に会うのは本当に久し振りだなあ」
 この年、大正2年生まれの森田政治は49歳、高橋岩太郎は50歳。
 梅太郎は73歳だった。
「らくにしろよ」と言う父の言葉に従って胡座をかいた森田と高橋は梅太郎の若い頃の思い出話に花を咲かせた。
「ヒロちゃん、小父さんの金の使いっぷりっていったら大したもんだったよ。小父さん覚えていますか。私が二十二かそこらの頃、家の親父のお供で大森海岸近くの待合に行った時、大勢芸者を呼んで、後から来た広沢虎造に着ていた羽織をやりましたね。いつか代地の貸元みてえになりてえって思った。森田も銀座で金を散蒔くがあんなもんじゃなかった」
 高橋の話が終ると、待っていた様に森田が真顔になって、
「小父さん、ヒロ坊を私んところに下さい。乾分に欲しいと言うわけじゃありません。小父さんさえ承知してくれれば吉日を見て、内々だけで兄弟分の盃をしたいと思ってるんです」
「いけねえよ、森田。度胸三分、我慢七分っていうじゃねえか。こいつにはまだ我慢が足らない。嬉しいがまだ二十三だ。改めて考えてやってくれ。森田、お前の懐でめし喰いに出よう。岩、先刻から人形ケースを眺めているが欲しいのがあればどれでもやるよ」

  博教は、自分が必要とされていると思うとそのやりとりが嬉しくてならなかった。

  この頃、銀座のゲイ・バー「やなぎ」へ初めて連れて行ってくれたのも、国粋会の会長森田政治氏だった。
「みろ、こんな稼業で生活を立てている奴もいるんだってことを……」
そんなことを言いながら氏はゲイ・ボーイを侍らせて酒を飲んだが、博教は彼等が運んで来たオレンジジュースのコップにも、気味が悪くて触れなかった。
  主人のお島が店の者全員を築地の花柳流の何とかという有名な師匠のところへ通わせているから、踊りは本物なんだ、と氏は説明してくれた。
 しかしそんなことを言われても、男の化けた女がかなりしつこく客にせまるゲイ・バーは、博教にとっては辛い所だった。

  森田氏のお伴で三度目の「やなぎ」に行った夜、
「申し訳ございません。本日は特別なことがありまして、どなた様にも入店をお断わり申し上げております。どうぞ悪しからず」
「馬鹿野郎、自分ちの庭場で木戸突かれたんじゃ、何でこの年まで不良やってきたんだか判んねえじゃないか。特別なことっていったい何だ。入るぞ。お前が入ロはしっかり守っていたってことはお島に言ってやるから、そこどけ」
  森田氏と博教は狭い階段を上がって店に入った。
「おい、お島、特別なことって何だ」
「あら、ご免なさい。会長でしたら構わないんですけど、奥にアラン・ドロンさんがいらっしゃってるんです」
「アラン・ドロンって誰だい」
 氏は博教に尋ねた。
「フランスの映画俳優です。『太陽がいっぱい』なんて言ったって、小父さんは観ていませんよね。日本の若い女なら、もう誰でも惚れてるってくらいハンサムな男ですよ」
「そうか、そいつの顔見てえな。お前行って、ここへ呼んで来い」
  お島は何か言おうとしたが、それには構わず立ち上がって店の奥へ行くと、アラン・ドロンと数人の男が酒を飲んでいた。
「メイ・アイ・イントロデュース・ヴェリー・フェイマス・トーキョー・ギャング・スター」
  追って来たお島の口添えもあって、アラン・ドロンは気持よく森田氏の席まで来てくれた。
  氏は十九歳の時、闇討ちされ、顔をざっくりと斬られたために隻眼となった。
 その貌をほころばして、坐ったままドロンと握手した。それからドロンは博教と握手してくれ、席へ戻った。
  びっくりするくらいの握力だった。
 ドロンが如何に日本の女達にもてるかを氏に話していると、ニュー・ラテン・クォーターのママ、山本浅子と巨人軍の長嶋茂雄が店に入って来た。
 アラン・ドロンが来たので、お島が気を利かして連絡したのだろう。
 二人が席に着いたのを見て挨拶しに行った。
 その翌日、森田氏は、アラン・ドロン、ジャン・ギャバン共演の「地下室のメロディー」を観に行こうと言った。
 一度観た映画だったが、承知した。
 それからの氏は半年ほど、新しいホステスが付くとわざとらしく、
「おい、この前『やなぎ』で俺に挨拶しに来たフランス人、なんていったっけ」
「アラン・ドロンですよ」
 そんなことをやって愉しむ氏はこの時四十九歳だったが、子供のまま大人に成ってしまったような無邪気なところのある人だった。

ゲイバーで長嶋さんとアラン・ドロンと森田さんって、この組み合わせがいいだろ。ホント、なんの飲み会なんだよ。赤坂や銀座の夜というのは出会いだらけなんだよ、もう俺も照れる暇もないんだよ」

「出会いに照れない」博教の信条はこの頃に鍛えられた。
  そして、その交流はさらに広がっていった。
                            つづく


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