慚愧の前歯
パーマ掛かった白髪を耳にかけたおばちゃんが前を通る。それを見て、佐野元春みたいだと思う年頃のわたし、
そう、わたしは50代、
正確には51才
信長は去年死んだが、まだまだ子供達は親の庇護を離れず、働き盛りなどと世間に言われ、隙をみつけては女も口説く。
そんなわたしの
そんなわたしの
前歯が抜けた。
正確には抜いた。
歯医者で、とうとう前歯を抜いた。
10代の前半には、奥歯ボロボロ、剰え、前歯まで虫歯になった。
わたしのせいではない。
我が父母が悪い。
自分達もボロボロの口内で若入れ歯だからと、幼いわたしのプラークコントロールを怠り、わたしはどんどん虫歯になった。
些細はこちらに
こんなもの、今のご時世なら、ネグレクトで民生委員なんかに突撃される案件だ。
それほど、子供の虫歯は親が悪い。
責任転嫁でも何でもない。絶対真理だ。
その証拠に、完璧なプラークコントロールを施した我が子供達は虫歯ゼロだ。
ゼロという概念は狂ったインド人が形而上に登壇させた幻でしかないが、
あえて使う。
ゼロだ。
10代の後半で、自らの意志で虫歯を排除し、20代の前半に前歯3本をさし歯にした。
これでパッと見、整った歯並びにした。
あれから30年。
新たな虫歯などもっての外、作りものの差し歯の手入れも怠らず、自らのプラークコントロールに勤しんできた。
しかし、銀歯だの差し歯だのは所詮は人工物、
寿命がある。
突然、ポロっととれる。
みんなにも覚えがあるだろう。
今回、何度目かのポロって、やつで、差し歯が取れた。
あらあら、
わたしは慌てない。歯医者に向かう。
「取れちゃった。付けてくれよー先生」
歯医者は言う。
「土台変えた方がいいよ。割れてる」
「なるほど、じゃあ頼みます」
30年前の土台だ、よく頑張った。これからは新しい土台が、わたしの"SASIBA-LIFE"を支える事だろう。
では早速と、わたしは麻酔を打たれる。
ズドドドドドドド、カンカンカン、チュイチュイチュイチュイーン、ズドドドドドドド。
麻酔をしているとはいえ、上顎を砕かんばかりの衝撃が鼻の下を揺らす。
と、そのとき、
ガッ!
衝撃は米神にまで響き、歯医者の手が止まる。
「割れちゃった」
え?
「根本が割れちゃった」
ええ!
「でも大丈夫、クラックをセメントで繋げればいけるでしょ」
ああ?そう?
軽い疑念はあったが、元来わたしは人間性善説が心情だ。
歯医者を信じよう。
しかし、その夜から始まる激痛、
神経の無い歯から激痛が走る。
歯根は腫れ上がり、出血が止まらない。
一週間は堪えた。
が、何もかもが止まらない。
やってられるか。
人は悪意の塊だ。
何が性善説だ。
黙れ孟子、くたばれジョンロック、
くっそー、あのヤブ医者めー。
こういう時は、目線を変えた方がいい。
所謂セカンドオピニオン
他の歯医者に行く。
椅子に座り、口を開けたわたしは、あのヤブ医者への疑念をぶつける。
「へんへい、わへるとかあふの?」
「うーんまあ、年齢もあるし、神経の無い歯は弱いからなあ、一概に、その医院のミスとは言い難いなあ」
同胞相哀れむ、同業者の悪口は言わんか。
わたしも社会人だ、覚えはある。
「でもこれ、抜かなきゃ、炎症は治らないよ。
どうする?」
「抜いたら、そこはどうなりますか?」
「そこ?」
「ええ、かつて歯があった場所です」
「ああ、歯茎だけになるね」
「じゃあ、ブリッジかなんかで隣の差し歯と絡めるんですか?」
「差し歯でブリッジはできなきよ、隣の神経のある歯を削ってブリッジする」
「それは嫌です」
何が悲しくて、この年まで残った健康な歯を削らなきゃならないんだ。
親のネグレクトでボロボロになった歯達を、15才で自力で立て直した。
その中で残った健康な歯だ。それも前歯、
35年。
食いしばりや歯軋りにも耐え、我が口中に生き残った友だ。
滅んだ歯の為にそんな無惨な事はしたくない。
ユーミンも歌っている。
傷付いた友達でさえ、置き去りに出来るソルジャー♪
「他に対処は無いですか?」
「じゃあ、インプラントか入れ歯だね」
出た、インプラント。
「インプラントはいくらですか?」
「うちなら40万円です」
30年前は60万円だった。20万円安くなっている。
が、
高い。
黙るわたしに歯医者は言う。
「入れ歯は安いよ。さんぜんえんで作れるよ。
前歯の入れ歯は若い人にも結構いるよ。ケンカなんかで折れちゃって」
また随分と限定した例えだな。そこは、事故でいいだろう。
ケンカで前歯が折れるとか、
ヒロシにボコボコにされた柴田くらいしか知らんよ。
うんともすんとも言わないわたしに、歯医者は、入れ歯のサンプルが入った箱を持ってきた。
大小様々な入れ歯はネジでも付ければ、そのままカタカタと、動き出しそうだ。
しかし、偽物の歯と歯茎で作られたそれらを眺めていると、子どもの頃に見た、父母の入れ歯を思い出す。
父ちゃん母ちゃん、とうとう、わたしもあんた達の仲間入りだ。
まあ、前歯一本だ。とりあえず作るか。
よく見る輪っかのついた一本入れ歯を指差し
「コレですかね?」
とわたしが言うと、歯医者は上顎を覆うような偽物歯茎に一本だけついている入れ歯を指差した。
「差し歯には入れ歯は引っかけれないよ」
また出た。差し歯問題。
前歯一本の為に、フックを奥歯に引っ掛けるらしい。
スルメの三角頭くらいの大きさの偽物の上顎にちょこんと乗っておられる一本の
🦷
わたしは死ぬまで、アレを付けるのか?
これじゃあ、女も口説けない。
そればっかり言っているなとお思いか?
男とはそういうものだ。
勝手に口説けばいいじゃないかとお思いか?
バカ言っちゃいかん。
あなた、よくお聞きなさい。
口説いている時にはありますよ、前歯。
まだ前歯がある口で、あの手この手で口説いてですね、まあ、先方もまんざらでもないなんて空気になったら、早いですよ。
そそくさとそういう場所の門をくぐり、さっさとボタン押して、ドアを開ける訳ですよ。
さあ、見つめ合うふたり、そこで一言
「ちょっと待って」
と言って、わたしはスルメの三角頭に一本前歯を吐き出す。
あなた、どうします?目の前のまんざらでもない男が、いや女でもいい。いやいや女なら尚更、目の前の顔がヒロシにボコられた柴田ですよ。
そんなもの爆笑
更に、吐き出した入れ歯と歯の無い顔を見比べて
「無いわー、これは無いわー」
と帰るでしょ?
わたし歯何の話しをしているんだ?
フリック間違えた。
わたしは何の話をしているんだ?
くっそー、オチも弱い。