徳の高い・寝そべり・命の輝き
先日、上記のような記事を書いたのだが分かりにくい点も多い気がした。
たまたま大阪市役所で徳の高い・寝そべりを称える像を撮影してきたので、これを機会に書きなおした。
免責
この記事は個人の感想であり効果効能を保証していない。また、お気持ち表明や無意味なレスバなどあなたが受け取った感情の返品・交換は受け付けていない。掲載している情報は投稿時のものであり実際と異なる場合がある。また特定の会社や集団を支持・反対するものではなく、書かれていることは全て一般論である。送料は660円。
徳の高い・寝そべり、とは?
寝そべり
社会からの過度な要求を拒絶し、人間が人間らしく生きていける選択の1つ
徳の高い
寝そべりだけでは奔放になり堕落しがちだが、社会的価値観ではなく主観で幸福を追求すること。
誰…何…?何人?
このキャラクターを指して「何人いますか?」と聞かれたらどう答えるだろうか?赤い丸や目、そして青色の可変ボディ、これを何人と数えるだろうか?
現実社会も同じで、法人や宗教などの大規模なものから地域コミュニティやクラブなど小規模なものまで、いろいろな形に変えながら人類は生活をしている。
しかし、そういう集団(群れ)単位での「人類」の時代は終わりつつある。
個人のお気持ちや意見が重視され、人権や諸権利は不可逆的に設定されている。その結果として集団は崩壊に向かっている、というのが現代社会の正確な見立てだろう。
命の輝き、とは
「人類」ではなく「人間」として生きるには
「群れ」か「個人」かという比較や2択は適切ではない。
個人主義というのが近代で流行ったが、人類の群れる属性や実際の社会から考えると無理が生じてきている。
「個人」として生きていけない人類は、そこそこ多いらしい。
そこで「徳の高い・寝そべり・命の輝き」である。
自らがミャクミャクのような制限を受けない「命の輝き」という認識を持てば、それはもう「人間」になったと言っていいだろう。
「群れ」では大幅な制限を受けることがあるが「徳の高い・寝そべり」は馬鹿げたマナー講師みたいな制限や、非人道的な過度の要求を拒否する。
可変の存在であるから「個人」でないことも選べるので、ある程度は世俗に迎合する振りをしてもいいだろう。
あなたがどういう存在になるかは、流されるままでもいいが可能であれば「徳の高い・寝そべり」という指針で幸福を実現化してほしい。
おわりに
般若心経は「空」を説いているから虚無だと勘違いされやすいが「制限がない・囚われることもない」という解釈もある。
ただ、完全に解放され自由になると孤独になってしまう。それはそれで苦しい。虚無感に襲われてしまうこともあるだろう。
しかし自らが「命の輝き」であるなら、ぼっちの個人で過ごし続ける必要はない。人類ではなく人間として誰かと繋がっても良いということになる、かもしれない。
残念ながら、私は誰からも人間扱いはされないだろうし、群れにも入れてもらえないだろう。繋がる事も少ない。
逆に言えば制限も受けていないので、たまに「人間をまねた振り」をするのも健康に良いかもしれない。