”凝り”を諦めるようになる瞬間は『成長』か、『後退』か。
人間とは、”凝る”生き物である。
「このガチャガチャの景品があと1種類で揃うから、もうすこし買おう。」みたいなことが起こる。
noteにおいても、太字を使ったり、『かぎかっこ』を使ったりするのはある種の”凝り”である。
この”凝り”は、生きる上では必要でないことがほとんどで、必要に応じて切り捨てることが往々にしてあると思う。
この”凝り”を捨てる、という判断をするのは正しいのかどうか疑わしい所ではある。
私はそこそこ”凝り性”の人間で、私の行動全てに大小さまざまな”凝り”が介在する。
この記事はPCを用いて入力しているが、周辺機器だけでも『キーボードはUSB接続に限る』、『マウスは無線でチルトホイール、サイドボタンがついているものに限る』、みたいな”凝り”がある。
ラジオ編集の作業効率を鑑みてのものなのだが、まあこれらの条件を守らなくても作業はできるのである。
そういった”凝り”を諦める時が割とある。
”凝り”を守るのが面倒臭くなった時や、”凝り”を諦めざるを得ない時など。
そして、その凝りを諦めてみると、意外とその凝りが無くても生活が困ることが無いのがわかるし、むしろ凝りを諦めることで肩の荷が下りたように楽になるときすらある。
しかし、その凝りは個性だったりするのではないだろうか?
適度に凝りを放棄することが人間として正しい成熟なのではないだろうか?
『大人になる』というのは、自らに課した”凝り”を捨て去ることができることなのではないだろうか。