「バイト経験が乏しい」というコンプレックスがある
世間全体的な評価の話なのだが、未熟な人間、特に年齢に対して得た経験が少ない人間は劣っている、という風潮があるように思える。
これは、沢山の経験をしている人、努力をしている人が優れていることの裏返しである。
例えば、同じ社会人でも、普通にひたすら勤労している者よりも、趣味やボランティア等の活動を活発に行っている人間の方が好印象を持たれる。
ここには、“時間は全ての者に平等である”という思想がベースにあるのではないだろうか。
基本的に、人間はみな他者に厳しい。
本来、善悪の天秤に置いた場合完全なニュートラルであるはずの「何もしていない」という行動に対してバツをつけるくらいには他人に厳しい。
あるいは、無駄を嫌っているのかもしれない。
人類は社会性を獲得してから、働くことが当然になったこの世間において、ニートが冷ややかな目を向けられている。
現世の日本においては、「勤労の義務を果たしていない」というもっともらしい理由こそあるが、おそらくこんなものが無くともニートは憎まれていただろう。
勤労に限った話ではない。
適齢期を過ぎて結婚をしていない人間に対しても当たりが強い。
結局、『みんながやって当然のことをやってない』人間としてバッシングの対象にされてしまうのだ。
故に、みんながやっていることを自分が経験していないとなると、とても怖くなってしまうのだ。
私はその一つが“アルバイト”だった。
大学に入ると、大抵の学生はアルバイトを始める。
しかし、私は要領が悪く、アルバイトをするのが怖かった。
私はアルバイトをすることができるようなレベルの人間なのか、アルバイトをして学業を疎かにしないだろうか、そもそも私のことを採用してくれるアルバイトなど存在するのか。
アルバイトのことを考えるとそんな不安に脳が支配された。
結局、私は大学の中に設置されている図書館でアルバイトをしたが、週に多くても2日程度の勤務で、給料としては全然稼げず、その他のアルバイトもしていなかったため、アルバイトの経験としてはまだまだ未熟な状態のまま4年間を過ごしてしまった。
実際、私は常に課題やサークル活動に追われ、それにアルバイトがさらに重なってきていることもあり、要領の悪い私は危うく留年しかけた。
飲食店のような、一般的に“アルバイト”と呼ばれるような社会経験を得ることもなくこの歳になってしまった。
私は他人から“甘ちゃん”と思われることをとても恐れている。
私が社会経験の足りていない人間であることは重々承知している。
人生における“努力”の量もきっと足りない。
このダメージはとても大きいのだ。