「好きこそものの上手なれ」「愛があるから」←もういい

私は未熟な人間だと自負している。

「未熟」という表現は、私にまだ”伸びしろ”があると思っているが故の表現であるように思う。

つまり、私の能力の限界まで達している上でその能力値が他者よりも劣っている場合、私は『成熟』しきっていて、それでもなお世間に認められるほどの能力を有していない、正真正銘の無能である場合、私のことは「未熟」とは言えない。

世の中にはそんな人間がごまんといる。


「人間に優劣は無い」というが、人間そのものを比較するための評価軸が定まっていないことが原因の『定義不足』であり、実際のところは、人間にはきっちりと”格差”が存在しており、それを感じたことのない人間は物心のついている者の中にはほぼいないだろう。

私は多くの趣味を持っているが、音楽・文章・競技などと、私がいろんな分野に手を出せば手を出すほどに、私という人間を評価するための評価軸の数が増えてゆき、その結果、音楽・文章・競技それぞれの『私より優れた人間』の存在があきらかになる。

つまり、私が多くの立場を持てば持つほど私を見下す権利がある人間が増えてゆく、という事だ。

そういう意味でも、精神衛生をクリーンなままに保つためにはある程度手を出す分野は絞るべきなのだろう。


「芸事には点数が付けられない」なんていうのは”逃げ”の末に発せられた綺麗事で、現にこれだけ他人に影響をあたえようと色んなことをしている私が誰の心をも動かせていないことからも、私の能力が劣っていることは明白なわけだが、それとは正反対に世界には『優れている人間』というものが沢山いて、その『優れている人間』と定義される方達はテレビ番組に出演していたり、インターネットで高い評価を得ていたり、たくさんお金を稼いでいたりしている。

私は自分の能力でお金を稼いだことがないからな。

芸事の世界になると耳が腐り落ちるほど耳にするのが「愛を感じる」という言葉。

人間というのは本当にヘンテコな生き物で、質の高い素晴らしい作品を享受すると感じるのが『努力』や『かけられた時間』などではなく『愛』らしい。

「(スポーツや音楽、特定のコンテンツなどの名称)が本当に好きじゃないと出来ない」とか言われているのだ。

これを言っている奴は『愛』があればハイクォリティの作品が作れると信じているのだろう。創作をしたことがないのか。


その理論で進行すると、クォリティが低い作品を排出している私のような創作者は「愛が足りないから質が低い」という事になってしまうがいいのか。

「好きこそものの上手なれ」というのであれば、私が”それ”が下手なのは私が”それ”を本当は好きじゃないからなのか。

上手・下手の論評に別の評価軸を無理やり結びつけるとこういうことが起こるのだ。

『歌が上手い』という事実に、『歌が上手い』以上の情報は含有してはならない。

「たくさん努力したんだろうなあ」とかも言うべきではない。

下手=努力が足りていないという式が成り立ってしまうからだ。


人を褒めることはノーリスクだと思っている馬鹿がこの世には一定数いる。

言葉とはあなたが思った以上に複雑で、そして文字量からは想像もできないような意味を孕んでいるのだ。

この記事を読んでいる貴方も、さあ、迂闊な称賛をやめるのです


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