”「趣味」そのものを武器にしているヤバい人がいる”、”「何者にもなれない」”
“趣味”とは本来、その者の人生における“閑話”である。
例えば、一般的な証券会社に勤務している会社員がいたとして、 その人間に「週に一度、バッティングセンターに行って50球バッティングをする」という習慣があったとしよう。
この場合、この人間におけるオモテの顔が「会社員」であり、「バッティングセンターで50球」は“趣味”に該当する。
私の場合は、オモテの顔は「学生」であり、作家ではないため、この毎日投稿しているnoteは“趣味”にあたる(noteによって収益を得ている人間はまた別の括りにおかれている気がする)。
漫画雑誌で連載を担当している漫画家がTwitter等のSNSにてイラストや漫画を投稿する行為を“趣味”とはあまり認められないし、ましてや、大学教授が自らの研究を“趣味”と言うことがあるが、あれはただの謙遜でありゴリゴリのプロフェッショナルであるため注意が必要だ。
話を戻すが、”趣味”とはその人間のサイドストーリーであり、一人の人間を樹木だとすると、”趣味”とは葉のようなものだと思う。
このたとえはこれまでの話と少し食い違っているかもしれない。
しかし、割と的を射ている気がするのだ。
樹木は、幹を切られたり、傷つけられたりすると多くの場合で死んでしまう。しかし、葉は切られたり毟られたりしてもただちに影響はない。
だが、植物が生きていくために呼吸をしたり光合成をする場所も葉であり、重要な器官であることには変わりはない。
そういう部分が”趣味”という存在と葉の似ている所であるように思える。
幹と葉が別の位置に存在しているように、人生において”趣味”というものは本筋とは別の、どこか距離のある場所に存在する概念なのだ。
しかし、世の中には”趣味”というものを自らの武器にしてしまう人々が存在する。
「好きなことで生きていく」というような、『趣味を仕事にしている人間』とはまた別の存在である。
最もわかりやすい例として、ラジオパーソナリティが挙げられる。
これは余談だが、近年の人気なラジオは、著名なアーティストや俳優、コメディアンがパーソナリティを担当するケースが多い(というかそればっかり)が、ラジオパーソナリティを専業としている方というのも存在することを知っていただきたい。
ラジオパーソナリティは、情報やトークを音声で発信することを主な仕事としているのだが、その中に、フリートークというものが存在する。
フリートークの主な目的としては、簡単に言うと聴取者の暇を潰すことと時間調整だ。
ラジオという存在がまだまだ軽視されている現代において、実は喋り一本実力勝負というなかなかに過酷な現場である。
そんな中で話題として挙げることが多い”趣味について”のエピソード。
ラジオパーソナリティという職と、その趣味の内容は直接リンクしていなかろうが、趣味を持っていることで本職のパーソナリティという仕事で武装をしている。
もっと極端な例を挙げるとタモリ(森田一義)氏がそうだろう。
彼の本職は恐らくコメディアンなのだが、身にまとう”趣味”の装甲が厚すぎて、もはや彼は趣味という概念の化身と化している。
ここはインターネットであるから、インターネットの話をするが、ブロガーのARuFa氏もその一人であるように思える。
インターネットで活躍されている方を「○○氏」と呼称すると、あまりにもオタク過ぎることに気が付いたが、彼は(株)バーグハンバーグバーグという企業の会社員として、サイトの管理やメディアの編集といった一般的な業務を行っている(はず)だが、記事やラジオを製作したり、動画に出演したりしている。
私は彼が出演している動画やラジオをよく視聴しているのだが、彼の”趣味”に対する姿勢がかなり特殊であるように感じた。
人間は”趣味”を会得する際に、タコのように触手を伸ばして手繰り寄せたり、もしくは近くを通りかかったタイミングでとらえたりするイメージなのだが、彼はその触手がめちゃくちゃ遠くまで届くしその動きも速いのだ。
簡単に言うと、その”ことがら”を趣味にする際に越えなけらならない精神的距離と精神的障壁というハードルを容易に突破することができる力を持っている、という事である。
”趣味”に関してあまりにも躊躇がないのだ。
彼はラジオ内で「趣味がない」と述べていたことがあった(記憶がある)が、おそらく自身と外界の境目が曖昧であるために、”趣味”として外界の”ことがら”を取り込む際にあっけなくエンドサイトーシスを完了してしまうために自覚がないのだと思われる。
彼は「趣味の魔人ブウ」状態なのだろう。”趣味”を取り込んで、武器はおろか血肉としている、稀なケースである。
「何者にもなれない」ことで有名な我々だが、一般人である我々の『”趣味”そのもの』に何も価値がないことはお気づきであろうか。
私は、「何者にもなれない」という事象の定義として、『その人間の情報に価値がないこと』であると考えている。
例えば、「何者」といえば、ということで米津玄師氏を例とすると、彼の生活習慣、彼が使用している楽器、彼がよく行くお店から、彼がよく使っている歯磨き粉に至るまで、彼に付随しているすべての情報に価値がある。
King Gnuの常田大希氏が普段どんなことをしているかを知りたい人は確実にたくさんいるだろうし、どんなものを使用しているかに興味をもっている人もいるだろう。
「何者かになれた」側の人間は、その人間のすべての情報に価値が生まれているのである。
Twitter等のSNSのフォロワー数にはその人間の価値のダイナミクスを残酷にも明確に可視化している装置という側面があることについては今回は触れない。
「何者でもない」私たちには、その情報に価値が存在しない。
私が今、この記事を入力しているキーボードが”どこ製”でいくらするのかということに興味を持っている人間がいないように、私たちには誰からの矢印も向けられていないのである。
また、『その人間の情報に価値が存在しない』という”事実”もまた、私たちの「何者にもなれなさ」を強めている。
「何者でもない」私たちには、名前が必要ではない。
なぜなら、私たちおよび私たちに関する情報に価値が存在せず、私たちの名前を口にして話題にすることがあり得ないからである。
輪郭も色も持っていない図形は、「形」として認められないのだ。
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