ドリフで笑える人、笑わない人

飲み会でドリフの話になった。

参加者のうち数人が、ドリフを幼少期にDVDなどで観ていたらしく、『〇〇っていうコントあったよね〜』みたいな話で盛り上がっていた。

その話が高じて、みんなでドリフを観ることになった。なんと、U-NEXTでドリフが観れるのだ。いい時代。


みんなでドリフのコントを観ていた時、不思議なことが起きたのである。

『幼少期にドリフを観ていた』という数人はそのコントを観て大爆笑し、それ以外の面々はコントを通してひと笑いもしなかったのである(「ふふっ」くらいはあったかも)。

私も後者だったのだが、そんなに声を出して笑いはしなかった。

つまらなかった、という訳ではない。

声を出して笑うほどの面白さには感じなかった』というものである(これも十分に失礼であることは承知している)。


これは単に、『幼少期にドリフを観て育ったか否か』で笑いのツボが変わったのだと思う。

ドリフとは、『舞台で芸人たちが面白いことをし、それを観た観客席の子どもたち(大人もいる)が笑っているのを観る』番組である。

このやりとりをずっと観続けることによって、
“ドリフのメンバーが面白いことをする”→“笑う”
という回路が構築されているのだと考える。

テレビ番組がなぜガヤの笑い声(の効果音)を入れ続けるのかというと、『この効果音が(笑い声)がなっている時に笑ってくださいね』というガイドの役割を果たすからである。

この刷り込みはドリフに関わらず、全てのバラエティ番組で行われており、私は『エンタの神様』や『めちゃイケ』、『はねトビ』を観て育った世代なので、これらの番組が設けている“笑いポイント”で笑うように調教されているのである。

(私はそれに加えて落語や『ケータイ大喜利』などの大喜利番組をよく観ていたので、こっちのツボもある。)

つまり何が言いたいのかというと、笑いのツボというものはその人間が何の番組を観て、どう笑わされたかで決定されるものであり、現代の人間がドリフのコントを観て笑えなかったのは決してドリフのコントが現代に適合していないとかそういう訳ではなく、これまでドリフを観てこなかったために笑いのツボがドリフ用にチューニングされていないだけなのである、ということだ。


考察として私は『幼少期に視聴したものの影響を大きく受ける』と述べたが、精神がある程度成熟してしまった現段階でも笑いのツボを変形させることは出来るものと予想する。

過去に令和ロマンのYoutubeチャンネルに投稿されている漫才を視聴した際に、あんまり気持ちよく笑えなかったのだが、M-1グランプリ2024の決勝の漫才をテレビで観たのちにYouTubeに投稿されている漫才を再び視聴するとたくさん笑った、という経験をしている。

これを『矯正』ととるか、『拡張』ととるかは議論の余地がある。

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