2古武術屋さんが「精神の生態学へ」をよんで勝手な解釈をつけてみる
僕は新陰流という古武術(戦国時以前、江戸時代)をしていまして、今まで現代武術(ざっくり明治以降)をやっていた人などに説明している時によく起きる先方の解釈の間違いのことを思い出しました。
そもそも論として、新陰流ができた時代は今のデータからどうだという帰納的なデータ集めとは少し質が異なるように感じます。編集者は上泉伊勢守にということになるでしょう。そして戦国時代の中で技の洗練度が最も優れていると、戦国時代を平定し江戸を気付き上げた徳川家康が天下の剣としておかかえになったと思っていただければ大丈夫かと思います。
型というのは尋常じゃないデータを集めて法則(ベイトソンの言葉でいうなら「基底的な知」)見つけたものを、後世に再現してもらうということに他なりません。
つまり、ベイトソンが嘆いているかはわかりませんが、
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p 29(引用)
「今日の行動科学が「帰納性の偏重」に病んでいることのあらわれである。「基底的な知」とのつながりを失ったところで、いくらデータを集めてみても、真っ当な科学は始まらない。ひとりよがりの理論的考察がはびこるばかりである。(中略)
ーー科学の研究には起点が二つあり、その両方にしっかりと根ざしていなくては行けないということだ。まず観察をなおざりにしてはならない。と同時に、基底的な原理から外れてはならない。
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というところをちゃんとやっていたから今でも再現が可能なのでしょう。
(ただ本当に上手な新陰流の使い手は極少数で、僕の体感では宗家(現在の柳生家は一度新陰流を継いでいくことを諦めているので、原型を留めていない感じです。習うなら他に行った方がいい)を除くと数名のみです。)
そもそも戦国時代の武芸を考えると、基本的に負けると死んでしまうので強制的なトーナメント方式なので、生き残って行った技というのは自動的に洗練されていきますし、命がかかっていますから習う方も再現するのに真剣だったと思います。再現度は高かったことでしょう。
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p 26
「科学の究極の目標は基底的レベルでの知識を増やすことにある、とか。」
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このあたりの話は、次がある試合の勝ち負けではなく、次がない生き死にの世界になると、型の精査が厳しくなったと思いますし自然と究極的な目標に歩みが向いたんでしょうね。
余談ですが、すでにお気づきの人もいるかもしれないので付言させていただきますと、これを逆にいうと、天下泰平になったあとって平和な時代なわけですから殺しの技術に対して風当たりが強くなったと思われます。それを上手くやったのが「活人剣」の方便ですね。人を活かすというプロパガンダを投げたんだと思います。
技の継承時代はというと、シビアさがなくなり、そもそも江戸末期の官僚化した武士は飾りに命をかけてるくらいですから、ご多分に漏れず柳生家の技の継承においても問題があったようです。
(戦後、柳生厳長が自分の息子に継がせることを諦め、技を外に出します。そして受け継いだ方が様々な文献などを精査し、明らかにおかしな技を弾くと言った取捨選択、及び本来はこうだったのではないかと全体に一貫した体捌きがあることを見つけ修復が行われた結果、再現ができています。)
さて、話を戻しまして演繹が可能でない技は自然淘汰される時代だったのが戦国時代ということすね。そういう意味では一見すると成果が出るかわからない科学のデータ集めが、集めること自体に意味がある、エジソンが「私は失敗したことはない。できないことが証明した」という感じの話を思い出しますが地道な作業を科学というのは絶賛放送中「Dr.Stone」の石神千空の名言ですし、実際それはそれで大事だと思います。
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p25
「科学者はデータから出発し、データに立ち返っていくのでなくてはならない」
p29
「まず観察をなおざりにしてはならない。と同時に、基底的な原理から外れてはならない。」
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は良いとしても
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p24
「彼らはデータから仮説へと帰納的に思考と議論を進めていく訓練は受けていても、科学と哲学の基本的原理から演繹的に導き出した知識を仮説と照合していく訓練に欠けていたのである。」
p25
「そうは言っても、データが最も信頼をおける情報源であることに変わりはない。科学者はデータから出発し、データに立ち返っていくのでなくてはならない」
p 27
「残念ながら現代の・・・(中略)概念のほとんどが、科学の基本原理が作る知のネットワークから完全に浮き上がったものであることは明白である」
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この辺りはだいぶ毒を吐いてるなという感じはしました笑
ただ、個人的に面白い発見があったのは、p27の引用部の「現代の概念」(おそらく「現代の科学」と科学にも現代という言葉がかかる)という言い回しですね。
この言い方だと(本書をまだ全部読んでいない過去に読んだ記憶はもはやないw)、現代に生み出されてない科学や概念に関してはベイトソンは比較的好意的なことになります。
そして、新陰流の型の生成は元々新陰流ができる前の陰流、新当流、念流の三大源流も含めて中世の体捌きをブラッシュアップしているので、現代でも型を再現できるのではないかという仮説が僕の中にでてきました。
これからこの仮説がどうなるかは僕にもわかりませんが、こんな方針でゆるっとメモを増やしていこうと思います。
途中矛盾することもありますが、最終的に体系化できたら良いかと思いますし、めんどくさくてやめるかもしれません。
そんな雑な感じですが、よろしくお願いします。