falling,
あ。
これは、恐らくシグナルだ。
危険を知らせる信号。長らく鳴らなかったせいで、幾度も勘違いをした、何年振りかの。
落ちる、と思った。
思った気がする。気がする、なのは、その時が訪れていたのに気づいたのはもっと後のことだったから。
――――――――
すっかり忘れていた。
そこそこに年を重ねてきた中で、数えるほどしかない「それ」は、いつだって自分が気付く前に始まっていたのだった。
自覚もなく、自分はどれだけの熱量を垂れ流していたのか、思い返すと恥ずかしくて堪らなくなる。いつもそうだ。いつの間にか始まっている。目の前の対象に対して夢中で、瞬きすらも忘れて、そうして一言も漏らすまいと彼の言葉を聞き続けていた気がする。言葉を、声を、思考の道筋を、夢中で辿っていった結果、自分で気づく前に深みにはまって身動きが取れなくなった。
身動きが取れなくなってから気づく。今までと違う、一番まずい、よろしくないところにはまり込んだと。今度という今度は、本当に、想定外だ。
* * *
自覚したのは、恐らく彼からすれば他愛もない一言。
「俺があなたから離れるときは、ちゃんと何でか言ってあげるね」
この一言が、自分にとってどんな意味を持つのか彼は多分知らない。彼からすればいっそ哀れみだったかもしれない。何もわからないまま消えていった、今までの誰かしらの影は、消えなくとも薄めるには十分な一言。水滴が零れ落ちかねないのを堪えながら、同時に、その一言を落とした柔い声に、もうずっと、優しくやんわりと心臓を掴まれていたのを理解した。
気付いて最初は押し殺すことにした。
認めるわけにはいかない。何故?努力の余地はないから。そんなことは百も理解していたし、そう、せめてもう少し綺麗な、生ぬるい形に変えられないかを必死で模索していた。今回よりももっと「余地がない」状況だった時に、自分はそうした筈だ。親友にどれだけ指摘されようとも認めずに終わらせた筈。
そんな風に高をくくっていたのに、誤魔化しようのないところまで追いつめてきたのは当の本人だった。
対峙しすぎたのだ。敏い彼が、自分より気付くのが遅いなんてそんなわけがなかった。親友の介入すらない、ある種閉鎖的な関係で、知りうるのは当事者たちだけ。当然といえば当然の結果。
「俺があなたと向き合いたいと思ってるんだから、そこに は関係ないでしょう」
そんなわけあるかと思ったし、正直な話勘弁してほしかった。
人がどれだけ必死でこの気持ちを殺そうとしていると思ってるんだろう。自分が認めていないのに、あなたが認めるようなこと言ってどうする。他でもない、あなたが。本当に、勘弁してほしい。
最初から対象に入らない。そんな気持ちにはならない。そもそも抱かない。万が一抱いたとしても、自分の中で。
そんな足掻きで作り上げた壁は、彼がコンコンと軽く叩いただけで脆く崩れ去る。彼が叩く場所が本当に的確な崩壊点だったのは否めない。他の誰かが相手ならこうはならない自信もある。それでも結局、掬い上げて欲しかったんじゃないかと自嘲した。
この人は気づいている。
それならばと、少しずつ殺しかけた気持ちをかき集めて。それでも迷いに迷う。渡していいのだろうか。認めてもいいよ、と渡してもいいよ、はわけが違う。手の中の気持ちはもうこれで十分な気もした。存在を許されただけで満足するべきだ。本当は欲深い、どこまでも欲しがりな癖に、いや、だからこそ認めては駄目だとわかっていたはずなのに。気持ちを抱えたまま彼がどういうつもりなのか恐る恐る探りを入れる。そうっと。
探りを入れれば入れるほど、芋蔓式に欲が溢れるのを自覚して、途方に暮れたところ。抱え込んでへたり込んで、膠着状態に陥ったのを、動かすのはいつも彼の一言。
「 ?」
苦いような、甘いような、自分以上に困っているような、そんな声に、すとんと覚悟が落ちてきたのが分かった。もしかしたら、思ったよりも甘えすぎたのかもしれなかった。彼は彼で、計りかねているのかもしれない。中途半端に熱量を垂れ流すわたしを。どこまでこの人がわかっているかはもうわからない。多分わかる必要もない。
わたしは腹をくくって渡すだけだ。
渡すのはわたしの自由。
受け取るのは彼の自由。
それならば。
* * *
わたしが価値を見出す「過程」。
見た目の結果は同じでも、何処を経て辿り着いたかが重要。
わたしが何年後か、今と同じようにひとりで立っていることになっても構わないと思った。結果として同じような状況でも、彼と関わる時間が過程にあれば今のわたしと何年後かのわたしは全く違う。まあもちろん、年単位の保証もないのだが。
きっとわたしから手離すことはない。手離される可能性の方が大きいし、そのつもりがあろうがなかろうがきっと離れないといけないのが前提、として考えても。でも、後悔はしない。悲しくても、つらかったとしても後悔だけはない。
そのまま時間が過ぎて、手を離して、彼を見送るなら。
存分に祝福して、見送って、それから自分が幸せになればいい。それだけ、「欲しい」時間だった。一緒にいて、横に立ってものを見たかった。ものを見ている彼を見ていたかった。声を聴いて、触れたくて、触れて欲しかった。
困らせるかもしれない。それでも、欲を出すのは悪いことじゃないと、渡す自由と受け取る自由があると、教えたのは彼だから―――もうしばらく向き合ってほしいと思う。それでも、渡す自由を選択したのはわたしだから、結果がどうなろうと彼のせいでは決してない。
「何でそんな覚悟決めたんだよ!!!」
恐らく初めて聞く悲鳴とともに彼が頭を抱えたのは、わたしが覚悟を決めた翌日のことである。
いっそいくらでもカツアゲしていけばいい。もぎ取れるだけもぎ取って、根こそぎ持って彼の方から手を離したらいい。彼のどこかが僅かでも満たされて、願わくば彼の「過程」にも少しでも価値が生まれればいいと思う。結果は何も変わらなかったとしても。
抱きしめる準備をするのは、今度はわたしの方だ。
*
あなたが好きなの?愛なの?て聞いたけど、愛ですねって答えたのは多分生きてきて初めて、「一緒に幸せになれたら一番嬉しいけど、それが難しいならとりあえずこの人が幸せならいいかな」て思えるようになったからです。
あなたがつらくなくて、幸せでいてくれるならそれでいいよ。
愛してる。