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【かきすてる】両親と僕とわたし

(わたしは今一切病んでいませんが、人によっては不快な内容が含まれるかもしれません)

服を一つ。
靴を一つ。
鞄を一つ。
化粧品を一つ。

ゴミ袋に放り込む。
もったいないなと思う。わたしが買ったわけでもないのに。

母は、昔からわたしに「これいる?」とよくものをくれる。
最初は喜んでいた。別に母にもきっと他意はない。わたしが要らないといえばよかったんだと思う。ただ、「あんたが要らんのやったら捨てる」と言われるのは、何となく脅しのように聞こえた。要らなくても引き取った。そのうち聞きもせずに実家から送ってくる荷物に放り込まれるようになった。趣味じゃない服。色の合わないBBクリーム。手作りの鞄。ほんの少しきつい靴。
「要らんかったら捨てて」
わたしが物を捨てるのが苦手なのを知らないんだろうな。捨てるときの「もったいないな」「まだ使えるのにな」「でも持ってても使わないしな」の葛藤を知らないんだろうな。

―――自分で捨てたくないんだろうな。

父と母のことは好きだと思う。大事だとも思うし、感謝もしている。
尊敬もしていたし、賢い人たちだとも思っていた。
絶対的な存在だった。

最近少し違うことを思うようになって、身辺整理のように少しずつこの文章を書いている。

小さい時から父は厳しかった。母は怒るとヒステリックだったと思う。
でも楽しいこともたくさんあって、いつもいつも一緒にいた。一人っ子だったし、父は帰りが遅かったからふたりぼっちだった。母は私が何かやらかすと仕事中の父に電話をするか、祖母に電話をしていた。
父に電話された日は大変だ。父が帰宅してからお説教タイムだった。寝てても起こされて明るいリビングに呼ばれる。お説教されて、お仕置に一発びんた。これが嫌でたまらなかった。「覚悟を決めろ」「いさぎがよくない」って言われてたけど、めちゃくちゃ痛いのに自分からどつかれないといけない。そのうち僕は噓をつくようになって、余計どつかれるようになった。

父が帰宅するときに待っていたのはお仕置だけじゃなくて、カブトムシを捕まえてきてくれたり、UFOキャッチャーでぬいぐるみを釣ってきてくれたりした。モスラの幼虫のぬいぐるみとか。当時可愛さがいまいちわからなかったけど。一度だけ、寝てるのを起こされてびくびくしながら起きていったらおみやげのたこ焼きを食べさせてくれた。怒られると思ってたからめちゃくちゃおいしかった。

嫌なことばかりじゃない。ということも、ちゃんと覚えておきたいと思う。
くれぐれも書いておくが楽しい時間もたくさんあった。それは間違いない。

基本的に、「何かひどく怒られるようなことをすると捨てられる」という感覚がある。これは多分今の対人関係にもすごく影響していて、大事な人であればあるほど何かやらかすことがすごく怖かった。高校の時に理由もわからず絶交されたことがあって、それが原因だと思っていた。でも最近思い出したんだけど、その意味がわからない絶交ですら「自分に非があるのでは」とか引っかかり続けていたのは、もっと深いところに根があったらしい。

三歳くらいの時に、母と歩いて出かけていて、喫茶店に入ることになったんだけど、「ミルクしか駄目よ」「約束ね」と言われた。うん、といった僕は、中に入るとやっぱりジュースが飲みたくなってそう言った。母は怒って、喫茶店に僕を置いて出て行った。振り返りもせず、子供が走って追いつくくらいの早さで歩いていく。僕は必死で走って追いついて、泣きながら謝った。捨てられると思った。

「悪い子だと捨てる」とよく言われていた。
喫茶店の記憶より古い、僕としての一番古い記憶が、泣いている僕を置いて両親が遠ざかるシーンだ。何かしたんだと思う。「ああもう捨てられるんだ」と思って、声をかけてくれたどこかのお店のお姉さんに返事をしてたら両親が戻ってきた。何でかよくわからないけど、捨てられなくてよかったと思った。
買い物中に怒った母親が僕を置いて帰る。
怒った父親に少し離れた刑務所の塀の外に車ごと置いて行かれる。
全部、3歳くらいから小学校低学年の間の話で、両親としては最終的に連れ帰っているのだから問題ない、つもりだったんだろう。実際僕もそんな深く考えていなかった。ただ今思い返すと、結構怖かったんだと思う。

ほじくり返すと父の厳しすぎるしつけの数々は色々ある。
漫画を捨てられる。部屋のものを捨てられる。壊される。殴られる。びんたされる。ご飯を捨てられる。(補足しておくと、父は間違いなくちゃんと考えて加減をしていた。ということを、家を出て付き合った彼氏に殴られたときに理解した。僕も反抗していたので虐待とかDVとかいう感覚はなかった)

余談だが、この「ご飯を捨てられる」というのは僕の人生にものすごい影響を及ぼしている。「あまりに食べるのに時間をかけすぎる」「遊び食べをする」とかが理由だったはずだが、もう一つ、僕の立場から言うと母の料理は量が多かった。大人一人分の量も多い家だったから、減らしたつもりでも子供には量が多かったんだと思う。
結果、「おなかいっぱいだけど残してはいけない」→「もうちょっとしたら食べる」→「いつまで食べてるの!!」という状況になる。父が食卓にいて、母が怒ると、父の一声で「自分の手で」食事を捨てさせられた。
残すのは悪だと教育された上でのこれは結構きつかった。
もったいないとか、残してはいけないとか、そういう感覚がもう強迫観念レベルで染みついていて、僕は食事を残せなくなった。おなかがいっぱいでも、頼みすぎたなとか買いすぎたなとか作りすぎたなとかがあっても、残すとか捨てるという選択肢がない。出されたものは全部食べる。挙句、母は僕が一度食中毒にかかってから作り置きというものを悪としていたので(原因は作り置きではない)、置いといて翌日食べるとかいう選択肢も最近までなかった。
今ようやく色々と是正されて、ダイエットもして、まともな体重になりつつあるけれど、一時僕は健康に良くないレベルで太っていた。それだけが原因だとは言わないが、そういう感覚もあってのことだと思う。

思い返せば色々あるけど、虐待とかつらい幼少期とかそういう認識を僕が一切してなかったのは、一応、全部に理由があって、僕が何かをしたから、またはしなかったからそういう制裁が待っていた、という事実があるからだ。だから僕は「仕方がない」と思っていた。僕が悪いんだから仕方ない。それでも諦めきれなくてまたやる。漫画を買う、漫画を描く、小説を書く。見つかってまた捨てられる。でも、言いつけを破ってやった僕が悪いから、捨てられるのは仕方ない。
またやる、ていう選択肢はあっても、真っ向から反論する、ていう選択肢はなかった。何でなのかわからない。父が苦手で、怖かったからだと思う。

母は心配性な人だ。母の実家は多分機能不全で、大学生の頃には精神的にもかなり病んでいたらしい。もともと精神的に不安定な人なんだと思う。
僕が幼稚園に上がるよりも前くらいに、全国的に騒がれた連続幼女誘拐事件があった。母はとんでもなく過保護になった。友達と遊んだ記憶が皆無ではないけど、頻繁ではない。少なくとも、「ただいまー、遊びに行ってきまーす」が許されてはいなかった。
遊びに行くのは禁止。
誰かのお宅に上がるのは禁止。
誰かを家に呼ぶのも禁止。
それでも、小学校1年生くらいの時は、家に帰って、母がいて、おやつとか宿題とか言っていた記憶がある。
いつごろからかわからない、母が、帰宅したら寝ているようになった。一応、昔から母は夜型で、僕を産んで相当無理をしていたから、みたいな説明を受けた気がする。どうしたって夜の間は眠れないから。確かにいまだに母は昼夜逆転しているけど、それが本当ならあの頃より以前はどうしていたのか疑問だ。でも当時は何も思わなかった。

僕は静かに玄関のドアを開ける。音を立ててはいけない。母が起きるから。鍵をまだ持たせてもらえなかったときはインターホンを鳴らして、不機嫌そうな母に開けてもらっていた。
宿題をしていた、んだろうか。あまり家で勉強した記憶はない。記憶に強く残っているのは、暗い部屋で、息をひそめて、音を消したテレビを見ていたこと。音を出したら母が起きるから。電気を点けたら隣で寝ている母の部屋に光が届いて怒られるから。ずっと絶え間なく何かが流れているのがよくて、小学生になっても教育テレビをつけていたのを覚えている。
「フルハウス」を見ていた。
最近ダニー役の役者さんが亡くなったのを知って見返して、タイミングのせいもあってずるずると思い出した。
母が熟睡しているのを見計らって、小さく音を出して見ていた。ジェシーおじさんが大好きだった。こんな人がいたらいいのにと思っていて、ジェシーとミシェルのシーンが大好きだった。
何かあればジェシーやジョーイやダニーがみんな寄ってきてかまってくれる、ミシェルがうらやましかったんだと思う。

暗い部屋で母が起きるまで待つ。遅い時は19時とか20時なんてこともあった気がする。
おなかがすくから冷蔵庫を漁って、ものを食べる。小学校低学年なんてそりゃ食べ盛りだよなと今なら思う(前述の食べ物に対する話に付け加えると、この辺で食べ物に対して意地汚くなった気がする)。よくないことだと思っているから、隠す、嘘をつく。不思議と噓をつくのはへたくそで、ばれて怒られる。
そんなことの繰り返しだった。

両親のたちが悪いところは、こういう数々の「行動」に対して、「言葉」では愛情を伝えていてくれたところだ。僕は両親に愛されてないとは思ったことがないし、そこに関して疑ったことはない。
「可愛い可愛い娘」「大事なうちの子」「いなくなったら絶対にダメ」
「元気で長生きしてね」「あなたが死んだらママも死ぬ」(重い)
言葉ではいくらでも言ってくれていたと思う。
(これも余談だが、両親、特に母は「我が家の子」だから大事、と散々言っていた。思春期に僕が思っていたのは、「僕」だから大事なんじゃなくて「この家の子」だから大事なのなら、僕じゃなくていいんじゃないかって話である。思春期独特のくだらない鬱問答なのか、浮かぶべくして浮かんだ疑問なのかいまだにわからない。ただ、「僕個人」を見て欲しい、みたいな欲求はいまだにある)

おかげさまで僕は「言葉」でしか人を信じられなくなっていた。
「行動」と「言葉」の乖離に処理できなくなった末に信じたい方を信じたんだと思う。というか、言葉が信じられなかったら生きてこられなかったんだと思う。洗脳に近い。
友達も恋人も、言葉にされないと何を思っているかわからない。憶測しても合っているかわからない。高校の時の「絶交事件」が拍車をかけた部分もあるが、そもそも僕の中で行動よりも言葉の方が非常に重かったんだろう。
(そのくせ、褒めてはくれなかったのでたちが悪い。勉強は母の方ができたし、絵が好きだったけど専門的な道に行くのは反対された。欲しい言葉は基本くれないのだ。僕の自信のなさはこの辺りから来ている)

特に恋人は迷惑しただろうなと思う。正直それ以上に迷惑かけられたので謝る気もないが、一度「君は本当に信じてないんだな」と言われたことがある。確かにそうだと思う。僕は自信のなさも相まって自分が好かれることを基本的に信じてなかったし、愛情を受け取る手段は言葉にしかなかった。その上、「そういう」親の元で育ったせいか(これは数少ない良い点だけれど)、僕は非常に言語化に長けている方、らしい。
言語化モンスターが言葉でしか愛情を受け取れないから納得するまで言葉を頂戴、て、結構な無理難題を強いていた気がする。

「suiさんは一人っ子なのに、あんまり愛されてこなかったんだなと思ったよ」
「愛情を間違ってるとは他人が言えないと思うけど、それがsuiさんちの愛情の形で、suiさんには合わなかったんだろうね」

わたしが今一番信頼する人は、「行動」と「言葉」の乖離の話を見事に言い当てたうえでそう言った。
腑に落ちて笑えた。

愛されてなかったとは思わないが、わたしが欲しかった愛情とは違った。
あの人たちに育てられておいて、何で合わないようにわたしが出来上がったのか意味がわからないけど、わたしが「一生実家から出ない」タイプのお嬢さんだったらとっても幸せだったのかもしれない。

母は「家族」というものにものすごく執着(この言葉は今初めて使ったけどしっくり来る。あれは執着だと思う)があって、何をするにも家族三人、みたいな感覚の人だ。自分の実家を捨てて、理想の家族を作り上げたかったんだと思う。
父は、大学生の時に母にべた惚れしている。最近思うのだが多分父の行動原理には基本的に母がいるんだと思う。母がやりたいように、満足するように、外界から守って、大切にしてきた。わたしの子育てに関しても。血のつながりがどうしたって切れない、と言っていたことがあるから、わたしのことは切り離せないものだという感覚や情はあるのだろうが、優先順位は母なんだろうなと思う。祖母にされたことを批判する母に、「あんたも同じようなこと娘にしてたでと思った」と話す父が、母のやり方を強く是正したことはなかった。母が望むことが一番なのだ、きっと。
理想の夫婦だと思っていた。それも、「パパとママは対等なんだよ」ていう言葉による説明の刷り込みだ。
多少、いやかなり、歪な夫婦だと思う。
わたしは、守られるのは嫌だ。一緒に立って歩いて、手を繋いでられるくらいがいい。(そういう夫婦だと思ってたんだけどな)

親元を離れても、仕事をしている間はそういう方面に関しては思考停止していたんだと思う。だってめんどくさかった。嫌なことを思い出したくなかった。自分がもしかしたら可哀想だったかもしれないとか、思いたくなかった。仕事をやめて、心に余裕ができて、ダイエットをして少し自信がついて。自分のマイナス思考の癖や、人と対峙する時の感情の振れ幅と向き合う時間ができて。ようやく紐解く気になった。

ずーっと自分のことが嫌いだった。自信もなかった。「両親以上に」誰かに必要とされないと一人ぼっちのような気がしてた。
馬鹿だなぁと思う。

ここ五年くらいで、少しずつ悪い癖を直してきている。
人との関わり方だったり、妙な焦りだったり、コンプレックスだったり。でも、最後の最後、一番の大問題で分厚い壁だったのを、越えつつあるんだと思う。
わたしが欲しかったもの。
わたしがもらえなかったもの。
わたしが与えられてきたもの。
そういうのがはっきりして、受け入れたことで、随分すっきりした。

大事な両親だ。
両親なりの愛情をもって、ここまで育ててくれたし、今も世話をかけている。でも、「理想の家族」の絵空事の中にはそろそろわたしがいなくていいだろう。父と母の二人でやっといてくれと思う。

両親の手の届かないところに、ふと思い立ってもすぐには来られないところに、引っ越そうと思う。
そこまでしてようやく、母の中でわたしは遠い存在になるだろうから。

「ウジウジ悩まなくなって、一本芯が通ったんだと思うよ。よかったね」

わたしが、「最近わたし明るくなった」とうきうきして言っていたら、否定はしないけど、とそんなことを言ってくれた。
芯が通る、ってわたしがすごく欲しくてでもとても難しかった境地だ。昔友達に、「suiは竹を割ったようなじゃなくて、竹の子を割ったような性格」と言われた。竹を割ったようにさっぱりしてそうで、実は結構水っぽい、て意味だ。言い得て妙だと思う。

そろそろ竹が割れたんだろうか。
だとしたら、君と出会ってたくさんの言葉を交わしたおかげも多分にある。
ありがとう。とても嬉しい。

あの家の娘である以前に、わたしはわたし。
随分と部屋のものは減った。引っ越しの為の貯金を始めようと思う。
もう言葉でしか信じられないなんてこともない。
わたしは要らないものは自分で捨てる。
わたしのことは自分で大切にする。

わたし、今のわたしは結構好きだ。

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