にんげん、ウラウラ。
嫌になりそうだ、という感情はもとより。
大学には様々な人がおり、その種類がさまざまで。もはや種類、なんて言葉は嫌気が指すほどの無秩序と課している。
大学に入って、恐ろしいほどの社会と人間関係の罠に絡まっている。
私のなまえをもう呼ばないでくれ。
私のことをどうか忘れてくれないか。
そんな人が沢山いる。
一体何人の人の顔と名前を覚えようとし、(おぼえたくない)、そのたびにわすれてくれ、と願えばいいのか。
嫌になる。
きらいになる。
しかし、その人のたちが居なければ、
あの胸のときめきも
もう少し一緒に居たいと思うことも
初めてのことも
ありがとう、と思うことも
無かったのだろう。
ある意味ありがたく、ある意味悲しいことである。
よくある、卑しくて、良い物語のパターンだと思う。
ヒトの人生は、パターン化できない。そこに良さがあるが、このことだけは共通しているように思う。
ひとりが平気だなんて、一度も考えたことがない。
いや、すこしある。
みんな顔色が曇っている。
ラインで友人に「今日一緒に食べてもいいかな?」と聞いてみる。
たいていが「いいよ」という。
行けば、一緒に食べる。
しかし私は。一人で昼飯を食べながら、動画を見る心地よさをしっているのだ。
知っているのに、なぜ誰かと一緒に食べたがるんだろう。
大学構内のベンチに座って、風を感じながらおにぎりを頬張るのはどうだろう。この前は、セブンイレブンの新発売のナチョスを食べた。私は野菜を落とした。
(個人的に下の方にある紙切れはいらない)
友人の前で、一緒に食べた。味は変わらない。
しかしその時、私はまた野菜を落としてしまった。
友人が少し微笑んで、笑った。私も笑って、笑っていた。
私は、そのここちよさを知っている。
知っているのに、なぜ一人で食べたがるんだろう。
こんな風に、人間はアンビバレンツな感情を持っている。
愛されたいのに、愛すことは怖くなる。
好きなのに、好かれるのは怖くなる。
ねえ、一体きみたちはどこまで自分勝手なんだい?
単純なわがままじゃないか。
これを人間の性質、本能、心理学で片づけないでくれ。
そうじゃない。そうじゃない。
そんな感情を持っているから、、不完全だとか、そんなんだから…なんてもう言わない。それでいいんだよ、なんて、もう言いたくない。
かんぜんな受容でなく、ただただ、恐ろしい欲情の中で。
渦巻くその何かの中で、私はいろいろと感じるものがあった。
それは言語化できない、ふしぎな。もの。
植え付けたい!
このよくわからぬ、根が生えたもの。
これをやっぱり、生きている感情としか言えない私の語彙力と経験がその薄さを物語る。
やはり、語りえぬものには沈黙せねばならないのだろうか。
そうはありたくはない…現代にアリストテレスが、時間とは何か?と問われたとき、物体の運動変化であり、というのに、フロイトがココロについて説いたその瞬間…(を観たい。)
沈黙が訪れるような気がする。
じゃなくて…
我儘すぎる私自身が、おりゃおりゃとタオルをぶん回して、
こうか?こう振ればいいのか?としどろもどろしているうちに…
そんな自分が嫌になって、顔を真っ赤にして、こうしてパソコンとにらみ合う。
どこか…何かしら違和感と齟齬と嫌気と快楽と静けさと喜びと絶頂を感じる日々がどことなく、つらいと感じてしまうのだ。
人生は喜びだけでは、なんだか満足していないように思う。瞬間を生きている人間に、時間など無い。アリストテレスならこう言うだろう。
それは永遠だから。どこにも区切りなどない。
ただ同じ感情が続く毎日。
運動の変化もなく、ただ…常に絶頂のはざまで求め続けるのは…
それは、私にとってみれば、どこか時間を止められた永久の中で、
それでしか快楽をえれなくなってしまった人間の末路にしか思えない。
ほら…同じに思わないか?
飯を食いたい、というのに。
一人のここちよさを持つ自分と、友人と食べたい自分と。
多くの怒りと悲しみと喜びと快楽が続く毎日と、ただ何もない永遠の時間のない永劫の一日と。
わたしのなかで、すべてが対峙し、すべてが混ざり合っている。
すべて…私にはいってくるものたちが。
これがつらい、という感情で集約できるものなら、生きることがつらいことである、という論は合っている気がする。
しかし生まれてこなければなんて思いはしない…。ここも矛盾。
私は依然として、大人になれず、矛盾ばかりを嫌う。
それは違うのだ、ということが私を苦しめている。
祖父が言うには…哲学というのは、理学というのは、それが正しいのだ、といった信念をもたざるを得ないことなのだという。そう思う。
私がこうして辛く、使わなくてもよい頭を使うせいで、少々のコミュニケーションと(吃音がある)、そのほかに生まれる感情は、はっきり言って、効率よく、要領よく、楽で、幸せな人生を歩むには不要だ。
哲学なんぞ、いらない。
しかし私は、ソレが無いと生きていけない。いきれない。生きてはだめだ、とさえ思う。
こうしてみれば、私は辛い選択肢を取っている、と分かるだろう。
しかしそれで実は、私自身が満たされる部分があるのだということも。
終着点はすぐそこにある。
にんげんうらうらと言いながら、私も私自身も自分の事しか考えてはいない。それでもちろんいいが、一体何が良いのだろうね、なんて問う毎日が、すべて嫌になる。
これからの私が、どういった選択肢をとるのが知る由もない。
おそらく沢山の弊害に襲われ、ああ何故こんな道を…と思うのかもしれない。
ここまできたのなら、やるしかないという世間のうたい文句もある。
しかし願わくば…今は独りで。いいや。高校の時の友人と
笑い飛ばせるのだから、なんて幸せなんだろう、と思っておけば
何とかなるんだろうな、と思っている。
きょうはここまで。