バビロンにて:申命記に基づくユダヤ教の成立(どのようにして聖書は書かれたのか #44)
今回も、紀元前585年頃から540年頃までの話をします。
祖国滅亡、そして異教の地バビロンへの捕囚という苦難に直面したユダヤ人たちは、「救済史観」によって神の沈黙を正当化したのでしたね。すなわち、「わが民族が今苦難の中にあるのは、決して神ヤハウェが無力だったからではない……これは我々が犯した罪に対して下された罰なのだ…ヤハウェとの契約に違反したのは我々の方なのだ……たしかに今は沈黙して何も手助けしてくれないヤハウェだけれども、我々が反省して契約に立ち帰れば再び救済してくれるに違いない……」と考えたのでした。
この考え方には色々と気になるところがあります。まず前回も指摘したように、現実に起きた出来事をなんでもかんでも「ユダヤ民族を更生するために神が仕組んでくれたこと」と解釈してしまう歴史観は、手前勝手にすぎましょう。絶対的な存在であるはずの神が、世界史を操ってまでユダヤ人だけに都合よく働いてくれるというのですから、まるで世界がユダヤ人のためにあるかのようです。あるいはまた、救済史観の根底にある因果応報説(罪を犯したら罰せられ、悔い改めた者は救われるという考え方)があまりにも現実を無視している点も気になります。多くの正しい人たちが酷い災難に遭い、悪い人たちが栄えているような不条理な例を、当時のユダヤ人たちだって沢山知っていたでしょう。
それに、神はもっと気まぐれで、まったくランダムに恵みやら罰やらを下しているのかもしれません。「罪を犯したから罰が下されたに違いない」とどうして言い切れるでしょう。そもそも、この世を超越した存在であるはずの神が、「契約」といういかにも人間的な取り決めなぞに縛られるでしょうか。結局のところ、救済史観とこれを支える因果応報説は、「人間の側の態度によって神の行動を変えることができる」という考え方だといえるわけでして、そこには信仰者の隠れた慢心があるといえませんか。
以上のような問題提起は、旧約聖書に収められた文書、たとえば「ヨブ記」や「ヨナ書」などにおいても見られます。しかし、それらが書かれたのはバビロン捕囚が終わってしばらく後のことであり、捕囚のただ中にあっては、やはり自分たちが経験している歴史的な悲劇を「これは我々の罪に対する神の懲らしめなのだ……すべては神によるユダヤ民族救済計画の一環なのだ…」というふうに思い込むことで、現実の不条理な悲惨から目を背けるしかなかったのです。
それに、この救済史観は、決してお高くとまった宗教家たちが、抽象的な神学理論をこねくりまわして現実の苦悩の原因を説明しきった気になっていた、というようなものではありません(後にはそういう側面も強くなりますが)。むしろ実際に体験したばかりの辛い苦難の記憶を抱えながら、その意味を問い続けた精神的闘いの記録ともいえましょう。そして、祖国の滅亡はすべての終わりではなく、この先には必ず救済と復興があるはずだ…という希望が当時のユダヤ人たちを支えていたのです。
ところで、救済史観における「民が守るべき契約」「違反すれば罪になってしまう契約」とは、具体的には何を指していたのかといいますと、それは南王国末期に記されたあの「申命記」に記された掟(=律法)であったようです。信仰の拠り所であったエルサレム神殿を破壊されてしまい、祖国から引き離されて異教文化に囲まれて暮らすユダヤ人たちにとっては、申命記はヤハウェ宗教の規範を伝える唯一のテクストであり、民族的・宗教的アイデンティティの源泉でもありました。そうした意味で、申命記こそはユダヤ人にとっての初めの聖典あるいは聖書であったといえましょう。(もちろん、現在我々が知っている申命記には捕囚期以後の編集も加えられていますから、そっくりそのまま当時の申命記と同じではありませんが)。
申命記に書かれた律法の中では、いわゆる十戒(ヤハウェだけを崇拝せよ、とか、人を殺してはいけない、など)が有名ですが、これに勝るとも劣らず重要視されていたのは「安息日・割礼・食物規定」の3つの慣習でした。いずれもはるか昔からイスラエル民族が受け継いできたものです。安息日は、週に一日だけ一切の労働が禁じられるという制度ですが、その起源はよく分かっていません。原始的なタブーに由来するものかもしれませんし、人間や家畜を働かせすぎないための配慮に基づく規定かもしれません。割礼は他の文化でもしばしば見られるように、性に関わる呪術的な慣習です。食物規定は、これも色々な形で他文化でも見られるもので、食べてはいけないもの、避けるべき食い合わせなどの言い伝えです。
はじめは単なる民族的慣習にすぎなかったこれら3つの慣習は、バビロン捕囚期を通じて、より徹底的に実行されるようになります。これには2つの理由があります。まずこれらの慣習はすべて、特定の聖地に結びつく巡礼や祭りなどと異なり、パレスチナを離れた捕囚の地でも実践が可能であったということ。それから、いずれの慣習も、異民族からユダヤ人をはっきり区別する指標として機能し、それゆえ異国においてユダヤ人のアイデンティティを維持するために役立ったということです。たとえば週に一日だけユダヤ人たちが一斉に働かずにいると大いに目立ちますし、食物規定があれば他民族と一緒に食事ができないばかりか、食料を購入する市場も別になります(現代のハラール認証食品のように別ルートでの生産・流通が必要になるのです)。そして割礼は、その習慣を持たないバビロニア社会にあっては、ユダヤ人かどうかを目に見える形で示すしるしともなっていました。
「安息日・割礼・食物規定」の3慣習は、申命記に記された他の様々な律法とともに「民が守るべき契約」として扱われるようになりました。タテマエとしては「これら3慣習を守るべしとヤハウェ自らがユダヤ人に命じたのだ…」ということになり、これを守らない者は神との契約に違反する者、つまりユダヤ民族に災いをもたらす罪人とみなされるようになったのです。
さて、律法をいくら厳しく守ったところでダビデ王朝が急に復活したりするはずもなく、ユダヤ人を取り巻く情勢は一向に好転しませんでした。やがて彼らはますます律法の遵守にこだわるようになっていきました。律法に徹底的に従う生活を送ることによってしか、神ヤハウェと自分たちとのつながりを実感することができなくなっていたのです。守るべき律法の体系は細かく整備され、人々は律法違反に怯え、神の前で何度も悔い改め、神からの罰を怖れ、その祝福をいつまでも待ち望むようになりました。この段階をもって、現代までつながる「ユダヤ教」が成立したと考えられています。(それ以前の彼らの信仰はユダヤ教以前のものとしてヤハウェ宗教などと呼ばれます。)
厳格な一神教と律法遵守というユダヤ教の二大特徴は、このようにして、捕囚民が自らのアイデンティティを維持しようとする過程で確立されていきました。厳しい律法遵守に付き合いきれなくなった人たちはユダヤ人のコミュニティを去り、他民族に同化していきました。やがて「ユダヤ」という名は、国家名あるいは民族名というよりもユダヤ教共同体を指す名として使われるようになります。つまり、ユダヤ教を信仰する(=ヤハウェを崇拝し、律法を守ろうとする)のがユダヤ人であって、信仰をやめるならもはやユダヤ人ではない、という状況が生まれたのです。
ヤハウェ宗教の長い伝統、預言者たちの活動、そして申命記改革の遺産をうまく活かすことで、ユダヤ人たちは独自の宗教性を獲得するに至りました。その後二千年にわたって流浪の民となったユダヤ人が、世界各地でそのアイデンティティを保つことができたのも、このバビロン捕囚を乗り越えた経験があってのことでした。しかしながらユダヤ社会の影の側面にも目を向けなくてはいけません。あまりにも表面的な律法遵守の追求は、「律法を外面的に守ってさえいれば義人、どんな事情があっても守れなかったら罪人」という安直な二分法に陥りやすく、互いを監視しあって律法違反者に「罪人」というレッテルを貼り付けまくるという、なんとも生きにくい社会ができてしまいました。そして、「罪人」や異教徒・異民族に対するどうしようもない差別意識が生まれ、彼らを蔑視してユダヤ教徒を至上のものとする傲慢な選民思想も醸成されました。
もちろん、このようなユダヤ教のセセコマしい側面を解決し、乗り越えようという動きもないではなかったでしょうが、それがテクストの形となって現れるには、なお百年の年月が必要でした。そして、それからさらに数百年後に登場するイエスの運動や最初期のキリスト教においても、ユダヤ教あるいはユダヤ社会の抑圧・不寛容・傲慢さとの対決が、重要なテーマとなってくるのです。