南王国の滅亡:ハバクク書・哀歌・エレミヤ書(どのようにして聖書は書かれたのか #42)

今回は、紀元前610年頃から585年頃までの話をします。

アッシリア帝国が滅亡し、その脅威が去ったのも束の間、南王国はエジプトと新バビロニアという二大国の覇権争いの荒波に翻弄されます。前回は紀元前609年、エジプトの介入によってヨシヤ王が殺されるところまでお話ししましたが、その後即位したヨヤキム王(在位609-598)はエジプトに服従せざるを得ませんでした。エジプトに送る多額の貢納金を工面するため、王は民に重税を課しました。なかなかの暴君であったようで、民の労苦を顧みずに宮殿を新造したり、王政に異を唱える預言者たちを弾圧した、と伝わります。

ヨシヤ王時代の申命記改革は挫折し、その担い手たちも離散しました。祭儀の中央集権化も途絶し、異教的祭儀も復活したようです。申命記改革の背景には、改革を推進するレビ系祭司と、エルサレム神殿を牛耳るツァドク系祭司との権力争いという側面があった、とお話ししましたね。改革が頓挫すると、ツァドク系祭司たちの権勢はますます強まり、祭司長や大祭司といった高位の聖職だけでなく、祭司職全体を独占するようになりました。そもそもツァドク系はエルサレムに昔から住む非イスラエル系の一族であったようですが、いつの間にか「ツァドク系はモーセの弟アロンの子孫であり、代々ヤハウェに仕える祭司だったのだ…」という由緒話も信じられるようになっていました。一方、レビ系は祭儀以外の雑務(道具の運搬や警備など)に従事する下級聖職者となってしまいました。

さて、紀元前605年、バビロニア軍がエジプト軍を破ると、南王国を含むシリア・パレスチナ地方はバビロニアの支配下におかれます。この時、バビロニア軍を指揮した王子ネブカドネザルは、父王の死に伴いバビロニア王に即位します。ヨヤキム王も彼に服従の意を示しました。しかし、紀元前601年、ネブカドネザル王によるエジプト遠征が失敗すると、ヨヤキム王は再び寝返り、エジプト側につこうとしました。これは致命的な誤りでした。バビロニア軍は南王国を攻撃しはじめます。戦いのさなか、紀元前598年、ヨヤキム王は急死します。暗殺されたのかもしれません。

結局、エジプトからの援助も得られないまま、紀元前597年、エルサレムは占領されました。(ただし、飢饉や大規模な破壊が発生するほどの長期的な包囲ではなかったようです。)王位に就いたばかりのヨヤキン王は降伏して捕らえられ、王族・高級官僚・祭司・技術者など、およそ1万人がバビロニアへ捕虜として連行され、移住させられました。これが第一次バビロン捕囚です。

ネブカドネザル王は南王国を解体せずに、新たな王ゼデキヤ(在位597-587)を即位させて、この国を属国としました。おそらく、バビロニア・エジプト間の緩衝国家としての役割を期待したのでしょう。しかし、南王国では、次第に反バビロニアの機運が醸成されていきます。バビロニアへの反乱を主張する国粋主義的な好戦派に対して、バビロニアによる支配をイスラエル民族の罪に対して下された神の罰として受け入れるように説く人々もいました。しかし、次第に優位になった好戦派がゼデキヤ王に圧力を加えます。多くの知識人が捕囚された今となっては、王に賢明な忠告を与えてくれる側近も少なかったことでしょう。ついに紀元前588年、ゼデキヤ王はバビロニアに対して無謀な反乱を企てます。

ネブカドネザル王は二度目の裏切りを許しませんでした。翌、紀元前587年、バビロニア軍によるエルサレム包囲がはじまり、市内は悲惨な飢饉に見舞われます。ゼデキヤ王が頼みにしていたらしいエジプトの援軍もすぐに退却してしまいました。エルサレムは再び陥落し、ソロモン王によって建てられ歴代の王たちによって増築されてきた巨大なエルサレム神殿も、さらに王宮、民家にも火が放たれ、町は徹底的に破壊されました。神殿の宝物庫は掠奪され、城壁も取り壊されます。ゼデキヤ王は目をえぐられた上でバビロニアへ連行され、多くの有力者が処刑されました。そして、政治・行政・宗教の指導者層、およそ数万人がバビロニアへ送られ、パレスチナの地には貧しい多くの農民が残されました。これが第二次バビロン捕囚です。400年近く続いたダビデ王朝は、ここに断絶します。

バビロニアは南王国の領土を属州として編入し、親バビロニア派の一人だったゲダルヤを総督に任命し、残った民を統治させました。しかし、絶望的な抵抗を続けていた反バビロニア派は、ゲダルヤと、バビロニアから派遣されてきた役人たちを暗殺してしまいます。これを知った多くの人々はバビロニアからの報復を恐れ、散り散りに逃げ、南王国の数少ない知識人コミュニティも崩壊しました。この後も、散発的にバビロニアへの反乱があったようですが、すべて鎮圧されました。

最後に、この時代に成立した哀歌、それからこの時代に活躍した預言者ハバククとエレミヤの預言書を紹介します。

ハバクク書
ハバククはヨヤキム王・ヨヤキン王の治世で活躍した預言者です。バビロニアの台頭を語り、その暴虐・残酷さを生々しく語りつつ、なぜ神ヤハウェは何もしてくれないのか、神には神の目的があるにせよ納得できない…と悩みます。しかし、いずれバビロニアも報いを受けることになるだろうと預言しました。
「悪を見るのにあなたの目は清いので、あなたは労苦に目を留めたままにはできないはずです。なぜあなたは、欺く者たちに目を留めたまま、悪しき者が自分より義しい者を飲み込むときにも黙っておられるのですか。」(ハバクク 1:13)

哀歌
エルサレム陥落を嘆く5つの詩です。それぞれ別の詩人の作で、成立時期も微妙に異なるようです。飢饉とカニバリズムの生々しい証言や、敵軍による破壊と殺戮が激しい口調で語られ、その根底には「どうしてこれ程の苦難を受けねばならないのか」という神への悲痛な問いかけがあります。「きっとこの不条理な苦しみにも意味がある。これも神の計画なのだ。民の不信心を罰するために、神の怒りが下されたのだ」と詩人は一応のところ解釈していますが、そのような解釈に落とし込むことができないほどの悲惨を前にして、神に対する非難、怒り、困惑もないまぜになった壮絶な詩が生み出されました。
「ヤハウェよ、見て下さい。ご覧になって下さい。誰にあなたはこのようなことをされたのですか。女たちが彼らの実を、元気に生まれた子供を食べてもよいでしょうか。祭司と預言者が、主の聖所で殺害されてもよいでしょうか。」(哀歌 2:20)

エレミヤ書
エレミヤが預言者としての活動を始めたのは、ヨシヤ王の申命記改革が始まるより少し前のことでした。彼は南王国での異教的要素の蔓延とヤハウェ宗教の堕落を批判して、「いずれ神罰が下るだろう」という禍いの預言を宣べていました。ですから、いざ申命記改革が始まると、純粋なヤハウェ宗教の復活を目指しているかに見えたこの改革に熱い期待を寄せました。しかし、彼は次第に幻滅していきます。結局のところ改革の内実は王や祭司たちの利権争いでしたし、改革の柱である申命記的掟は形式的な規定に深入りするばかりで、さらには「この掟さえ守れば救われる」という硬直化した態度をとる者たちも現れました。エレミヤにとって、それは本当の意味での純粋なヤハウェ宗教とは思われませんでした。

ヨヤキム王の時代には、エレミヤは異教的要素の導入に反対し、迫害を受け、もはや神殿に近づくことさえ禁じられてしまいます。異教を受け容れる民、社会的正義をないがしろにする宗教指導者、エレミヤはそのどちらをも批判し、いずれ神罰が下る…と預言します。しかし人々が求めていたのは「ヤハウェは自分たちを守ってくれるはず。滅ぼすはずがない」というような預言でした。神殿がある限り王国は安全だ!などという虚しく楽観的な預言を伝える預言者たちがもてはやされていたようです。エレミヤはそんな連中を「偽預言者」だと罵ります。

第一次バビロン捕囚の後、ゼデキヤ王の時代には、「バビロニアに反逆せずに従属すべきだ」とエレミヤは説きます。バビロニアの脅威はヤハウェからイスラエル民族に下された罰なのだから、甘んじて受け入れなくてはならないというわけです。この主張のためにエレミヤは反バビロニア派から激しい迫害を受けます。エルサレムが陥落した後、第二次バビロン捕囚を免れたエレミヤでしたが、総督ゲダルヤ暗殺後の混乱の中、支援者たちに連れられてエジプトへと逃れ、その地で客死しました。

このようにエレミヤの預言活動は、同時代の人々にはほとんど受け容れられませんでした。迫害と孤立の中でエレミヤは、なぜ(エレミヤから見れば)正しい預言が拒絶されるのか、なぜ(エレミヤから見れば)悪い者たちが栄えているのか、というふうに、神の意志に疑問を抱き、悩み、その苦しみを率直に言葉にしています

また、エレミヤは、どうしても罪を犯さずにはいられない人間の救われなさ、王国の滅亡が迫ってもなお悔い改めない人々の頑迷さについても悩みます。そして、神が人の心を根本的に変えることによってしか救いはもたらされないと考えるようになります。そして、モーセを介してイスラエルが神と結んだ(と伝えられる)律法は「古い契約」であって、いずれこれに代わる「新しい契約」を、神は我々と結び直してくれるだろう…とエレミヤは預言します。外面的な規制にすぎない律法ではなく、内面的に人間が生まれ変わること、そこにしか希望はないというわけです。この発想は、およそ600年後、最初期のクリスチャンたちに大きな影響を与えました。彼らは、従来のユダヤ教は「古い契約」であり、自分たちの運動は「新しい契約」である、と宣言したのです。これが「旧約」と「新約」という言葉の由来です。
「変えることができようか、クシュ人がその肌を、豹がその斑点を。もしそれができるなら、悪を為すのに馴れたあなたたちでも、善を為すことができるだろう。」(エレミヤ 13:23)

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