バビロンにて:祭司資料(P資料)の成立(どのようにして聖書は書かれたのか #46)
今回も、紀元前585年頃から540年頃までの話をします。
前回に続いてバビロン捕囚期に成立した諸文書を紹介していきます。今回は祭司資料(P資料)です。その名の通り、かつてエルサレム神殿で祭儀を担っていた祭司たちによって捕囚中に編纂された資料です(一つの文書にまとまっていたのか、それとも複数の文書群だったのかは分かりません)。内容としては、まず天地創造から始まる神話、族長伝承や出エジプト伝承といったユダヤ民族の起源物語、そしてヤハウェ信仰において守るべき戒律が含まれており、現在の「創世記」「出エジプト記」「レビ記」「民数記」の大部分が、このP資料によって構成されています。
執筆の動機はずばりユダヤ教およびユダヤ民族の存続に対する危機感です。祭司たち宗教指導者は、これまでさんざん「ヤハウェを崇めなさい、そうすれば繁栄がもたらされるはず!」とうるさく唱えてきたのですが、現実には王国は滅亡し、ヤハウェによる救済もいっこうに訪れません。故郷喪失に沈むユダヤ人たちの間ではヤハウェ信仰への疑念が生じていました。敗北した神ヤハウェなどよりも、勝者であるバビロニアの神々を崇めるほうが、よっぽど「実用的」な信仰と感じられたことでしょう。こうしてユダヤ教・ユダヤ民族から離脱して、他宗教・他民族の中に同化していく者も多かったと考えられます。
こうした状況下で、祭司たちはなんとかしてヤハウェ信仰の権威を復興し、これによって民を統率しないことにはユダヤ教もユダヤ民族も歴史の中に消え去ってしまうのではないか、という焦りを感じていました。さらにまた、ユダヤ教を存続させて宗教利権を維持したいという下心もありました。つまり、宗教指導者としての政治的発言力や、税金や供物を民から収奪できる権限を手放したくはなかったのです。
すでに成立していた律法集(申命記)や歴史書(申命記史書)だけではユダヤ教の復興に不十分であると考えた一部の祭司たちが、ユダヤ教の教義を「歴史的に実証する」神学書を編纂し始めました。これがP資料です。ここでいう「歴史的に実証する」というのは「かつて実際にこういうことがあったのだ。だから…」とか「かつて神ヤハウェがこのように命じたのだ。だから…」というふうな仕方でユダヤ教の教義を説明するということです。現代のわれわれからすれば、そんなのは歴史のでっち上げじゃないかと言いたくなるところですが、少なくとも古代においてはこのような歴史物語による論証にそれなりの説得力があったのです。
P資料では、なぜユダヤ民族はヤハウェだけを信仰せねばならないのか、信仰するといったいどんな良いことがあるのか、信仰しないとどんな悪いことがあるのか(=いわゆる救済史観)、そしてヤハウェを信仰する際にはどんなことに気をつける必要があるのかが、歴史的事実(とされていること)によって説かれています。P資料に記された物語は、伝承や神話を素朴に記したものではなく、祭司たちによってかなり意識的に編集・加筆・再構成されたものである点に注意が必要です。背景に何かしらの主張を読み取れる場合もしばしばあります。最も分かりやすい例としては、安息日、割礼、食物規定、排他的な民族意識(雑婚の禁止)に対する言及の多さが挙げられるでしょう。P資料はこれらの宗教的習慣によってユダヤ民族を他民族から切り離し、そのアイデンティティを維持しようとしているのです。
他にもいくつか例を挙げましょう。たとえば「創世記」では、神は自分の似姿として初めの人間を作り、またその似姿が人間の子孫へと受け継がれていくことになっていますが、ここには当時のバビロニア社会への対抗意識が垣間見えます。バビロニア王は自らを神の子孫として崇めることを民に強いることで、その強固な王権を維持していました。これに対してP資料は、そもそも全ての人間が神の似姿を受け継いでいると主張しているのです。また、「出エジプト記」に描かれるイスラエル民族の姿、すなわち、流浪の生活に絶望し、しばしば不満を口にして、宗教指導者であるモーセやアロンが語る「神の言葉」をなかなか受け入れようとしない姿には、(祭司たちから見た)バビロン捕囚期の民の姿が重ねられているのでしょう。不敬虔な民を批判的に描きつつ、ヤハウェ信仰への立ち帰りを促しているのです。
ところで、P資料の最大の特徴といえばなんといってもその「読みにくさ」でしょう。聖書通読の大敵とも言われます。いざ旧約聖書を読破しようとチャレンジしても、P資料の砂をかむような悪文にうんざりして挫折してしまうのです。特に出エジプト記の後半やレビ記のP資料箇所はひどい。同じような表現の繰り返し、無味乾燥な名詞の羅列、異常に細かく回りくどい表現が延々と続きます。しかし、そんな悪文にも同情すべき点があるのです。
エルサレム神殿の崩壊とバビロン捕囚によって、ヤハウェ崇拝の祭儀の伝統は中断されてしまいました。祭司たちは、いつの日かユダヤ民族が捕囚から解放され、エルサレム神殿が再建され、伝統的な祭儀が再開されることに希望を託すしかありませんでした。そして、これまで先輩祭司たちから口頭で継承してきた祭儀の詳細な手続きを、「できる限り正確に」文書化して保存し、未来の世代に伝えることを自らの使命としたのです。ユダヤ教に限らず一般に宗教的な儀式においては、所作のひとつひとつを伝統に即して正確に行わねばならず、一カ所でも間違いがあれば儀式が台無しになってしまう、というような強迫的な観念がしばしば見られます。「そうする理由はよく分からないけれど、遠い昔からそう伝わっている」所作を集団で真剣に行えば行うほど、なんだか神聖な深い意味が伴う気がしてくるものです。ですから、P資料の微に入り細を穿った文体は、神聖な祭儀を細部に至るまで絶対に正確に伝えるのだという祭司たちの必死の努力によるものと言えます。(そのわりには、ところどころに矛盾や意味不明箇所もあるのですが。)
もう少し詳しく見てみましょう。まず出エジプト記の後半に記されているのは「会見の幕屋」なるテント状の聖所の建設手順です。エジプトを脱出して荒野を放浪している民に対して、幕屋を作るようヤハウェが命じ、その寸法や装飾の一つ一つまで指示したという体裁をとっています。しかしながらこの幕屋についての描写は、かつてのエルサレム神殿をおよそ2分の1のスケールに移し替えて記したもののようです。つまり、いつか成されるエルサレム神殿再建に備えて設計図代わりに記したのでしょう。ついでに「ヤハウェ自らが指示したのだから」という理由によって、神殿建築や装飾の正統性をも強調してもいます。エルサレム神殿はヤハウェ崇拝の伝統ではなく、先住民カナン人の様式で建てられたということが現在では分かっているのですが。
なお、「会見の幕屋」は、その名の通り、神が民に会いに来て啓示を与えてくれる場とされています。しかしバビロン捕囚以前には、神殿は「神が実際に住んでいる立派な家」と考えられていました。P資料の著者たちは「神は神殿に住んでなどいなかった、ただどこかから神殿に会いに来てくれるだけなのだ……だからたとえ神殿が破壊されても、神はなんにも困っていないのだ…」という論理でもって、神の超越性を弁護しているのです。
さて、続くレビ記に記されているのは祭儀の実際ですが、特に目立つのは「贖い」のための犠牲です。家畜を屠殺して神にささげることで「罪」や「穢れ」が取り除かれるというのです。この慣習は、身代わりの死による罪の赦し、とも解釈できますから、後のキリスト教の贖罪論(イエスは我々の罪を背負って死んでくれたのだ…という考え方)の原型ともなりました。しかしレビ記を丁寧に読んでみますと、むしろ家畜の屠殺によって流される血が「聖所の穢れ」を浄めるという点に重きがおかれているようです。
古代オリエントでは、天災や疫病といった災いは、悪霊や悪魔的な力によって引き起こされるものだと信じられており、悪魔祓いのような儀礼がさかんに行なわれていました。しかし、ユダヤ教では悪魔の存在を認めるわけにはいきません。善なる唯一神がわざわざ悪魔を創造するはずがないからです。それで、悪魔ではなく人間の行為(=罪)によって「穢れ」のようなものが蓄積され、神殿の聖域が汚染され、これを嫌った神が災いを起こす、と考えられたのです。そして、神をなだめて災いを防ぐためには、家畜の血によって聖域を「浄め」なくてはならないのです。人間の外側ではなく、内側にこそ悪魔がいるとでもいうようなこの考え方は、後のキリスト教の倫理観に大きな影響を与えたといえるでしょう。
神殿の「聖」なる世界も、忌むべき「穢れ」も、「俗」なる世界に住む一般民にとっては非日常的な領域であり、みだりに接触してはならないとされました。祭司たちはレビ記に記された細則に従って適切に儀式を行うことで、「聖・俗・穢れ」(日本的に言えばハレ、ケ、ケガレ)の3つの領域を媒介する役目を担っていたのです。
最後に豆知識を一つ。捕囚前に記された申命記では祭司職を担っていた「レビ人」ですが、P資料では祭儀以外の雑務に従事する下級聖職者になっており、正統な祭司はアロン(モーセの弟)の子孫のみが世襲することになっています。以前、祭司職を巡るレビ系とツァドク系の争いについてお話ししましたが(第42回)、捕囚以降は、アロンを父祖と仰ぐツァドク系が祭司職を独占します。P資料に登場するアロンは最初の大祭司として美化されて描かれます。奇蹟を行ない、軍を組織し、その衣服あるいは「油注がれた者」という称号は、本来は王のためのものでした。