原申命記運動の始まり:ゼファニヤ書(どのようにして聖書は書かれたのか #40)

今回は、紀元前700年頃から630年頃の話をします。

紀元前696年に南王国の王として即位したマナセ(在位696-642年)は、父ヒゼキヤ王とは異なり、はじめからアッシリアへ服従の意思を示し、アッシリアの宮殿建設や軍の遠征にも協力します。エルサレム神殿にはアッシリア式の祭儀が再び導入され、異教的要素が蔓延し、伝統的なヤハウェ宗教は後退します。それゆえ、当時のヤハウェ主義者(多神教に反対しヤハウェ信仰を喧伝していた者たち)によってマナセ王は激しく非難されました。旧約聖書でも「異教崇拝に没頭した極悪非道な王」として描かれており、ついにはマナセ王の死後50年ほどして生じた悲劇、すなわち南王国の滅亡とバビロン捕囚の原因も、元をたどればマナセの悪業が神を怒らせたから、ということにされてしまいました。

しかしながら、冷静に当時の歴史的状況について考えてみますと、マナセ王の選択は極めて賢明であったと言えます。というのも、この時代のアッシリア帝国は軍事的にも経済的にも黄金期を迎えており、特にエサルハドン王(在位681-669年)とアッシュルバニパル王(在位669-627年)の治世には、その繁栄の極みにありました。紀元前671年にはエジプトまで征服してオリエント世界全体を統一しています。アッシリアに反乱を企てた小国家は即座に滅ぼされ、その民は強制移住の憂き目にあっています。

このような情勢下でアッシリアへの全面的な服従の道を選んだマナセ王の治世は50年を超え、これはイスラエル王国史上、もっとも長きにわたっています。ヤハウェ主義的には「最も悪しき王」であるマナセ王が、実際には最も長く平穏な治世を全うしたというのはなんとも皮肉なことです。旧約聖書の『歴代誌』には、マナセ王が突如改心してヤハウェ信仰に立ち帰ったという記事がありますが、これは「マナセ王はちゃんと悔い改めたから、神はそのご褒美として平和を与えたのだ…」という応報的な考えに基づいた作り話でしょう。もっとも、平穏な治世だったとはいえ、アッシリアに納める貢ぎ物を調達するために、一般民衆からは苛酷な徴税が行なわれていました。

この頃から南王国の宮廷では、官僚に対する組織的な教育、つまり学校のようなシステムが登場していたようです。特権階級の子弟は教師の指導を受け、知恵文学を書き写して学びました。(知恵文学とは、人生のさまざまな局面においてどのように行動するべきかを説く基礎教養のようなものでしたね。)宮廷の保護のもと、書記たちによって多くの知恵文学が集められ、その中には滅亡した北王国から伝わった文書もあったようです。やがて知恵文学はヤハウェ宗教と結びつけられ、旧約聖書の『箴言』などに伝わるイスラエル独自の知恵文学の原形となります。

さて、マナセ王の治世は、異文化の信仰が広まり多神教化が進む一方で、以前お話しした通り、ヤハウェ宗教もより本格的な一神教へ、すなわち唯一神教へと変化を遂げつつある時代でした。そんな中、ヤハウェ宗教の側から、一種の宗教改革のような動きが現れます。「原申命記運動」と呼ばれるこの改革運動を担ったのは、レビ人と呼ばれていた祭司階級や、ヤハウェの預言者たち、それから宮廷内のヤハウェ主義者たちでした。彼らは「1つの神ヤハウェ、1つの民イスラエル、1つの聖所エルサレム」をスローガンに、異教を排し、唯一神教としてのヤハウェ宗教の勢力を拡大させようとしました。(原申命記運動という名は、その思想が旧約聖書の『申命記』に受け継がれていることによります。)

まず「1つの神ヤハウェ」、これは唯一神教の立場を明確にしたもので「何が起きようと問答無用でヤハウェだけを崇拝しなければいけない」という考えです。異教的要素を取り入れる者は死刑に処すべきとまで主張します。それから「1つの民イスラエル」、これは「純粋な」イスラエル民族以外の異民族に対して偏狭な排斥の態度をとることを意味します。最後に「1つの聖所エルサレム」、これは、エルサレム神殿こそがヤハウェ宗教における唯一の聖所であるという考え方です。パレスチナ各地には昔から続く地方聖所が沢山ありましたが、異教的要素を取り入れた聖所も少なくありませんでした。ですからいっそ地方聖所を廃止して、エルサレム神殿のみにおいて厳格に規定された祭儀を行なうべきだと考えたのです。そして「正しい」祭儀を行なうために、なんとも形式的で細かな祭儀規定も整備されていきました。

さらに「原申命記運動」の担い手たちは、さまざまなルール(法あるいは掟)の作成にも取り掛かります。その背景には、以前お話しした「罪」という概念があります。統一王国の崩壊後300年近く、イスラエル民族は外敵に悩まされ続けてきました。しかし神ヤハウェは救いの手を差し伸べてくれないどころか、北王国は滅びてその民は離散してしまいました。そんな状況であってもヤハウェを信仰し続けるために生み出されたのが「罪」でしたね。すなわち、イスラエル民族全体が「罪」の状態にあるから神は怒っているのだ、ということにして、なんとか神の絶対的な正しさ(=神の義)を確保したのです。

すると、どうすれば我々は「罪」という状態を脱して「義」という状態に変化し、神の祝福を得ることができるのか、という疑問が生まれますね。これに対する応答の一つがルールの作成でした。つまり、「神によって正しいとされるためにはどう行動すべきか」という観点から様々なルールが整理され、これを遵守していれば「義」とされると考えたのです。新しいルールがイチから作られたわけではありません。むしろヤハウェ宗教やイスラエル民族に古くから受け継がれてきた伝統的な習慣、特にその中でもイスラエル民族を他民族から際立たせるものが守るべき絶対的なルールとされました。たとえば安息日(仕事をしてはいけない日)、割礼、そして、食物規定(食べてはいけないものなどのタブー)などが挙げられます。

ヤハウェ宗教の特徴の一つに「契約」という概念がありましたが、上記のようなルールを守ってはじめて神とイスラエルとの契約は履行され、神は祝福を与えてくれる、と考えられたのです。しかし、この考え方と上記の「1つの民イスラエル」というスローガンが結びつくと、だんだん厄介なことになってきます。すなわち、原申命記運動の担い手たちは、ルールを守ることができない者たちに「罪人」というレッテルを貼りつけ、彼らをイスラエル民族の一員と見なさずに差別・排斥し始めたのです。しかし、ルールはあまりに多岐に渡り、すべてをまともに守ろうとすると、とても普通の庶民生活は送れませんでした。さらに病人や障害者、あるいは精肉、狩猟・漁労、埋葬、売春などに従事する者たちも「罪人」と見なされました。結局のところ、ルールを守って「義」とされるのは、裕福な特権階級だけだったのです。こうして、告発と断罪が飛び交う窮屈な社会が形成されていきました。新約聖書が書かれた頃には、その生きにくさは頂点に達していたと言えるでしょう。

(よく考えると、もし神が絶対的で超越的な存在なのだとしたら、神の前でとるべき正しい行動を人間ごときがどうして具体的に知ることができるのでしょう。それに、人間の行動いかんによって神の意思が変わるのだとしたら、それは人間が神を操ろうとすることであって、なんとも不敬虔な話です。結局のところ、宗教が主張するルールというのは、そのルールがいかに優れたものであったとしても、神ではなく人間が作り出したものなのです。ただルールに権威付けするために、神を持ち出しているにすぎないのです。)

さて、政治の話に戻りまして、紀元前640年、マナセ王を継いでいた息子のアモン(在位641-640)が暗殺されると、南王国は一時混乱状態に陥りますが、翌、紀元前639年には、地方豪族たちの支援によってアモンの幼い息子ヨシヤが王として即位します(在位639-609年)。実はこのヨシヤは少年時代から、原申命記運動の担い手たちに大きな影響を受けていました。

一方、紀元前627年、アッシリア王アッシュルバニパルが死ぬと、アッシリア帝国は急速に衰退しはじめます。やがて、カルデア人による新バビロニア王国(現在のイラク)、メディア王国(現在のイラン)、リュディア王国(現在のトルコ)、エジプトが独立を果たします。アッシリア帝国は内紛に陥り、もはや属国に影響力を及ぼせない状態になりました。このような情勢下、アッシリアの衰退によって生じた権力の空白に伴い、南王国も独立を回復していきます。ヨシヤ王は徴兵制を復活させて常備軍を再建し、旧・北王国領の一部をアッシリアから奪還します。経済的な繁栄ももたらされ、かつてのダビデ王の再来かと讃えられるようにもなりました。

最後にこの頃に活躍した預言者ゼファニヤの預言書を紹介しましょう。

ゼファニヤ書
ゼファニヤはヨシヤ王の治世初期に活躍した預言者です。アッシリアに従属して異教が広がっている南王国の在り方を非難し、速やかな悔い改めを勧め、このままではいずれ神は怒りをもって南王国を裁くことになるだろう、と脅します。禍いは南王国のみならず、他の民族に対しても生じ、世界の終末さながらの情景が預言されます。
「大いなるヤハウェの日は近づいている。近づいている、しかも極めて速やかに。ヤハウェの日に上がる声は苦しみの声、その場で勇士は激しく叫ぶ。その日は憤りの日、苦しみと苦悩の日、滅びと滅亡の日、暗闇と暗黒の日、密雲と黒雲の日、角笛と鬨の声の日、堅固な町々の上に、諸々の高い四隅の塔の上に臨む。」(ゼファニヤ 1:14-16)

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