北王国の滅亡:「歴史に介入する神」(どのようにして聖書は書かれたのか #37)

今回は、紀元前730年頃から630年頃までの話をします。

紀元前728年、南王国ではアハズ王が死に、息子ヒゼキヤが王となります(在位728-697年)。この頃、アッシリア帝国はついにメソポタミアを統一し、オリエントで他に残る大国はエジプトのみ、という状況でした。

紀元前727年、アッシリアのティグラトピレセル王が死ぬと、これを機と見た北王国のホシェア王はエジプトからの支援を取り付けたうえで、アッシリアの支配からの独立を計画します。しかしながらエジプトは当時内戦状態に陥っており、北王国を十分に援助することができませんでした。結局、新たにアッシリア王となったシャルマナサル5世は北王国の反乱を鎮圧し、ホシェア王を捕虜として連行してしまいます。首都サマリアだけが絶望的な抵抗を続けましたが、紀元前722年、ついにこれも征服されます。北王国は滅ぼされ、アッシリアの属州のひとつとして編入されてしまいました。

この年、クーデターによってアッシリア王位を奪ったサルゴン2世は、徹底した強制移住政策を旧北王国領(サマリア地方)に適用します。貴族や祭司など指導者層を含めた多くの住民がアッシリア帝国の各地に分散され、一方、サマリア地方には他地域からやって来た異民族が入植します。アッシリア王の狙い通り、次第に他民族と入り交じるようになったサマリア地方のイスラエル民族は、独自の文化や信仰などのアイデンティティを保てなくなり、反乱を企てるだけの結束力も失われてしまいました。こうして、かつてイスラエル民族を構成していた十二部族のうち、南王国に住むユダ部族とベニヤミン部族を除く十部族は歴史から消滅し、以後「失われた十部族」と呼ばれることになります。

(やがて、サマリア地方に住む人々は「サマリア人」と呼ばれるようになります。もともと住んでいたイスラエル系と新たに移住してきた他民族それぞれの文化が融合し、ヤハウェ宗教と他民族の宗教も混じり合っていました。南王国の人々はサマリア人を蔑視します。それは「イスラエル民族の伝統や文化を捨てて、異民族と交わった連中だ」という理由からです。まったく理不尽な差別ですが、この差別は何百年にもわたって続き、新約聖書にも登場することになります。)

さて、北王国の滅亡によって多くの難民が南王国へ流れ込んできました。これに伴って、北王国に伝わっていた文書や伝承が南王国に伝えられます。たとえば以前取り上げた「E資料(エロヒム資料)」もそうです。これは、北王国で独自に編纂された、イスラエル民族のルーツにまつわる伝承集でしたね。やがて南王国では、J資料(ヤハウェ資料)を枠組みとして、その中にE資料をはめ込み、編集・加筆した文書が作られます。いわばJ資料の増補改訂版のようなこの文書は「JE資料」と呼ばれ、その著者たちはエホウィスト(エロヒムとヤハウェの合成語)と呼ばれています。エホウィストたちは、多くの場合、用語などを統一せずJとEの2つの資料の記述をそのまま写しています。たとえばJ資料においては神の名はヤハウェ、モーセが神から十戒を受け取った場所はシナイ山、パレスチナの先住民はカナン人です。しかしE資料ではそれぞれエロヒム、ホレブ山、アモリ人と記述されます。現在伝わっている『創世記』や『出エジプト記』などでは、こうした用語の違いから、J・Eどちらの資料に由来する箇所なのかを推測することができます。

E資料の他に、北王国で活躍した預言者たち、すなわちエリヤやエリシャ、アモス、ホセアの残した言葉や伝承も南王国に伝えられました。特に彼らの「禍いの預言」、すなわち「このまま多神教的な信仰を続けたり、社会的不正義を放置したりしていると、いずれこの国は神によって滅ぼされるぞ」という脅しのような預言は、南王国の人々に大きな衝撃を与えました。北王国がアッシリア帝国によって滅ぼされ住民が四散してしまったという事実は、まさしく禍いの預言が的中したかのように思われたからです。やがてアモスやホセアの預言は韻文の形でまとめあげられ、ここにいわゆる「ユダ的編集」が施されます。すなわち、「北王国だけではなく、やがて南王国にもヤハウェによる審判が下るだろう…」「だから早く悔い改めて、ヤハウェ信仰に立ち返りなさい…」という風に、読者である南王国の人々をドキッとさせる言葉が加筆されたのです。

さて、禍いの預言が成就したことで、新たな歴史観が生まれます。それは人間の歴史を背後から操っているのは神ヤハウェであって、すべてはイスラエル民族を正しい方向へ導くためのことなのだ、といういささか自己中心的な歴史観でした。たとえば北王国を滅ぼしたのは、実際にはアッシリア王とアッシリア軍ですね。しかし、禍いの預言をそのままに読めば、神が不信心なイスラエル民族を罰するために「アッシリア」という道具を用いて懲らしめたのだ、ということになりますね。このような「歴史に介入する神」という考え方が、北王国の滅亡から100年ほどかけて南王国に広がり、受容されていきます。

現代に生きる我々から見れば、こうした考え方は、たとえば社会学でいう「疎外」とか精神分析でいう「合理化」と呼ばれる現象であることが分かります。つまり、人知を越えた自然災害などとは違って、歴史的な出来事というものは本来は人間の意志によって成り立っているのであって、だからこそ人間の意志によって変革することが可能であるはずです。ですから北王国の滅亡や、民が味わった苦難は、人間(この場合はアッシリア人)が持つ残虐性のゆえに生じたことなのです。しかし先述のような歴史観は、こうした現実をそのまま捉えようとせずに、すべては神によって決められたことだと思い込んでしまっているわけです。もっとも、王国滅亡・民族離散という悲惨な運命になんとか積極的な意味を見出して、将来に希望を託そうとした当時の人々の気持ちも分からないわけではありませんが。

さて、こうした考えに基づいて、旧約聖書では多くの場合、イスラエル民族に襲いかかる何らかの危機はイスラエルに向けられた「神の怒り」として描かれます。一方で、イスラエル民族が他民族に勝利し、虐殺・破壊といった残虐行為を繰り返す場合、これは「神の怒り」が他民族に向かっているから生じたことなのだということで正当化されました。こうして、イスラエル民族の歴史は、すべて神の怒りへと結びつけられてしまうことになります。神の怒りが外へ向くとイスラエルは勝利し、神の怒りが内に向くとイスラエルは敗北するのです。結果として、旧約聖書を読んでいますと、神がとにかく怒りまくっているような印象を受けます。「聖書では悪魔よりも神の方が人をたくさん殺している」なんてよく言われますが、それはこうしたイスラエル民族の歴史観に由来するものでしょう。

なお、この歴史観が悪質な副産物を産んだことにも触れておきましょう。すなわち、歴史のすべてが自分たちイスラエル民族を中心に動いており、どんな残虐行為も歴史を動かす「神の怒り」だということで正当化されてしまうわけですから、どうしても過激・傲慢な民族主義、そしてその結果としての異民族蔑視につながってしまうのです。じっさい、旧約聖書を読んでいて誰しもがうんざりさせられるのは「イスラエル民族は神に選ばれている」とか「異民族はみんな殺してしまえ」といった文句があまりにも沢山出て来ることでしょう。(残念ながら、この悪質な副産物は、形を変えながらも現代のイスラエル国家にまで受け継がれているように思われます。あるいはまたキリスト教国家の多くも「イスラエル民族」を「クリスチャン」に、「異民族」を「異教徒」に置き換えることで、傲慢なキリスト教絶対主義を掲げ、異教徒への蔑視・抑圧・虐殺を正当化してきたことも事実です。)

いいなと思ったら応援しよう!