バビロンにて:申命記史書の成立(どのようにして聖書は書かれたのか #45)
今回も、紀元前585年頃から540年頃までの話をします。
バビロン捕囚期に成立した諸文書を紹介していきましょう。今回は申命記史書と総称される一連の歴史書です。その著者たちは申命記史家と呼ばれますが、彼らはかつて南王国の宮廷で公的記録の編纂に携わっていた書記たちであったようです。エルサレムが陥落しバビロニアへと捕囚される際、彼らは手元にあった様々な歴史史料を持ち出し、捕囚先で長大な歴史書をまとめあげました。
その目的は明確です。イスラエル民族がどのように生まれ、王国がどのように成立し、そして滅びたのかという歴史を、例の「救済史観」に添って語りなおすためです。救済史観については前々回・前回と説明して来ましたが、これによると、王国の滅亡やバビロン捕囚といった歴史的な破局は、決して神ヤハウェが無力であったから生じたわけではなく、むしろ民の側の契約違反(=律法違反)に対するヤハウェの罰なのであって、責められるはヤハウェではなく民なのだ…と考えられたのでしたね。こうした論理でもって神を弁護し、その無為を正当化しようとするわけです。
申命記史家たちはこれと同じ論理でイスラエル史を語りなおし、申命記史観と呼ばれる図式に整理していきます。申命記史観は単純な4要素の繰り返しです。まず民の不信心(=律法違反)、そしてこれに対して神が与える罰(たいていは異民族からの侵略)、それから民の悔い改め、そして最後に神による救済がもたらされ…めでたしめでたしと思いきや、再び民が不信心に陥り…と続いていきます。
申命記史観においては、神に従順であったか、律法を守り行なったどうかが絶対的な基準です。それぞれの時代の民は、この基準によって判断され、良い民には繁栄が、悪い民には異民族からの侵略がもたらされます。歴代の王たちも同様の基準で「良い王」か「悪い王」かという判断が下され、「良い王」は過度に理想化される一方、「悪い王」はこき下ろされます。そして、すべての出来事は申命記史観に合わせて手前勝手に解釈され、なんでもかんでもヤハウェによる罰あるいは救済であるかのようにこじつけられます。それどころか都合の悪い歴史的事実を無視までします。たとえば以前にも触れましたが、「悪い王」とされた北王国のアハブ王の功績(アッシリア軍撃退など)は一切言及されません。ですから、申命記史書に記された「歴史」がどこまで現実を反映したものかについては慎重に判断せねばなりません。
このように見てくると、申命記史書は狭い意味での「歴史書」というよりも、歴史を題材にして救済史観(=申命記史観)という神学思想の正当性を主張し、ヤハウェと律法に忠実な理想の国家像を喧伝するためのプロパガンダ的文書であるといえるでしょう。
申命記史家たちがなぜ申命記史書を編纂したか、その動機について考えてみますと、まずはやはり、王国滅亡・バビロン捕囚という厳しい現実をなんとか宗教的に理解するため、という実存的な理由が挙げられます。しかしそれとともに、ユダヤ教の権威を利用したい宗教指導者・知識人の保身のためという側面もあったでしょう。これまで民に対して「ヤハウェを崇めなさい、そうすれば繁栄がもたらされるはず!」とうるさく唱えてきたのに、神に守られていたはずの王国は崩壊し、いつまでたっても救済なんてもたらされないわけですから、民の間でヤハウェ信仰への疑念が生じるのも当然です。これに対して申命記史家は「ヤハウェは負けてなどいない…王国滅亡はヤハウェによる罰なのだ…」というふうに護教のための言い訳をしているのです。さらには、ヤハウェという神はイスラエル民族を導くために世界史まで操ってしまうほど偉大で有難い存在である…などという結論にまで持っていくのですから大したものです。
また、救済史観(=申命記史観)は過去を説明するばかりでなく、未来への希望へもつながっています。もし悔い改めて律法を遵守するならば、ユダヤ民族は必ずや救済されるはずだろう、というわけです。申命記史書では、しばしば登場人物の口を借りて「罪を悔い改めなさい…ヤハウェ信仰へと立ち帰りなさい…そうすれば救済が…」と説かれます。申命記史家たちはヤハウェ信仰を擁護しつつ、ユダヤ民族復興という将来の希望を保たせようともしているのです。
さて、これから申命記史書のそれぞれについて見ていきますが、申命記史家たちは他にもいくつかの文書に手を加えています。まず「申命記」を現在知られている形にまで加筆修正し、申命記史書全体の序文としたのは彼らだと言われています。そもそも申命記史家と呼ばれるのも、彼らが申命記を「守るべき律法」として何よりも重視していたからです。申命記史書では「(申命記の)律法は神がモーセを通して民に与えたものである」ということが何度も強調されています。それゆえに律法は重要なのだと言いたいのです。また、申命記史家たちはイザヤやエレミヤといった預言者たちの預言書の編集にも関わっていたようで、いかにも申命記史観的な加筆が残されています。このような箇所は申命記的編集と呼ばれています。
ヨシュア記
いわゆる「土地取得」の時代、パレスチナを侵略しつつ、イスラエル民族という共同体が形成されていく過程が描かれます(詳しくはこの連載の第18回を参照)。物語の流れは単純で、まずヤハウェから神託を受け、出撃・戦闘・勝利し、先住民を虐殺し、戦利品を分配します。注目すべきは2点。
まず「聖戦」という概念です。これはイスラエルのみならず古代オリエントに広く共通する戦争の捉え方であって、すなわち戦争とは、それぞれの国家なり民族なりの守護神同士の戦いであるということです。ですから、戦いの前には神託によって神の意志をうかがい、兵士たちは身を浄めます。守護神の力への信仰が戦意を支えていたのです。
2点目は「聖絶」です。これは先住民に対する大虐殺で、読んでいて大変不快な気持ちになり、現在のイスラエル国家の蛮行まで思い出されます。しかしながら実際の古代オリエントでの戦いにおいては、敗北した民族は「守護神に見捨てられた神なき状態」にあると考えられ、「より力のある戦勝民族の守護神の支配下におく」というタテマエでもって奴隷とされることが普通でした。ですからヨシュア記に記された大虐殺は、史実というよりも、むしろ申命記史家たちの思想を反映した虚構のようです。
彼らはこう考えたのでしょう、「王国が滅亡したのはイスラエル民族が先住民の宗教を容認してヤハウェ信仰をないがしろにしたからだ…先住民との共生・混血を通して、彼らの宗教が入り込んで来たのだ…ならばもっと早くに先住民を根絶やしにしておくべきだったのだ…今度王国を再建する時には異民族・異教を排斥しなければいけない…」というわけです。なんとも差別的・排他的な考えですが、そう考えるとヨシュア記全体も、王国復興・領土回復への希望あるいは野望に満ちた物語にみえてきます。
「あなたが生きている間、誰一人としてあなたに立ち向かえる者はない。私がモーセと共にいたように、私はあなたと共にいる。私はあなたを見放さず、見棄てない。強く雄々しくあれ。私が彼らの先祖たちに与えると誓った地を、あなたがこの民に嗣がせるからである。」(ヨシュア 1:5-6)
士師記
土地取得の時代の後、中央集権的な王制が誕生するまでの間、すなわち地方分権的な部族連合の時代が描かれます。士師というのは、それぞれの部族を率いていた指導者のことで、神から与えられたとされる何らかの性質(=カリスマ)、たとえば裁き手としての法の知識、あるいは軍事的な才能、シャーマンとしての権威などを有していました。
士師記では典型的な申命記史観が見られます。異民族の宗教に影響を受けた民がヤハウェ信仰をおろそかにし、怒ったヤハウェは外敵を呼び寄せ、悔い改めた民が救いを求めると、神は救助者として士師を送り、しかし事態が好転すると民はすぐにヤハウェを裏切る、という繰り返しです。申命記史家は「ヤハウェに背けばイスラエルだって「聖絶」されてしまう…パレスチナから追い払われるぞ…」と警告しています。まるで異民族は、イスラエル民族の信心深さを試すために仕掛けられた罠かのように描かれます。
「ヤハウェが士師たちを起こしたので、彼らは掠奪者の手からイスラエルの子らを救い出した。しかし、彼らはその士師たちにも聞き従わなかった。彼らは他の神々の後を慕って姦淫を犯し、これにひれ伏したからである。彼らは、先祖たちがヤハウェの戒めに聞き従って歩んでいた道からすぐに逸れてしまい、先祖たちと同じように歩まなかった。」(士師 2:16-17)
サムエル記
王国が成立して以降、ダビデ王の治世の途中まで。申命記史書の中で、おそらく最も面白く読めるのがサムエル記です。多くの伝承や資料がもとになっていますが、これらに余計な手を加えずに、伝承間の矛盾もそのままに記す方針で編纂されたようです。生き生きとした会話文も多く、祭司も預言者も王でさえも美化されません。一応のところヤハウェの意志に基づいて王国が成立したということにはなっていますが、ダビデ王の人間的な弱さ、そしてその結果としての王朝支配の動揺まで描かれており、「歴代誌」のような理想化は見られません。王朝の永遠の繁栄を唄う「ナタン預言」の部分が浮いていると感じられるほどです。読めば読むほど、なぜ預言者サムエルが王制導入にあれほど強く反対したのか、その理由が明らかになってくるという上手い構成です。
神も人間の行動に対し責任を感じ反省します。「出エジプト記」や「ヨシュア記」におけるような、奇跡的な出来事によって歴史に突然介入する神ではありません。むしろ歴史のさまざまな出来事は人間の意志によって起きていることを語りながら、その背後に目に見えない神の摂理を見ようとしているように読めるところが面白いのです。
「私たちは皆、死ぬべきものです。地にこぼれて再び集めることのできない水のようなものです。神は死んだ者を生き返らせては下さいません。ですから、どうか、王様は、追放された者が追放されたままにならないようにお取り計らい下さい。」(サムエル下 14:14)
列王記
ダビデ王の晩年から王国分裂時代を経て、南王国の滅亡まで。多くの資料をもとに編集されていますが、サムエル記とは違って編集者自身の自己主張が強く現れます。それぞれの王たちが「正しい王」であったかどうか、すなわちヤハウェ崇拝を純粋に守って異教の神々を礼拝しなかったか、そして地方聖所を取り払ってエルサレム神殿で礼拝したかという、なんとも申命記的かつあまりにも画一的な基準によって評価が下されます。北王国の王たちについては、先述のアハブ王に限らず全員が「エルサレムで礼拝しなかった」というだけで低評価を下されています。「正しい王」とされたのは、南王国のヒゼキヤ王とヨシヤ王だけでした。
「すべての人間、あなたの民イスラエルのすべてが、心に痛みを覚え、この神殿に向かって手を差し伸べて祈るなら、あなたは、そのどの祈り、どの願いをも、あなたのお住まいである天で聞き、赦し、答えて下さい。あなたは人の心をご存じですから、すべての人にもその道に応じて報いて下さい。まことにあなただけが、すべての人の子の心をご存じです。」(列王上 8:38-39)