バビロンにて:神の沈黙を正当化する救済史観(どのようにして聖書は書かれたのか #43)

今回は、紀元前585年頃から540年頃までの話をします。

エルサレムはバビロニア軍によって陥落させられ、南王国は滅び、400年近く続いたダビデ王朝は断絶しました。政治・行政・宗教の指導者層や技術者たちは連れ去られ(第二次バビロン捕囚)、パレスチナの地に残された貧しい農民たちは、ほとんどバビロニアに対して組織的な抵抗を行なうことができず、ただ一方的に搾取されるばかりでした。それでも、廃墟となったエルサレムの神殿跡には祭壇が設けられ、生け贄を捧げる儀式が細々と行なわれていたようです。定期的な断食やエルサレムへの巡礼といった宗教的慣習も残りました。

いまや滅亡寸前にまで追い込まれたイスラエル民族ですが、不幸中の幸いであったのは、バビロニアによる強制移住政策が、かつてのアッシリアによるそれと比べれば少しばかりマシであったということでした。アッシリアによる強制移住は「双方向型」であり、たとえば北王国を滅ぼした際には、その住民をアッシリアの領土各地に分散させる一方で、他民族をよその土地から連れて来て旧北王国領に住まわせました。こうして諸民族を混ぜこぜにして、それぞれの民族のアイデンティティを奪って団結できなくしてしまうことにより、アッシリアに対する反乱の芽を摘んだのです。これに対して、バビロニアによる強制移住は「一方向型」でした。すなわち、捕囚民を比較的まとまった形でバビロン近郊に住まわせ、旧南王国領土についてはそのままにしておきました。その結果、イスラエル民族は、捕囚先のバビロンにおいても故郷パレスチナにおいても、その民族的な同一性をかろうじて維持することができたのです。(ただし、パレスチナ南部、ヘブロンのあたりまでは、死海の南側に住んでいたエドム人たちが侵入・定住しました。その子孫は、後にイドマヤ人と呼ばれるようになります。)

かつてのイスラエル民族はいくつかの部族からなる部族連合でしたね。しかし、旧北王国を構成していた諸部族はアッシリアによって強制移住させられ離散してしまいましたから、バビロン捕囚の時点で残っていたのはユダ部族を中心とした旧南王国の住民だけでした。(他に祭司階級であったレビ人と、南王国の住民であったベニヤミン部族の一部も残っていました。) それゆえ、この祖国を失った民族は、以後「ユダヤ人」と呼ばれるようになります。「イスラエル」という呼び名が使われなくなったわけではありませんが。

さて、捕囚されたユダヤ人たちについてお話ししましょう。「捕囚」というと、まるで幽閉されて強制労働を課せられていたかのような印象を受けますが、実際には、バビロニア当局の監視下におかれていたとはいえ、長老たちを中心としたある程度の自治は許されており、家を建て、果樹を植え、農耕し、家族を形成することもできました。兵士や職人として技能を生かして働くこともできましたし、特に王族や知識人たちはバビロニアの王宮からそれなりの待遇を受けており、出世する者もいたようです。後述するエゼキエルや第二イザヤなどといった預言者たちも活動できていました。

このように経済的・政治的にはある程度の自由を享受できていたユダヤ人にとっては、むしろ宗教的・精神的な問題の方が重大でした。ヤハウェ信仰の地パレスチナから引き離され、エルサレム神殿を中心としたかつての宗教生活、たとえば巡礼や祭り、儀式なども実践できません。ひとまずは長老や知識人を囲んで集会を開き、宗教的文書の朗読や説教、祈りなどという形で、言葉を介してヤハウェ宗教の伝統を維持していました(この集会が後のユダヤ教の教会=シナゴーグでの礼拝の原形となったと考えられています)。しかしながら当時のバビロンはネブカドネザル王の治世のもと、オリエントの商業の中心として空前の繁栄のさなかにあり、立ち並んだ巨大な建造物や壮大なバビロニア流の宗教儀式は、ユダヤ人たちを大いに誘惑し、また同時に祖国喪失者としての敗北感をも味わわせました。

古代世界の常識では、民族や国家間の戦争は同時に、それぞれの守護神同士の戦いでもありました。したがって南王国がバビロニアに滅ぼされたという事実は、イスラエル民族の神ヤハウェがバビロニアの神々に敗れたということを意味しかねなかったのです。かつて南王国では「ダビデ王朝は首都エルサレムとともに永遠に存続するはず…そのように神ヤハウェが約束してくれたのだ…」と信じられており、アッシリア軍によるエルサレム包囲戦を奇跡的に生き抜いた紀元前701年以降になると、ますますこの幻想は強められました。にもかかわらず、バビロニア軍によってエルサレムは徹底的に破壊され、ダビデ王朝最後の王は惨めな姿でバビロンへと連れ去られたのです。

この残酷な現実は、ヤハウェに対する深い疑念を呼び起こしました。ヤハウェはバビロニアの神々に打ち負かされてしまい、自分が守るべき民を見捨てたのではないか。じっさい、異教の地に捕囚された自分たちを見ていながら、ヤハウェは何もできずに「沈黙」しているではないか。こうなると、ユダヤ人たちの中から、ヤハウェ宗教を捨てて勝利者であるバビロンの神々にすがる者たちが多く出て来ても不思議ではありません。

このような信仰上の危機に際して、ヤハウェ宗教は護教のために「歴史に介入する神」という考え方をより深めていきます。これはそもそも北王国滅亡の頃に南王国で生まれた考え方で、以前詳しく説明しましたが、ここでおさらいしておきましょう。

この考え方の特徴は、現実の歴史で巻き起こる事件をすべて、ヤハウェによる恵み・救い、あるいは裁き・罰として解釈してしまうところです。すなわち、ヤハウェとイスラエル民族とは契約を結んでいて、民がこれに違反してしまうと(=を犯してしまうと)ヤハウェは怒り、国家滅亡や異民族支配といったをもたらします。しかしこの罰は、あくまでも民を正しいあり方へと導くための懲らしめなのであって、ヤハウェも本当のところは民を救済したがっているそうです。だからこそ民が反省して神との契約に立ち帰れば国家の独立と繁栄という恵みがもたらされる、というのです。「ヤハウェがイスラエルを救済へと導いてくれる過程」として歴史をとらえるところから、この考え方は「救済史観」とも呼ばれます。実際にはいくつもの原因が複雑に絡み合って生じている歴史をなんでもかんでも自民族中心で解釈するわけですから、なんとも手前勝手な歴史観というより他にありませんが。

ともかく重要なのは、この救済史観においては、神の「沈黙」が正当化されているということです。たとえ国家が滅亡してどんな不幸がふりかかってきても、それは「神が民を見捨てたから(=神が沈黙しているから)」ではなく、「民が契約に違反しているから(=民が罪を犯しているから)」、なのです。それゆえ、民が悔い改めない限りは、神が沈黙して民を救わなくても構いません。そして全く罪を犯さない完全無欠な人間などいるはずがありませんから、結局どこまで悔い改めても罪は残ります。こうなるともはや民は悔いるばかりで、神に対して何も要求できません。「神さまだったら私たちを幸せにしてくれや」ではなく「私たちが幸せでないということは、私たちが罪を犯しているからなのだ…」と考えるのです。

こうなるといよいよ神はいつでも絶対的に正しいということになってしまい、以前お話しした「本格的な一神教(=唯一神教)」、つまり「色々ある神から一つを選んで信仰するのではなく、自分たちにはもうこの一つの神ヤハウェしか信仰することができない」という考え方が確立してしまいました。ヤハウェは常にユダヤ人たちを正しい方向へ導こうとしているわけで、そんな神を裏切って他の神を崇拝したところで、ヤハウェによる怒りと災いが降り注ぐだけだと信じているのですから

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