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『御教え集』三一号、二月四日

『御教え集』三一号、昭和二九年三月一五日

立春祭御教え

二月四日


 今日は立春とともに旧の正月の元日になるそうです。いつも、立春というが、早いように思うのです。とにかく今年は大いに意味があるのです。まだ発表はできませんが、昨日、今日すばらしいことがあったのです。いずれ話をしますが、それは神様の型です。それで、非常にめでたいことなのです。というのは、節分というものは「福は内、鬼は外」で、鬼の災いを避(よ)けるという、昔からの行事があるのです。そのためにほうぼうの神社仏閣で豆まきをやるのです。ところでこれは、前にも話したことがありますが、あべこべなのです。鬼というのは偉い神様なのです。良(うしとら)の金神国常立尊(こんじんくにとこたちのみこと)という神様です。今日の御讃歌にも「常立の神」というのがありましたが、国常立尊のことを略して常立の神と詠(よ)んだのです。それからもう一つ「艮の神」ということも入れてありました。そういうようで、つまり事の起り始めは、これは神代となってますが、神代ではないのです。そう古いことでもないのです。もっとも三千年ということになってますから、三千年前はやっぱり人間の世界です。この国常立尊という神様が世界的に支配していた 時代があったのです。ところが非常に厳格な神様で、間違ったことは許さないというために・・・・・大本教のお筆先などを見ると分かりますが・・・・・つまりあまり厳しいので八百万の神様がとてもやりきれないというので、こういうやかましい神様は押し込めなければ楽はできないというわけで、押し込められたわけです。押し込めたほうの神様は天若彦(あまわかひこ)神というのです。これはよく天邪鬼(あまのじゃく)と言いますが、天若彦というそれを後世天邪鬼と言って、つまり素直でない、なんでも横車を押すという性格の神様です。それで国常立尊という神様を、良(東北)に押し込めたのです。そこでそれを鬼門と言って忌み嫌ったのです。もっとも忌み嫌うわけです。人間のほうが間違ったことをすれば、そういうやかましい神様を嫌うわけですから、どうしてもそうなるわけです。そうして鬼門除(よ)けと言って、いろんなことをやったのです。そういうわけで、三千年押し込められたとしてあります。そうしてその神様が明治二五年に大本教の教祖の出口なおという方に憑られて非常に怒鳴ったのです。出口なお刀自(とじ)の口を借りて怒鳴ったのです。その第一声が「三千世界一度に開く梅の花、良の金神の世になりたぞよ。梅で開いて松で治める神国になりたぞよ。日本は神国。この世は神がかまわなゆけぬ世であるぞよ。竹は外国であるぞよ」というそれが最初の獅子吼です。それで、大きな声をして怒鳴るので、気違い扱いにされて警察に引っ張られて、二〇日か三〇日間勾留されたのです。それが大本教の始 まりなのです。その良の金神という神様は、押し込められて肉体のほうはなくなりましたが、霊は霊界に行かれて閻魔大王になるのです。それで閻魔大王というのは、善悪、罪穢れを裁く神様、裁くお役目です。閻魔大王というと非常に恐ろしがられたのです。それが、本当は至正至直の神様ですから、そこで霊界に行っても、悪い人間が見ると恐ろしい顔に見えるのです。これは霊がそういうことを言ってました。それから心の善い人がゆくと、非常に柔和な慕わしい優しい神様のお顔に見えるのです。これはおもしろいです。というわけで、そこで大本教のお筆先に「良の金神はこの世の閻魔と現われるぞよ」とありますが、「この世の閻魔」ということは、現界の審判をなされるということです。いままでは霊界の、死んだ人を審判されたが、今度は現界で生きた人間を審判される。「この世に現われて」 というのですから、現界に現われて審判をするというわけです。「今までは蔭の守護でありたが、今度は表の守護になるぞよ」とありますが、すべて現界的になるわけです。では、それはいつかと言いますと、だいたい明治二五年のは、霊界から現界に、つまり一段近寄ったわけです。霊界でも三段になっていまして、一段ずつだんだんと近寄ってくるのです。それでいよいよ最後の段をすまして、直接現界に現われるというのが今日からなのです。そうすると、今日は最後の審判の初日というわけです。恐ろしいですが、しかしそれはこっちに邪念があったり曇りがあったりすると怖いので、そうでなくてこっちが本当に正しく立派な心を持っていればありがたいのです。いままで悪い奴にいじめられたりしていた、それがいじめられなくなるから、善い人間には非常に結構です。それから「今度は善悪を立分けるぞよ」とありますが、これは私は始終書いてます。最近いろんな汚職事件がめちゃめちゃに現われてきました。 よくもそういった不正事件が出るということは、いままでに例がないように思います。これもいわゆる審判が近寄ったということを現わしていると思います。それで、艮の金神様が表に現われるということは、艮の金神様は火の系統の神様ですから、そこで非常に光が強いのです。やっぱり霊界が明るくなるのです。だからいままで隠していたり隠蔽(いんぺい)していたものが現われるのです。目に見えるわけです。そこでいろんなそういうことが出てくるのです。それから今年からまた一段と病気が多くなります。それとともに薬毒がだんだんはっきりしてくるわけです。以前も言ったとおり、恐怖時代の一歩に入ったわけでもあります。そうなると救世(メシヤ)教というものの発展が著しくなり、大いに発展するわけです。その段階に入ってきたわけなのですから、大いに働き甲斐があるわけです。いままで押さえつけられていたのが、その押さえつける力が弱るわけです。いままで一〇回も二〇回も話をしなくては分からなかったのが、今度は五、六回で分かるというような意味になるわけです。そうかといって、神様のことは急に目に見えるようには現われないものなのです。つまりなんとなくジリジリジリジリ進んで行くわけです。今年、来年、再来年というように、 年々早くもなるし、それからはっきりもしてくるのです。とにかく今年から神様が表になったということは、たしかなのですからして、そこで救世(メシヤ)教というものは、今年から世界的に非常に知れてゆくわけです。いわば、いよいよ舞台に上がったわけです。いままでは楽屋でいろいろ支度していたのが、いよいよ支度ができたので檜舞台に上がるということになるわけです。やっぱり芝居と同じですから、序幕です。これはお筆先にありますが、「今度は三千世界の大芝居であるから、悪の役もあるし善の役もあるから」というのがあります。お筆先というのは実によく書いてあります。というのは、いままでずいぶん教団の邪魔をしたり、いろいろ良からぬ人が入ってきました。ところがそういう人に「あいつは悪い奴だとか、あいつはいけない」とか言いながらも、結果においては、なかなか良い役をしてます。それは悪い人間でなければできないような良い役をしてます。だから本当に御苦労様と礼を言いたいくらいです。これがちょうど、いま言った、善の役と悪の役と両方こしらえてあるということがはっきり分かるのです。もっとも芝居でも映画でも、ああいった脚本でも、善人ばかりでは芝居にならないので、悪人に善人が苦しめられるという、そこに一つの脚色ができるのですから、なるほど芝居という意味から見ると、悪の役も入り用だったわけです。 そういうようで、神様がやられることは実に深いです。ですから「あの人はああいうことをしているから悪い、間違っている」ということは、とても言えるものではないです。そう言っている人は、実はその人自身が悪いことをやっていて、悪いことを言われている人は良いことをやっているかもしれません。お筆先に「一生懸命、神のためと思い、間違うている事をしている人は、神も困るぞよ」というのがあります。「これが神様のためだ、これが本当だ」と言って一生懸命にやっていることが、あんがい神様のお邪魔になっているというわけです。そこで人間、特に信者は、善とか悪とか決めることはたいへん間違っているのです。また分かるものではないのです。ただ、自分が良いと思うことをしていれぱそれで良いので、人が善いとか悪いとか言う、それが一番危険なわけです。なにしろ世界人類を救うというのですから、開闢(かいびゃく)以来ない大きな仕事なのです。お筆先に「大きな器には大きな影がさす。だから器が大きくなければ神の仕事はできんぞよ」というのがあります。よほど大きな器で、要するに大局的に見るというわけです。(後略)

以上がメシヤ様の御教えです。

上記の御教えを拝読させて頂きますと、当時と同じような状況が更にはっきり現れているように思えてなりません。

次回は『御教え集』三一号、昭和二九年三月一五日
二月五日分を投稿させて頂きます。

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