20211202のメッセージ
2021年12月2日(木)
夕拝後、御神前で自己浄霊を頂くと、ふと悲しくなり涙が出そうになる。
メッセージを頂く。
『畏れ多きこと申し上げます。』
『私は諸々の神を司る』
『たらちね』
ここでメッセージは途切れた。自分が遮ってしまったのだろうか、よくわからない。
ただ、御神前にて頂いたメッセージなので、宇宙の御経綸を司る主神様、メシヤ様に対し「畏れ多き」の言葉を発していることから、階級は不明だが、諸々の神様を司るお方なのだろう。
たらちね、に関するメシヤ様の詩歌を以下に掲載させて頂きます。
幽世にいます垂乳根に尽すこそこよなき真の孝にぞありける
(生死一如『讃歌集改訂』昭和二十六年五月二十八日)
たらちねの尉(じょう)は天国姥(うば)は地に待たせ玉はん桃のいさをし
(明光本社第三十二回月並和歌 昭和四年八月六日【『明光』第三十八号、昭和四年十月三十日】)
垂乳根(たらちね)の母の乳房を幕ふがに世人すがらん千の玉手(たまて)に
(千手観音『光明世界』第一号、昭和十年二月四日)
垂乳根の母にもまして壊しく打仰ぐかな貴美が御面
(観音下生『光明世界』第一号、昭和十年二月四日)
たらちね(垂乳根)の尉(じょう)と姥(うば)とは桃太郎の勲(いさをし)はろばろ待ち給ふらむ
(桃の実『光明世界』第三号、昭和十年五月ニ十一日)
(桃の実(九)観音会御讃歌集、昭和十一年(未発表))
垂乳根の母の乳房を幕ふがに世人縋らん千の玉手に
(千手観音(ニ) 観音会御讃歌集、昭和十一年(未発表))
垂乳根の母にも増して懐しく打仰ぐかなやさしき御姿
(観音下生(三) 観音会御讃歌集、昭和十一年(未発表))
垂乳根の父母なくば現世に此身此魂あらじと思ふ
(感謝報恩(二十三)昭和十年十一月一日、観音会御讃歌集、昭和十一年(未発表))
垂乳根の母の乳房を幕ふがに世人縋らん玉の御手(おんて)に
(千手観音『讃歌集』昭和二十三年七月一日)
垂乳根の母にもまして懐しく打仰ぐかな玉の御面(みおもて)
(観音下生『讃歌集』昭和二十三年七月一日)
垂乳根の父母(ちちはは)なくば現世に此身此魂あらじとぞ思ふ
(大御恵『讃歌集』昭和二十三年七月一日)
(感謝報恩『讃歌集改訂』昭和二十六年五月二十八日)
垂乳根の子を億(おも)ふ如(ごと)億兆を愛(めぐ)まふ神の御心畏(かしこ)し
(神の御心『讃歌集改訂』昭和二十六年五月二十八日)
また、讃歌集改訂版(昭和二十六年五月)のはしがきを併せて掲載致します。
讃歌集改訂版
はしがき 昭和二十六年五月
此讃歌集は、昭和廿三年八月出版したものを、今回改訂版として、新たに編輯(へんしふ)したものである。といふのは以前のは、日本観音会当時著作したものであるから、世界救世(メシヤ)教となった今日では、適切でない歌も多々あり、又以前の時は急いだ為、意に充(み)たない点もあったので、今度は充分意を注いで、念入りに作ったものであるから、面目一新した訳である。
日本には古くから、独特の文芸としての和歌があった。此和歌なるものは、不思議な力を有(も)っていて、千言万語でも言ひ表はせない事を、僅か三十一文字で、よくその意を表現する事が出来、予想外に人を動かす力がある。それ等によって、私は時折詠んだ感想歌、道歌、神歌、叙情歌、叙景歌等の中から、自撰蒐録して出来たのが此著である。私は専門的歌人ではないから、巧拙などは余り意とせず、あるがままの自然に感じたものを、詠んだのであるが、只意を用ひた点は、誰でも判り易い事、品位の高い事、言霊の妙を発揮した事等で、之を朝夕奉唱する事によって、自然によい影響を受け、信仰の深まるのは言ふ迄もない。
以上が詩歌とはしがきです。
「僅か三十一文字で、よくその意を表現する事が出来、予想外に人を動かす力がある。」
「三十一」 = 「神幽現を結び全宇宙の経綸を司る主神」
主神様がメシヤ様を通して、という意味で捉えると肚に落ちます。
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#夜昼転換
#仏から神へ
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