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2022.3.1”たった一人のための楽曲ブランディング"を始めました。|SHOTA

(※R5.7月~サービス名を”たった一人のための楽曲提供"→"たった一人のための楽曲ブランディング"に変更)



はじめに

はじめまして、”たった一人のための楽曲ブランディング"を始めましたShotaと言います。
僕は趣味でギターを20年くらい、楽曲制作をLogic(音楽制作ソフト)を使い本格的に始めて1年くらいのなんの変哲もない40代独身会社員。

そんな平凡でプロには程遠い僕がなぜクリエイターとして"たった一人のための楽曲ブランディング"を始めたのか。

結論から言うと、、僕は自分の人生を持って

本音で生きること、心からやりたいことをやると他人と比べず幸福度が高まり
在りたい自分になれる。そしてそれはいつからでもなれる。
だから"何をするにも年齢は関係ない"。

そのことに気づくことができた。だからこそ

人生に悩みがあるけど前向きに行きたい人
人生をより良くしたいけど迷ってる人
最高の人生にしたい人

に向けて寄り添い、その方の人生を後押しするようなサービスを
提供すると決断し、活動を始めました。

この活動を始めるにあたって僕に揺るぎない
"想い"があります。


僕の半生を振り返りつつその経緯をお話しさせてください。

※(注)

僕の半生を振り返り自分の人生を色々思い返しながら執筆したので
とてつもないボリュームになってしまいました。

ですので

どのようにこの活動を始めたのか?
そもそものきっかけは?
これからどうしていくのか?

は見出しの

なぜ"たった一人のための楽曲ブランディング"が本音でやりたいことになったのか?

から見ていただけると短い時間で読めるかと思います。



10代 とにかく何をやってもうまくいかった。 けど、、


今思えばとかく自分の主張ができない子供だった。。勉強ができたわけでもなく、運動が得意でもない、平凡な子供。ときには言われるがままにやりたくもないことをやらされてストレスを溜めたりもした。親に言いたいことが言えず我慢することも多々あった。

小学校の時、運動神経がいいわけでもないのに親に少年野球をやらされたことがあった。やりたくもないことをやる辛さは本当に辛い。嫌々やらされてることに対して理不尽に感じた。けど「やりたくないからやめる!」とも言えない子供だった。
その頃は親の言った通りにするものという思い込みが強かった。何か言い合いになりそうなことは避けた。とにかく無難がいい、無難でいい、みたいな。

今でもはっきり覚えてるけど卒業文集の将来の夢のところに「サラリーマン」って書いた。「サラリーマン」が何かわかってなかった。でも「サラリーマン」って書けば無難だろうって思ったんだと思う。

夢なんてなかった。ないからそれがないことに悩んだ事もなかった。

中学生になって、親に「なんでもいいからクラブ活動しろ。将来の役に立つから」と言われ、友達に誘われやりたくもない水泳部に入った。顧問の先生に「辞めます!」って言う勇気なんて無くてなんとなく3年続けた。モヤモヤするんだけど人から外れることを主張したり行動することができなかった。

みんなと一緒じゃないとダメだって思ってた。

学生時代を振り返って"クラブで情熱を注いで最高の経験ができてそれが人生の土台になり自信につながってる!"みたいなエピソードとは僕は無縁だった
正直そんな体験のある人を今でも羨ましく思う。

小中は言われるがまま。高校からは言われるがままが嫌で自分の主張をするけど親に言いくるめられたり、世間体を気にする子供。そしていつも何かのせい、親のせい、誰かのせいにしていた。自分の在りたい姿を思い描くことや自分に自信を持つこともないまま思春期を過ごした。

どこか心は荒んでるけど、対人関係はごく普通、いじめられる事もなかった。
けど些細なことをいちいち気にするタイプ。いわゆる”気にしぃ"なやつ。何か問題やストレスを抱えても性格が負けず嫌いとかでもなく争いごとが嫌いだから気にしないフリをしてた。

そんなどうしようもない僕でも10代の頃夢中になった事が2つあった。

10代の頃夢中になったこと


①小学校の時に絵を描くのが好きだった。

小学校低学年の頃、もともと「ぬり絵」が好きで綺麗に色を塗るのが好きだった。それに満足出来ず、色を塗る前の絵を描くのがやってみたくなって実際描き出して好きになった。描けば描くほど、もっと上手く描きたいって思うようになった。

これは誰に頼まれたわけでもなく、自分がやりたいからやった。

夢中になって書いた。その時、週刊少年ジャンプで連載していた、ドラゴンボールや聖闘士星矢セイントセイヤの絵を描くのが特に好きだった。

小学校高学年になったら週一回の部活が確か水曜日にあって、マンガ部に所属した。マンガを読むんじゃなくてマンガの絵を描く部活。部活の時間が終わってクラスのみんながそれぞれの部活から帰ってきた時、僕の描いた絵を見ては褒めてくれた。嬉しかったなぁ。

親もマンガ家さんが使うペンやインクを買い与えてくれた。

ただ真似をして描くのが好きだった。本格的にオリジナルのマンガを描いてみようとはしたけど、それは全然アイデア出てこなかったし、ストーリーも浮かばなかった。挫折した。だから漫画家になりたい!とまでは思わなかった。中学になったら結局絵も描かなくなった。

でもこれが人生で初めて
本音でやりたいことをやるという原体験だった。

絵を描く事がきっかけかわからないけど、何かを作るのが好きになった。LEGOのブロックで自分の思うように何かを作ることが好きだった。
だから小学校の通知簿では他の科目は「普通」ばかりだったけど
図工は「よくできました」だった。

高校の時ギターを始めた事

誰かがやってる姿をみてやってみたいと思ったわけでもなく音だけ聞いてギターってかっこいいなぁと思った。

小学校のときテレビのCM(確かカネボウのCM)でB'zさんの"Lady Navigation"がタイアップで流れてた。その時、松本孝弘さんのギターのサウンドがめちゃくちゃカッコいいなぁって思った。厳密にいうとB'zさんなのかも知らないし、ギターの音なのかもわかってなかった。ただ「この音カッコいい!」ってなった。

それから音楽を聴くのは好きになった。だいたい殆どの人は『音楽=歌』って捉える事が多いと思うんだけど、音楽の中に出てくる楽器の音って自分にとって歌と同じぐらい特別なものっていう認識がこの頃からあった。そうそう、音楽授業で縦笛の演奏は得意だった。音符は読めないのに(今でもろくに読めない、、)聞いて覚えることができた。ちなみに絶対音感はない。覚えるのも時間のかかる方。今でも。

歌じゃないけど、歌詞はないけど、
音にもその方の"想い"が乗ってるように思えた。

小、中学はファミコンなどのテレビゲームにハマってて、音楽は聴くだけで満足だった。

ところが高校になってゲームが面白くなくなったころ、自分がギターを弾いてみたいってなった。親にギターが買いたいからバイトしたいっていったら「校則ではバイトは禁止。だからバイトはするな。校則は法律や」と言われて(この言葉は一生忘れない、、)ギターは買えなかった。

高1の冬ぐらいだったと思う。友達の家で遊んでると親からその友人宅に電話がかかってきて(同時は携帯電話もなかったw)急にギターを買いに行くことになった。一瞬「やったー!」って思ったけど楽器屋に行って愕然とした。父親がどっぷりフォーク世代なもんだからYAMAHAのアコースティックギターを買うことになった。それはいらないとは言えなかった。(流石に言ったかもしれないけど記憶が定かじゃない。。)

自分がカッコいいと思ってたのは松本さんのようなギター、エレキギターの激しいサウンドだった。。大人になって思うのはアコースティックギターにも格好良さはあるし、アコギから始めたギタリストなんていくらでも居る。ただ当時は欲しいギターじゃないから弾きたいと思わなかった。ケースから出す事もなく半年は埃をかぶってた。。

多分半年くらいしてから、その埃をかぶってたギターを夢中で弾きまくることに。
きっかけはその当時流行ってたMr childrenさん。めちゃくちゃ好きになった。
「花-Mement-Mori-」と言う曲のイントロがシンプルなアコギのストロークでそれがどうしても弾きたくなった。楽器屋さんに行ってバンドスコアを買った。

その曲の
イントロはギターしかなかったからCDをそこだけ何度も何度も聴いてCDみたいな演奏になるように何度も練習した。イントロが弾けるようになったら嬉しくてその先も弾きたくなった。

よくギターはFコードで(押さえるのが痛いから)挫折するって言うけど僕には関係なかった。夢中だった。弾けるようになりたいから弾きたい気持ちが勝っていつの間にか痛いけどFも弾けるようになった。
そんな調子でアコースティックギターで弾きたいと思ったことはなんでも取り組んだ。
しばらくして受験のことを意識し出してギターはしばらく離れることになった。
でもこの原体験があったからこそギターをその後弾き続けることになった。

ちなみに高校受験も大学受験も失敗。2浪してやっと入った5流大学も休学→中退。もうこの時点で終わってる。#ざっくりすぎる爆

10代を振り返って思うこと

自己肯定感が低く、環境や人のせいにすることがある中で、自分が本音でやりたいことは夢中でやっていた。10代でそういうものに出会えたことはよかったなと思う。でも当時はギターをもっと早く始めたかったと思ってた。



20代 やっとやりたい音楽ができる!、、でも挫折の連続だった。

大学受験から解放され、やっとバンド活動ができると思った。ひたすらメンバー探しの日々。当時のバンドマンあるあるだけど(今もそうなのかな?)、とにかく、世の中にボーカルとギターは溢れてる。。けどベースやドラムとなかなか出会わない。当時メンバーを探すのは困難だった。SNSは当時は皆無だから雑誌にあるメンバー募集、楽器屋にあるメンバー募集のチラシを見たり自分で貼ったりして探した。
顔合わせはしたけどバンド活動に至らなかった事もしょっちゅう。
せっかく組んだバンドも1年続かなかった。

それに加え、日々の大学の授業、お金がないからバイトする日々。。やっとの思いでバンドができる音楽ができる生活を送れると思ったのに時間が無くて思うような活動ができず、時間だけが過ぎていった。。(今思えば自分の時間の使い方が甘かった。やりようはいくらでもあったと思う。言い訳せず頑張ってるバンドマンやプロも目指した人、忙しくても頑張ってプロとして活動した人はいくらでも居た。)

親に頼み込んで大学を休学し音楽の専門学校に行かせてもらった。

専門学校に行けば最高の環境が待ってると思っていた。でも実際は違った。

今思うのは環境なんて結局は他人に作ってもらうのではなく、自分で作り出すもの。なのに当時の僕は自分より音楽に情熱を持って取り組んでる人たちにただただ圧倒された。他人と比べて苦しんだ。僕はやりたいことが溢れてるのにそれが表現できなかったし、そもそものギターの練習量も行動量も足りなかった。やる気が空回りした。学校内の演奏の授業では思うような演奏ができず落ち込むことばかりだった。あっという間の専門学校での2年間が終わった。。音楽に没頭できる環境を活かしきれず、心から音楽を楽しめてなかった。。

卒業後は大学に戻る気もなく中退し(ほんまにぶっちぎりのスーパー親不孝者)20代半ばになってた。でも音楽の夢を諦めたくなかった。またバンドメンバーを探す日々。やっと参加したバンドも見事に続かなかった。。続かない理由が明らかに自分の未熟さもあった。。

そんな中、コンビニのバイトの先輩がギターがいないバンドを紹介してくれた。「これだ!」って思った。メンバーは女の子3人、僕だけ男。直感でちょっと面白いなって思った。即、連絡取りそのバンドのメンバーとスタジオに入り
音出しした。一緒に活動していくことになった。

とにかくプロ志向云々は置いといてバンド活動できることが嬉しかった。でも活動していくうちに僕の欲が出てきた。やっぱりメジャーデビューしたいし、売れたいし。
でも彼女たちは趣味でのびのび活動していきたいスタンスだった。わかってはいたけどそれが段々お互いのスタンスの違いに溝ができていった。

やりがいはあった。自分が作った曲をボーカルの子が歌ってくれて、それに歌詞をつけてくれて。レコーディングススタジオに入って本格的な録音も経験できて、その曲をライブで演奏してそのバンドに入って10曲は作ったかなあ。僕にとっての作曲の原体験。
けど続かなかった。

"どう在りたいか"の根底が違うと一緒に活動していくことはできない。

結局そのバンドも離れることに。。

もう26,7歳になってた。また振り出しに戻った。正直気が狂いそうだった。対バンした時の知り合いが声をかけてくれて数回ライブしたけど、本格的な活動にはならず、、路頭に迷った。。精神的にボロボロだった。。

24歳の頃、親の勧めでヘルパー2級の資格を取った。デイサービスで働いたり、工場で働いたりもした。音楽のことがうまく行かずとにかくメンタルの状態が良くなかった。そんな状態だから仕事も当然うまくいくはずがない。。職を転々とした。

明日また日が昇るのが嫌だった。mixiで知り合いのバンドマンの活動情報を見るのが嫌だった。。僕は何もできてない。何も活動していない。その事実を明日が来るたび、日が昇るたび自分に突きつけられてるようだった。

その頃加入したバンドは趣味でやってるバンドだしライブすることにも積極的でなかった。。やらないよりはマシとは思ったけど何処か無気力だった。それから色々バンドを渡り歩いたけど自分の理想とするような活動はできなかった。無気力だから、バンド側からしても使い物にならないと思われた事もあったと思う。

週5で同じ友達と飲みにいった。愚痴ばかりで少しも前向きではなかった。本当にその友達は良く話を聞いてくれた。20代の終わり頃はただひたすらそんな日々が続いた。永遠にこの悩みから出れないと思ってた。

20代を振り返って思うこと

やりたいことをやっているのにうまく行かなかった。今思えば環境は恵まれていたはずだった。でもうまくいかなかった。

理由は明白で他人と比べていたから。だから苦しかった。自分だけが苦しいと思い込んでいた。みんなも何処かで何かでがいてる。誰も見ていないところで辛い思いをしてる人なんていくらでもいる。自分だけじゃない。
でも自分だけが辛いと思っていた。うまくいかないことを人のせい、誰かのせい、環境のせいにしていた。年齢は関係あると思っていた。そんなだから知らず知らずのうちにたくさんの人を傷つけていたと思う。



30代 一旦音楽から離れた。そしてまた動き出した、、

結論から言うと、30代の最初の数年は音楽から離れた。と言うより、離れる必要があった。別にギターを辞めようとかは思わなかった。家でちょっとつま弾く程度。でも精神状態も明らかに良くなかったし、外で音楽をする心の余裕もなかった。

この頃から心の状態って何をするにおいても大切なんだと自分の体験から感じた。

その頃勤め始めた職場が現職。いわゆる職安の介護職員の求人募集があって普通に面接受けてあっさり受かった。代表には自分を拾ってもらったと思っている。感謝しかない。

勤め始めて、人として誰もが当たり前にすることや体験すること、感じることを大切にするようになった。

例えば、、

・年が明けたらめでたい
・春は暖かいし夏は暑いし秋は心地いいし冬は寒い
・お花見したら楽しい
・夏の海は気持ちいい
・秋の紅葉は綺麗だな
・好きな仲間とお酒飲むのは楽しいな
・夕暮れはキレイだなあ

↑上げ出したらキリがないんだけど、20代の自分にとって疎かにしていたことばかりだった。。なんなら音楽をする以外の時間は自分は必要ないってくらい思っていた。些細なことに喜びを感じる日々を重ねて少しずつ心に余裕が出てきたと思う。

余裕が出てきた頃、以前一緒に活動してたカバー曲主体のバンドにお誘いを受けて週1回のスタジオに入ることになった。

もう何年ぶりってくらいのスタジオ。バンドでギターを弾くのが楽しかった。久しぶりの感覚だった。その頃から、また再びギターにのめり込むようになった。
ライブも頻繁ではなかったけど、半年1回くらいのペースでやったかなぁ。。
でもあまりバンドのスタンスも積極的にライブする感じではなかったので、数年して脱退させてもらった。。

どこかギターを弾ける場所はないかなぁとさがしてたところ、ジャムセッションをしてるところがあることを知った。ジャムセッションの存在は知ってたけど、どこで行われてるかは知らなかった。バンドばかりしてた頃はそれに夢中だったし、ネット検索する事もなかった。

ジャムセッションは、いわゆるバンドだといつも同じメンバーでやりたい曲をやるんだけど、そうじゃなくて、その日その場にいてるギターの人、ベースの人、ドラムの人、キーボードの人がランダムでステージに上がって、お題の曲をせーので即興で演奏するって感じ。

お笑いで言うところのコンビで漫才をするのがバンド活動で、
ひな壇でフリートークがジャムセッション。
#ちょっと違うかもやけど大体のニュアンスは合ってると思うw

お題の曲というのはジャムセッションでよくやる定番曲というのがあってそれを覚えては、いろんなジャムセッションに参加するようになった。
バンドはいつも上手くいかずうんざりしていたし、けど気楽な感じで人前で演奏できるし今の自分にはぴったりと思った。ハマったなあ。シンプルに始めましての人と名前もわからないのにせーので音を出すのが楽しかった。
人と出会うことが楽しかった。仲間が増えていく感じが楽しかった。

ジャムセッションを主宰されるのはプロのミュージシャンだったりしたのでそういう方と一緒に演奏できたことや、知り合いになることがとても楽しかった。そこでたくさんの同年代のミュージシャンと出会うことになった。そしてセッションに行き始めて1年くらいしてから同い年のプロのギタリストの芦田良平さん@ryoheihei53のギターレッスンを受け始めた。



30代を振り返って思うこと

一度音楽から離れて休んだ時期があって良かった。何をするにおいてもメンタルの状態がいかに大切かを知った。それがあったからその後の行動につながっていってと思う。プロとかアマとかは置いといてまたギターが楽しくなり出した。
そして
ギターや音楽を通してたくさんの出会いがあり繋がった。
たくさんの仲間と思える方々と巡り会えた。
とりあえずそれで良かった。、、はずだった。


40代 再び挫折が雪崩のように襲ってきた。肉体も精神もボロボロになって気づいたこと。


セッションに行き始めて、やればやるほどどんどん欲が出てきた。
とにかくギターが上手くなりたかった。ちょっとでも上手くなりたかった。
やっぱりプロとして活動する人に憧れたし、音楽で生計を立ててる人を尊敬したし憧れたし、自分もそうなりたいって思った。
20代の頃はバンドマンとしてだったけど、40を目前に一人のギタリストとしてプロになりたかった。年齢は関係ないと思っていた。10~20代の頃とはマインドが変わった。

周りから批判や否定をされるのが嫌だったから絶対言わなかった。

できることが増えればできないことが減るはずだからちょっとでも練習して経験を少しずつ積めばプロに近づけると思っていた。そんな思いもあって芦田さんのレッスンを受け始めた。そんな気持ちだったことは実は最近になって芦田さんに伝えた。

セッションをきっかけにたくさんの出会いに恵まれ、ありがたいことに少しずつギタリストとしてのお誘いを受けるようになった。ギャランティが発生したことはほとんどなかったけど単発のライブが月に1~2本はできるようになった。どんどん活動をしたいからB'zさんのコピーバンドもした。久しぶりのオリジナルのバンドもした。。このままあらゆる活動が全て軌道に乗ると思っていた。自分が思い描くようなギタリストとしての人生を歩んでいくんだと自分を奮い立たせた。。

結論から言うとどれも続かなかったし上手くいかなかった。

理由は色々あったけど一つ確かなことは、他人と比べる自分が再び現れたから。
それが自分を苦しめた。

できることが増えればできないことが減っていくと思ってたけど実際にはそんなに簡単ではなかった。

プロで活動してる人とは経験値にどんどん開きが生まれてくる気がしたし、若くて勢いのある人にもエネルギーで負けてるように思えた。自信が無かった。ライブをしてお客さんを呼べる気がしなかった。

人間関係にも苦しんだ。人の数だけ想いや価値観はそれぞれ。当たり前のことだけど身をもって痛感した。
上手くいかないから時には僕が相手を傷つけた事もあった。

次第にジャムセッションやバンド活動から軸足を抜いてYoutubeの発信活動に切り替えた。YouTubeでは音楽系の発信をした。何か発信はしたかった。演奏動画や、How to系の動画を100本は上げたと思う。これも続かなかった。心が折れてしまった。

また挫折した。 
もうギターの神様に見捨てられたと思った。
「お前にはギターは向いてないから辞めろ」と言われてる気がした。

メンタルの状態が良くないと嫌なことは続くもので、職場でとてつもなく辛い思いをした。心が壊れてしまいそうだった。ここではその詳細は割愛するけど、ストレスで体重が55kgを切った。身長170なのでかなり痩せた。。明らかに不健康になっった。

ストレスとはいわゆる対人関係。今までだったら相手のせいや環境のせいにしてたけどこの時は何故か

相手のせいにしてはダメだ。このままではその相手以外の人間からも
ストレスに感じてしまうことがまた起きる。いくらでも起きる。
そんな出来事がまた自分を襲ってくる。

相手を変えるのは無理だ。

自分が変わらないと。自分を変えよう。

と心から思った。この時何故このように思ったのかというと
誰かに諭されたとか
誰かに愚痴を聞いてもらってアドバイスを受けたとか
そんなんじゃなかった。

自分の内から出てきた本音だった。

まず食事を整えた。そして宅トレを始めた。自分からYouTubeで色々調べた。
周りにそういったことに気をつけてる人は居なかった。だから自分で調べた。

睡眠の質も大切だなと心から思った。聞いたことはあったけど体を壊したからこそ本当に大切と知った。

今まで自分なりにやりたいことに向かって情熱を注いでたけど
食事、運動、睡眠をそこまで大切にしてなかった。やりたいことや仕事の合間にできるときに行う動作としか捉えていなかった。人として基本的なことを大切にしているからこそ、そこからやりたいことに対する意欲やエネルギーが生まれてくると思った。それを疎かにしているとどこかで無理が生じてくると思った。それを身をもって体験した。



体を整え、メンタルを整えたその先でコーチングを受け、人生が一気に加速した。自分のGOALが明確になった。

先にも書いたように、これまでの人生で心に余裕がないと何事もうまくいかない経験をした。
そして心に余裕のない根底には何があるかというと、食事、運動、睡眠の何かしらが疎かになっていると感じた。
その頃から自分のしたいことがギターや音楽のことよりもまずは自分自身を整えることになった。

自分からいろいろな情報を取りに行った。
そして

AKIOBLOGさんを知って
GOAL-Bという会社を知り
コーチングというものを知った。

コーチングとは何か?
めちゃくちゃシンプルにいうと

コーチとクライアントが対話を重ねてそれをきっかけにクライアント自身が自分のありたい姿の向かっていくきっかけを得られる」

って感じ。詳しくは↓

次のアクションプランや打ち手を言われた通りに行うコンサルタントと違い、
コーチングにおいてコーチは共感、傾聴にとどまり、考え行動していくのは
あくまでクライアント自身。

スピリチュアル的な事でもないし宗教じみた事でもない。詳しくは↓

コーチを誰にするかは基本的に自分が誰からコーチングを受けたいのか?で決める、僕はGOAL-Bさんのメンバーのそれぞれの生き様note
を見て直感で山上はるかさん@harucoachingのコーチングを希望した。


月1回はるかさんのコーチングを受け始め今年(令和4年)2月でちょうど1年になる。色々動いたし変わった。

・ケータイを大手キャリアから格安スマホに
・車ミニバン手放し→軽に乗り換え→その後手放す。
・断捨離しまくる
・ジムで筋トレ始めて、パーソナルも通い出す。
・引っ越しする。
・vlog系YouTube始める(70本上げたけど、、)→その後辞める。

といったところ。
特別何か大きな成果を出したわけではない。圧倒的な結果も未だ出せていない。


でもここで僕が伝えたいのは目に見えない数値化できない心の状態。

今まで自分なりに行動してきた。
じゃあ今までとコーチングを受けてからで何が違うかというと


圧倒的に幸福感が違う。

コーチングを受けてからトライして辞めた事もあった。
それは失敗したから辞めたじゃなくて、
やってみててそれほど重要ではなかったから手放したという感覚。
自分の人生が加速する感覚を持てた。

人生において"やりたいことをやる"のと同じくらい"やらないことを決める"のも大事。

そういったスタンスを大切にすることで人生の幸福度が高まっていった。
決して急に変わったわけでなく徐々に変わっていった。

だからコーチングの受講を継続し現在に至る。

40代(まだ半分だけど)振り返って思うこと



コーチの山上はるかさん@harucoachingとの対話の中で自分自身のGOALが

"たった一人のための楽曲制作"
を行うことにたどり着いた。

それを良い形で行えるように、
自分は食事を整えたり身体を鍛たりしっかり睡眠を取るんだって
解釈できるようになった。
全てが繋がった。

やっとの想いだった。

やっと本音でやりたいことを見つけた。
生まれて43年も経ったけど。
これまで
自分なりにやりたいことや楽しいと思うことと引き換えに
悔しい思い
悲しい思いも
虚しい思いも
苦い思いも
辛い思いも
たくさんしてきた。
それでも生きててよかった。
これまで出会ったすべての方々に感謝した。
そして親に感謝した。


なぜ"たった一人のための楽曲ブランディング"が本音でやりたいことになったのか?その経緯は?

音楽のことやギターのことが散々うまくいかなかった僕がまさか自分が
"たった人のための楽曲提供"をするなんて思ってもなかった。。
全然思わなかった。

これはたまたまの偶然が積み重なってそうなった。
だから人生何が起きるかわからない。

その経緯は以下の通り

① たった一人のために楽曲を作った原体験があった。
② 芦田さんのギターレッスンの中で楽曲制作を習うようになった。
③ コーチングの対話の中から"たった一人のための楽曲提供”の欲が生まれた。

① たった一人のために楽曲を作った原体験があった。

実は数年前、ある知人女性のために曲を作ったことがあった。
"たった一人のための楽曲ブランディング"を自分のこれからの活動にしよう決断した
ずっと以前の話だった。

僕からその方に作らせてほしいとお願いしたわけでもなく頼まれたわけではなく
自分が本音でやりたいと思って勝手に作った。

その方の想いやその方を取り巻く環境のことを聞いてとても不憫に思ったり
とても切ない気持ちになったことを曲にしたいと自然に思った。 

それが"たった一人のための楽曲を制作した"原体験だった。

② 芦田さんのギターレッスンの中で楽曲制作を習うようになった。

2019.8(コロナ前)レッスン後の飲みの一コマ(左 芦田さん 右 僕)

芦田さんのレッスンは芦田さんの自宅でされてて、毎月その自宅に通った。今も通い続けてる。
レッスンを受け始めた時は、できることを増やしてなんでもできるギタリストになりたいって思ってたけど、いろんな経緯があって楽曲制作にコミットするようになった。

ちょっと前までYouTubeでvlogの発信をしてて(現在全て非公開)
編集した動画のバックに自分の作った音楽を使いたいと思ったから。

そこで音楽制作に必要なノウハウを学び出して現在に至るんだけど、そこで芦田さんの使ってる機材に衝撃を受ける。

マイクとDI(ダイレクトボックス)
要はギターの音を良い(感じ)の音で録音する機材たち。#説明が雑w
僕の自宅にある機材だとあまりいい音で録音できなかった。

マイクは本格的なものを買えば音質がめっちゃ良くなるのは想像しやすいかも。
今だったら音声の配信をiPhoneで直接録るのとマイクを使って録ったのとでは声の臨場感は全く違うのはわかる人にはわかると思う。

それと同じでギターの音もめちゃくちゃ良くなった。音の存在感、臨場感がハンパない。

芦田さんの作った作品を聞かせてもらった。めちゃくちゃいい音で本当に感動した。

そこで①で作った僕の曲を芦田さんの機材で録音させてもらった。

泣けるぐらい感動した。


で数日後、芦田さんの機材と全く同じものを秒で導入した。10万円くらいの出費だったけど買ってよかった。芦田さんは「もう買ったん??」てなったww


↑ DI
↑ マイク

それからどんどん楽曲制作にのめり込んでいった。

③ コーチングの対話の中から"たった一人のためのに楽曲を制作する”欲が生まれた。

コーチングを受け出したときはまだ②の楽曲制作はしておらずコーチングセッションを通して、コーチのはるかさんと共に自分の在りたい姿や、GOAL設定など模索していた。コーチングのプロセスは先に示した通り。

↑普段はzoomでのコーチングセッションだったけど昨年11月やっとはるかさんにお会いできた。
↑普段は自宅にてこんな感じでzoomでコーチングセッション

コーチには日々感じてることとか普段していることなどを共有していく中で
"たった一人のための楽曲提供"の話を自然と自分から少しずつするようになった。

②で①の楽曲をアレンジし直して心を込めて制作した。
②がきっかけで自宅にいい機材を導入してから本音で心からやりたいことをやっていた。ひたすら音楽制作と向き合った。

夢中だった。

10代の頃夢中で絵を描いたり、ギターをやり始めた頃のような感覚だった。

①で作った曲は特定の"たった一人"に向けて作った。その”たった一人"のイメージが「絵」として自分の脳内にあった。だからそのイメージに音を近づけていった。

とにかく夢中だった。

なので他のギタリストよりもすごいギターを弾こうとか、誰よりもいい曲を作ろうとかそんな気持ちは全くなくて、ただ自分が納得のいく曲に仕上げたいと思った。

人と比べるなんて考えなかった。
比べる必要がなかった。
だから
夢中で作った。

以前見た孫さんの動画を見たことを思い出した。孫さんの言われてることはこれか!って思った。

夢中で作った曲は生きている。

理由は"想い"を込めて作ったから。
だから誰かのために作った曲は必ずその人に届けたいと思った。

こんな経験から"たった一人のための楽曲"を他の方にも届けたいと思った。
コーチングセッションを重ねるたび強く思うようになった。

この曲が生まれたからこそ
また他の誰かのために曲を作るというエネルギーが生まれた。
曲を作ることでその方の"想い"や人生に寄り添いたいと思った。
そして
作るからにはその人に必ず届けたいと思った。
本音でやりたいし続けたい。
おそらく死ぬまでこの"たった一人のための楽曲ブランディング"という活動を自分の使命と思って全うする。

そしてこの本音でやりたい活動をどのように展開していくのか?

これまで、僕が今までどのような人生を歩んできたのか?そしてどのように本音でやりたいことに行き着いたのか?を書き綴ってきた。今で13000文字超えた。。
すごい文章量になったな。。

さて、じゃあこの本音でやりたいことをこれからどう展開していくのかというと、本音でやりたいことなので、それに全てのエネルギーと時間を費やしたい。
今の介護職も辞めてこの本音でやりたいことを自分の商品、サービスとして世に広げていきたいと思ってる。

現時点で実際にこのサービスを無償で3人の方に提供(R4.3月時点)、とても喜んで下さった。
具体的にどのように認知してもらえるか相談に乗ってくださる方も現れた。
このnoteを書いてみるきっかけも、もともとは

自分のやりたいことを商品として売り出すために書き出した。。。が

売ることを考えると筆が止まってしまった。

ココナラに投稿したりもした。
で気づいた。

ココナラでは

売り手は商品が高値で売れればいい
買い手は欲しいものが安値で手に入ればいい

そんな印象を受けた。

(実際はそうじゃないかもしれないけど直感でそう思ってしまった。)


やりとりに温度を全く感じなかった。

言い悪いじゃなくてプラットフォームがそういう性質上のものと思った。

僕のやりたいことは楽曲提供すること自体だけでなく

制作過程の中で

クライアントさんの話を聞き取ったりその方のSNSやnoteなど
から在り方、生き方を考察し
どんな人かを知りコミュニケーションを重ねつつ制作過程を共有する。

そしてその"想い"をたった一人のための楽曲"にして提供する。
そこに強みがあり、価値があるんじゃないかと思った。

尾原和啓さんが書かれた「プロセスエコノミー」と言う本を読んで自分がやろうとしていることがいっぱい書いてあった。

商品のクオリティだけに価値があるんじゃなくて商品が生まれるプロセスに価値があると。今の時代、それを人は求めそれに人は共感すると。

だから単にモノやサービスの売買を目的としたプラットフォームは僕の主戦場じゃないと判断した。

だからこのnoteの発信も

まずは自分がどんな人間で
どんな生き方をして
自分のやりたいことに行き着いたのか?
本音でやりたいことはなんなのか?

なぜそれをやりたいのか?

を書き記すことにした。

そしたら止まった筆が進みでした。

自分はこのnoteで自分のやりたいことや自分の活動に対する
"想い"
を届けようと思った。

R5.7月現在、"たった一人のための楽曲ブランディング"は17曲届けてきて、どんな方にサービスを届けたいのか?初期の頃よりも解像度が格段に上がった。
僕が楽曲を届けたいのは

使命を全うし世界をより良くするために生きてる人

だからその方の人生におけるテーマを音で表現する楽曲を制作してるんです。きっとその楽曲はその方のブランディングになり得る。だからサービス名を

たった一人のための楽曲提供→たった一人のための楽曲ブランディングに変更しました!



さいごに



最後にひとこと言わせてください。
どんな方にもきっと本音でやりたいことが見つかると思うし
ありたい姿で生きることができると思います。
年齢は関係ない。

なぜそう思うかというとそれは自分自身の体験から得たことだから。

なのでその体験を活かしつつ
"たった一人のための楽曲ブランディング"をし続けようと思います。
その方の人生に寄り添うような楽曲を
その方の想いを後押しするような楽曲を
提供し続けます。
そしてその楽曲たちを良い形で皆さんにシェアし続けます。
幸福度の高まる人生を歩む人が一人でも増えるよう活動していきます。
僕は人生のスタートラインにやっと立てました。
これから頑張ります。

貴重なお時間をいただき14000字を超える僕のnote
を最後まで読んでいただきありがとうございました。

                
                                                             たった一人のための楽曲クリエイターSHOTA


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