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昭和のパチンコ屋で働いた話


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パチンコ屋での働き始め

もう随分前のことになるが、私はパチンコ屋で働いたことがある
あの頃はバブル経済が破綻した直後で、世の中は混乱していた。
私はある事情で困窮していて、スポーツ新聞の求人広告を見て思わず飛び込んだ。

この業界に入ったのは、単に衣食住が整っていたからだ。

入店の決意

16歳の誕生日を迎えたばかりの私にとって、人生の新たなスタートを切る時期だった。
バブル崩壊の影響で、世の中はおかしなことだらけだった。例えば、履歴書は不要で、偽名や年齢詐称が当たり前だった。この時代のパチンコ屋には、台を叩くとパンチパーマの店員がやってきて威圧的な態度を取ったり、白いワイシャツの下に刺青を隠している人もいたという逸話がある。
まさにその時代に、右も左も分からぬ私は16歳の若者として飛び込んだ

初日と職場環境

求人を見てすぐに電話すると、「荷物を持ってお店に来てください。履歴書?なにそれ?食い物?
スラックスは持っているか?すぐ働いてもらうから」と言われた。誇張ではなく、まさにその通りだった。

店に着くと、ヒョロっとした主任から水色のポロシャツ2枚と偽名で作った名札を渡された。寮に案内されると、そこには六畳ほどの部屋があり、テレビ、小さなテーブル、灰皿一つ、クリーニングされた布団一式が整っていた。

「夜の7時から遅番が始まるから、それまでに食堂でメシを食べてね」と主任が言った。実にスピーディーな対応だった。食堂での食事は、寮母さんの手作りで、他のスタッフとも顔を合わせながら和やかな雰囲気だった。

職場の先輩

食堂で会った人たちとの再会。オバサンの化粧が濃く見えるが、カウンターで景品を渡す仕事をしているらしい。彼女の旦那さんは班長で、パチンコ店には夫婦で働く人が多いという。

主任が私を紹介すると、「今日から入った新人の加藤君だ。未経験だから教えてやってくれ」と言った。私は適当に挨拶をし、偽名の「加藤」を名乗った。実はこの名前は、ビーバップに出てくるキャラクターから取ったものだ。すべてが適当な私の新生活が始まった。

業務の流れと習慣

主任は私にタバコの種類を尋ねた。「CABINです」と答えると、今日の分を一箱渡してくれた。給料とは別に毎日1個タバコが支給されるのは、経済的に厳しい私にとってありがたかった。

仕事中はタバコを吸いながら業務をこなす。客が呼び出しランプを押すと、呼ばれたらすぐに対処する。
基本的には、呼ばれなければ端っこでタバコを吸っているだけでいい。
吸う→呼ばれる→タバコを置く→対処する→戻って吸う、というルーチンができてしまい、あっという間に1日で20本も吸ってしまう。

業務内容は3日もあれば覚えられたが、パチンコ屋で働くことは人間関係が非常に複雑だった。店員同士、客同士、さらには客と店員のトラブルが絶えず、毎日が修羅場と言っても過言ではない。

「訳あり」な仲間たち

職場には、元ヤクザや逃げてきた人たち、借金から逃げている人が多かった。誰も過去を追及しない。お互いに脛に傷を持つ似た者同士だからだ。求人広告には「心機一転しませんか?人生の再スタートをこちらで迎えませんか?」とあった。条件も良かったが、トラブルが多く、すぐに辞める人が多かった。

私が若かったこともあり、年上のスタッフに可愛がられた。「喉は乾いてないか?」とジュースを勧めてくれたり、仕事が終わった後に食事に連れて行ってくれたりした。しかし、他の従業員同士は仲が悪く、責任の擦り合いや妬みが絶えなかった。

職場のトラブル

多くのスタッフは他のパチンコ屋から流れてきた人たちで、ここが駄目でも次に行けばいいという考え方があった。トラブルが起こると、すぐに飛ぶ人が多かった。業界用語で言うところの「夜逃げ」だ。

職場でのケンカは些細なことから始まる。外から見ると、しょうもない内容だが、我慢できずに店内で殴り合ったり、一方的な暴力を振るってその場でクビになることもあった。

私がこの店に来てから1年余り、主任以外は全員が入れ替わっていた。16の私は、年上の人たちから先輩扱いされるのがなんとも不思議だった。

給料と生活

平社員でも給料はそれなりに潤っていたが、貯金は全くできなかった。
給料が出たら真っ先にパチンコに行くのが常だった。「俺も勝てるはずだ」と思っていたが、勝てるわけがなかった。博才もなかったのだ。
退職するまでその繰り返しで、貯金していればかなりの額になっただろう。

負けても衣食住は確保されていたため、「ま、いっか」という精神で日々を過ごしていた。この考え方が、後に私を自立できない腐った人間にしてしまったのだ。

その後の人生

パチンコ屋で8年、製造派遣で8年(15社を渡り歩いた)、ドカタ飯場で2年、全てが寮暮らしだった。自分で部屋を借りることもできず、自堕落な生活を続けることになってしまった。

この経験を通じて、パチンコ業界の厳しさや人間関係の複雑さ、そして自分自身の弱さを痛感した。今となっては、あの頃の経験がどう影響を与えたのかを振り返ることができる。

当時はただ流されるままに生きていたが、今ではそれを糧にしている。自分の過去を理解し、これからの人生をどう生きるべきかを考える材料にしている。人生の教訓として、あのパチンコ屋での経験は決して無駄ではなかった。

行ったこと無い大都会東京 帝国ホテルのラウンジにて珈琲を頂く為の旅費と珈琲代にします