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「差別ダメ」「平等」「誰一人取り残さない」 そこには落とし穴がある
「差別のない社会」
「平等な社会」
「誰一人取り残さない」
「持続可能な世界」
「武器のない平和な世界」
理想ではあるが、これらを現実とするのはほぼ不可能である。
苦しいこともあるので、それを乗り越える強さと知恵を持つ(持たせてやる)ほうが現実的であろう。
人は動物である。
差別的思想や他者を貶めてでも自分が上位に立とうとするのは生き物としての本能であり、完全に消すことはできない。
もちろん争ってばかりでは安全に暮らせなくなるゆえ、一定の相互扶助(助け合う)の精神は必要である。
ちなみに人は群れで生きる生き物なので、助け合うことも実は本能としてある。
人間以外の生き物にも実は助け合って生きているものはある。
「差別はダメ」「平等」など、必要な理念ではあるのだが、過剰になると社会は歪む。
「少数派はかわいそう」だけで突き進んでしまうと、逆に多数派を虐げることになる。これを「逆差別」と言ったりする。
「あの人たちは差別されている!」
「少数派は生きづらくてかわいそう」
なんていう声が大きくなると、政治家は予算をつける。
無下にして「見捨てるのか!」なんて騒がれても選挙にマイナスだし、ポンと予算をつけておけば票にもなる。
つまり利権が発生するのだ。
かつて共産主義が世界に拡散された。
共産主義は財産をすべて中央に集約し、平等に分配することで貧富の差をなくすというもので、かつて「ユートピア」のように思っていた人も多かった。
しかし実際は、権限が一部に集中するので、財産を分配する権限を持つ者と、その権力者に媚びる者に富が集中し、貧富の差は解消されず、努力して財産を築いてもすべて吸い上げられるので、社会が成長せず、没落する。
また、権力者が絶対的な権限を持つので、みなその権限を欲しがり、激しい権力闘争をする。
また、権力者に嫌われれば抹殺されかねないので、庶民を足蹴にして権力者に媚びる。
「貧富の差をなくす」「平等にする」
聞こえは良いが、その先にあったのは抑圧され、活気のない、安全に暮らせない社会であった。
最近でもよく言われている。
「格差が~」
「無意識な差別はやめるんだ~」
「誰一人取り残さない~」
「包摂~」
教育現場や公的機関でも啓発していたりする。
たとえば「性の多様性」は男女の境を曖昧にし、「自分が何者であるか」というアイデンティティを失わせ、生き方に迷ってしまうだろう。
アメリカでは自分の性別に疑問を持ち、性転換をしたが、のちに「自分は転換前の性別だ」と気づいたが手術後であり、取り返しのつかなくなった人がおり、書籍になっている。
生き物は基本、オスとメスでペアになる。
同性愛は他の動物でもあり、おかしなことではない。
だが、基本はオスとメスでペアになる。
基本が変わることはない。
無理にねじ曲げようとすればおかしくなるだろう。
また、「差別がある」「かつてひどいことをしていた」なんて言い、怒りや不公平感を煽るものも危険である。
怒りや不平不満を煽るのはプロパガンダ(政治的宣伝)の手法のひとつである。
人の感情の生き物であり、感情を否定はできないが、利用されやすいものであることは知っておいたほうが良い。
なぜ怒りや不平不満を煽るのか、それは社会を混乱させるためである。
ある社会が混乱することで喜ぶ集団もあるのだ。
たとえばアメリカは分断が深刻だと言われるが、ロシア、中国、イラン等がSNS等を使って分断を煽る工作をしている。
日本ではそこまで激しくないが、怪しいSNSアカウントはいくつもあり、先日は中国人が組織的に偽ニュースサイトを作っていたという報道もあった。
それまでの常識を否定することには慎重であるべきだ。
社会は法律ではない「常識」があることで円滑に回っている部分が大きい。
「常識」が失われ、秩序が乱れると厳しいルールを定める必要に迫られる。
すると、自由は阻害される。
これが繰り返されれば、自由度の低い閉塞した社会となってしまう。
たとえば「無意識な差別(マイクロアグレッション)」など、何も言えない社会になりかねない。
何が「差別的」に当たるかわからず、他者とコミュニケーションを取るのもためらってしまい、互いに距離を置き離れていく寂しい社会になってしまうだろう。
だいたいだが、出所を調べると学者であることが多い。
必ずしも左派ではないのだが、左翼が「これは使える」と飛びついて騒ぎ出すパターンが多いように思える。
これに対抗するにはこちらも理論武装が必要である。
第一に教育を守る必要があるが、ここに切り込むのは簡単ではない。
SNSやネット動画の影響力も上がっているので、まずは警鐘を鳴らすことだろう。
かなり以前からあるのだが、放置すると分断工作にも利用される可能性があり、厄介である。
また、常識が崩れ、社会が荒れ、次世代が苦しむことになる。
このようなものは宗教的な求心力を持っており、対抗するのは結構大変なのである。