Netflix最新作「全裸監督」に見る叫び - 日本よ、今こそ裸になる時が来た -
8月8日よりNetflixで配信が始まった「全裸監督」を一昨日一気見した。
ストーリーやキャストの詳細は他参照だが、この作品は日本のコンテンツの地平を今後変えうるのではないか、と正直感じた所がある。タイトルは少し言い過ぎかも知れないが、この作品だからこそ多少は過激でも良いかな、というのと、改めてこの作品が発信しうるメッセージはこういうことなのかなと本稿を書きながら改めて感じたためかの様に冠してみた。
まずはじめに主要キャストが出演した宣伝動画を貼っておく。ここで言われている様に、テーマがテーマだけに、こうした作品が苦手な人は見ないことをおすすめする、まじで。
以下の流れとなるが、私見を列記してみたい。
〜本稿の流れ〜
①Netflixの持つ強み(1)〜(4)
②日本のコンテンツ・メディアへのインパクト
③この作品の持つ現代へのメッセージ
それでは以下。
①日本のメディアと比較した際のNetflixの強み
改めてとなるが、以下本作に参照して簡単に。
1)圧倒的なリーチ
Netflixの現在の配信先は、計190カ国、視聴者数は1.5億人以上に及ぶ。(プラットフォームとしてのサイズではSNS系のFacebookや、中国基盤のテンセント動画など、比肩されうるサービスももちろん存在する)世界のこれだけの国や地域にコンテンツを届けることができるという圧倒的な強みは、日本のメディアではまずできないことだ。
2)尖ったテーマ
まずもって”性風俗”産業を真っ向から描いた今作は地上波では決して流せるような作品ではないことは一目瞭然である。そこをこれだけのリーチのあるメディアでありながら、流してしまうというのがNetflix故の強みだ。実際見てみると、本当にこれがOK出てしまうのか、、とそれでも驚いてしまうほどだ。そこには、”性”というテーマが、紛れもなく全人類普遍だからこそ(日本だけで見ればニッチでも)世界で見たときのターゲットの広さ、”AV大国としての日本の性産業”、”日本的ヤクザカルチャー”、”80年代の昭和POPカルチャー”が日本以外の海外でより一層注目され、耳目を引きつけるテーマであることが自覚的に意図されてのテーマ設定であることは間違いないだろう。その上で”性産業”というテーマをこれまでの男性目線で語られるものでなく黒木香という登場人物を通じて”女性視点”も強く意識し、ありのままの人間としての姿や葛藤を描こうとしているところも強く感じられた。
当然ながらこうした尖った取り組みにはクリエイター自身も惹きつけられているようだ。大河ドラマ「西郷どん」(その前はかなり”全裸”に近い「変態仮面」で)活躍した鈴木亮平さんもそんな一人の様だし、こうした反応は一例に過ぎないだろう。
3)豊富な制作費
そうした中で、日本のコンテンツとして、過去には「火花」や「テラスハウス」などが話題になっているが、本作は本格的なドラマコンテンツとして、主演に山田孝之を迎え、邦画一本の映画に主役・準主役が出るようなキャストが脇を固めている。実際に見てみると各キャストの演技に引き込まれる。村西とおりを風貌から全て憑依した様に感じさせる山田孝之の圧巻の演技。AV女優黒木香を体当たりで演じた森田望智、鬼気迫る風格を漂わせる國村隼、小雪、リリー・フランキー、そしてピエール瀧。(特に國村隼さんが個人的にはずば抜けていた様に感じた)
これだけのキャストを揃えるだけでなく、海外ロケ、そして村西が絶叫する空中ファックでは実際に演者が乗るヘリを横からセスナ機で空撮しているというのだから、制作費も相当にかかっていることが予想される。
4)クオリティの高い吹き替え技術
これは完全に私見となるが、吹き替えのクオリティは非常に高いと感じた。英語と中国語で1話以上ずつ見てみたが、役者の雰囲気から音声のイントネーションまで外国語の表現においても再現性高く演じられている様に思われた。実際今作は、28カ国語の字幕と12カ国語の吹き替えを準備している様だ。
②日本のコンテンツ・メディアへのインパクト
こうしたアドバンテージがある中で、今作特にこれからの日本のメディア・コンテンツ業界へのインパクトを考えると、中でも(4)のクオリティの高い吹き替え技術による俳優を始めとした「タレント(キャスト)」のマインドセットへの影響が大きいのではないだろうかと思う。(もちろん、1〜3を基盤としつつ、ではあるのだが)
これまでのタレントの海外進出の意味合いにおいては、前提としてその国の言語を習得することが前提認識としていた所が大きかった様に感じるが(とりわけ音楽ではなく”演技”を要求されるドラマや映画の様なコンテンツにおいては)、今回のように、配信環境だけでなく、言語ローカライズ環境までがプラットフォーム側で整備されている場合、もはや決して海外の言語を必ずしも習得することは必然ではなくなったといえるかもしれない。もちろんこれは、Netfix上でのコンテンツに出演することに限られるし(現状ここまでの体制が備わったプラットフォームは他にないと予測するし)、海外現地ローカルの作品に出演するとなった場合には、文字通りその国の言語の習得はまだある程度必要となってくるだろう。ただこの分野では、今後テクノロジーの発達とともに、同時通訳的な技術進歩と、音声カスタマイズ技術(ある特定の人間の声色を踏まえた音声がテキストを読む技術 ※と勝手に名付けました)が発達していけば、いずれかの段階で現地ローカルの人達とのコミュニケーションも現地の言語習得を必要とせずスマホや同一もしくは更に小型のデバイスを通じてスムーズにやりとりできる時代が来るのではないかと予想される。(もちろんそうした会話が、現地ローカル言語を通じたやりとりと比べ、差異がどこまでのものになるかは断定できないが)
こうなった時、より多くの国内のタレントが、Netflixを始めとしたグローバルなプラットフォームへも進出を果たしていくのは、必然の流れのように感じるし、そうしたコンテンツ(の中身となるタレント・キャスト)自体の外への意識変化は、メディアの変化も一層余儀なくさせて行くのではないだろうか。(メディアよりもコンテンツのほうが流動性は高いから仕方がないことのようにも思われる。ただ具体的にどこまで変化していくのかはなんとも言えないが。)
③この作品の持つ現代へのメッセージ
そうした外部環境の変化を享受し、中にいながらも外へと目を向け行動をしていかなかればならないのだと、この作品は改めて気が付かせてくれたように思う。(まあもちろん外に向けて色々動いている人がいるのは百も承知ではあるしこれは自戒も込めて)
実質、この作品への出演にいち早く快諾し、本作のエンジンとなっている山田孝之氏は「海外へ出て行かなくても、本当に面白い作品をつくれば、おのずと向こうから来る」と話されている様なのだが、個人的には本作への出演は決して内に留まっているというだけではないと思う。中にいながらも外へと目を向け行動している「Stay Local、Act Global」なのではないかと。(もちろんこれは、物理的に国外に出ていかずとも享受できる様々なサービスが技術革新により備わってきたからこそではあるし、とはいえ外に物理的に出ることによって得られるメリットも大きいのは確かなので、そこは金銭的・時間的な移動コストとのトレードオフで考えるべきと思う)演技にとどまらず様々なプロジェクトをプロデュースしていることからも、かつこうした作品にも先陣を切って取り組んでいることからも、そうした覚悟をもって生きているのだな、と思わされた。
これまでの成果やプライドにすがるのでなく、それこそ裸になり、世界と向き合っていく時が来たのだと、世界だけでなく、日本という国に対しても、そうしたメッセージを本作は持ちうるのではないか。山田孝之氏初め、本作への出演を選択した俳優陣はきっと、こうした思いをこの作品にぶつけたのではないだろうか。(それこそ本作への自らの出演自体にこうしたメッセージを込めていたのではないだろうか。)
この作品が今世に出てきた意味をそうした所に感じたのは、きっと私だけではないのではないないか、と感じずにはいられない。