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【小説】衣南かのん『シティ・ストレイドッグス』後編

 夜のとばりが下りきった中、小さな街灯だけを目印にするようにリアは真っすぐ家への道を急ぐ。
 ニコがやってきてから、1ヶ月。その間に少しだけ、リアの生活は変わった。
 帰り道には毎日深夜までやっているスーパーに寄っていくつか買い物をしていくようになったし、その中には肉や、果物や……ひとりのままだったら買わなかったようなものが日に日に増えていった。
 ニコは食べることがとても好きらしく、おいしいものを前にすると途端に目を輝かせる。それに気づいてからは、つい、今までは見なかったような食品のコーナーにも足を伸ばすようになった。
 それから――。

「ただいま、ニコ」
 窓から明かりがこぼれる家を見て、少しだけほっとする。
 玄関を入るとすぐにニコがやってきて、嬉しそうにリアを出迎えた。この2週間で、ニコはずいぶん表情が豊かになったような気がする。元から、顔に出るコではあったけれど。
 家の中で誰かと話をすることなんてあまりにも久しぶりだったから、最初はリアも戸惑った。返ってこないとわかっている言葉を向けることに、少し躊躇いもあった。
 けれど不慣れなリアがこぼす独り言のような言葉も全部拾って、ニコはその表情で表わしてくれる。
 リアが楽しい話をするときは笑い、仕事であった少し悲しい話をするときはしょぼんと肩を落とす。
 自分に起こる出来事や自分の中に生まれる感情を共有することには長いこと興味のなかったリアだけど、ニコの反応は新鮮で、楽しくて、一緒にいる時間は次第に増えていった。
「今日はラムが安かったの。明日の朝、一緒に食べよう」
 少しだけくだけた自分の口調にも気づいていて、こんな風に誰かと気軽な話をするなんて何年ぶりかしら、とその度リアは不思議な気持ちになる。
 ニコはといえば、スーパー袋の中のラム肉を嬉しそうに眺めていた。健康のために時にはサーモンや白身魚を買ってくることもあるけれど、ニコは肉を買ってきたときのほうが圧倒的に喜ぶ。
 そんなニコを見て、リアもつい、笑ってしまうのだ。

 翌朝は約束通り焼いたラムといつも通りのサラダを食べた。ミニキッチンでは大したものは作れないのに、ニコはいつだって嬉しそうに食事を楽しんでいる。
 食事を終えてリアが立ち上がると、ニコもぴくりと反応する。
「……今日も来る?」
 尋ねると、答えの代わりにニコはリアの後ろをついてきた。
 部屋に入ってピアノを用意するリアの横で、ニコは心地よさそうに座ってその時が来るのを待っている。
 最初は部屋に入れるつもりなんてなかったのに、気づけば自然とニコの隣で歌うのが日常になっていた。
 きっかけは、部屋の扉が少しだけ開いていたこと。
 ピアノを弾きながら歌うリアの声を聴きつけて、そっとニコがやってきたのだ。
 歌に興味があるのかと聞けば戸惑うような表情を見せていたけれど、聴いていくかと尋ねればそうしたいような素振りを見せたので、そのまま部屋に招き入れるようになってそれが当たり前になった。
 練習の時に誰かがいることなんて絶対に受け入れられなかったはずなのに、ニコは不思議とその存在感を感じさせない。
 それでいて、リアが今日はここまでと思った瞬間には小さな反応を見せる。口に出すわけでもないのにどうして気づくのか不思議で仕方ないけれど、たぶんニコは、とても人の機微に敏いのだと思う。
 だからニコの前で歌うのは、リアにとってほんの少し楽しみな時間にもなっていた。


 時々、どんなに歌っても人に届かない日がある。
 リアはアーティストではないし、仕事場ではライブをしているわけでもない。リアの仕事はあくまでもBGM代わりに雰囲気のいい歌を提供することで、歌に興味のない客だって当然いる。むしろ、半分はそういう客だと言ってもいい。
 そして、そういう客が重なる夜だって当然ある。誰もリアの歌を必要としない夜。
 リアだって仕事なので、そういう日は割り切って歌い続ける。
 けれどその日はそれだけじゃなく、リアの歌を求めないのにリアを求める客もいた。いつもは流せる小さなことが、いつものようにうまく流せなくて。
 ニコがここにいればいいのに、と思った。ニコだったら、リアの歌を一途に聴いてくれるから。
 そう思った瞬間、自分が求めてはいけないものをニコに求めてしまっている気がして――。
 自分の中のたくさんのものを流してしまいたくて、リアはその日、普段は飲まない量の酒を飲んだ。

 ふわふわと、目の前が霞む。
 そのせいか、グラスに注がれた水が部屋の照明を受けてやけにキラキラとして見えた。
 ほんの少し窓の向こうが明るくて、朝が近づいていることがわかる。重い頭を片手で支えるようにしながら目をまたたかせると、心配そうなニコの表情が目に入った。
 そっか、帰ってきたんだな。
 ぼんやりと思いながら、小さく笑いがこぼれる。ニコの顔を見た瞬間、安心するだなんて。
「心配かけちゃった?」
 まだ酒が残ってるせいか、それとも意地になって歌い続けていたからだろうか。
 少し掠れた声を心配するように、ニコがそっと温かな手で触れてくれる。
「大丈夫……こういうの、初めてじゃないの」
 割り切っているつもりで割り切れていないことが、リアにはたくさんある。そんな自分に気づく度に、どうして全部捨てられないのかしらとリアの胸には重いものが積もっていった。
 この家も、その一つ。
「私ね……ちょっとだけ、お嬢様なんだ……」
 ぽつりと、独り言のような言葉に反応して、リアに添えられたニコの温かな手が小さく動く。
「歌いたくて、ずっと歌っていたくて、家を出て……ただ歌えていればいい、音楽が出来ていればいいって、そう思っていたの」
「この家はね、そんな私への両親からの手切れ金……ってとこ」
「好きにすればいい、勝手にすればいい、でも家の名前は名乗るなって言われたの。だけど、娘がどこかで野垂れ死ぬようなことはさすがに体面が悪いと思ったんでしょうね」
 誰にも話したことのない言葉が、ぽつり、ぽつりと零れていく。
 一人で暮らすには大きすぎる家を与えた両親が、自分のことを周囲になんと話しているかは知っている。あの子は少し、体が弱くて。古くなっている家の管理人を任せているの。
 全部が嘘で、この家は名義上とっくにリアのものになっている。
 実家からはるか遠く離れたこの場所では、その真実を確かめるような人間もいない。シェアハウスとして借り手をつければ金銭には困らないだろうと、両親はリアを家から切り離すことを選んだ。
 リアに音楽を与えたのは両親だった。
子どもの頃から習い事の一つとして触れていたピアノに夢中になって、その道で生きていきたいと強く願ったリアを、けれど彼らは許してはくれなかった。
 二度と家に近づかないこと。同じ名前を名乗らないこと。関係ない、他人として生きていくこと。それがリアが、リアとして生きていくためにした約束だった。
 自分のものである家は、手放そうと思えば簡単に手放せる。なのにそれをしないのは、まだ少し、両親への希望が残っているからなのか。それとも、自分が甘いだけなのか。
 時々、リアはわからなくなる。
「歌えていればいいはずだったのに……なんで、多くを望んでしまうのかしら」

 私の音楽を、歌を、否定しないでほしかった。
 それは私を作っているものだから。
 ――あなた達が、くれたものだったから。


 掠れていた声はハーブウォーターと発声練習で整えて、まだ少し重い頭を抱えながらその日もリアはステージに立った。
 週の始まりだからか客はまばらで、今日もリアの歌を熱心に聴いている客はいない。
 けれどリアの頭の中は珍しく歌以外のことでいっぱいだった。
 (どうして、あんな話をしちゃったのかしら……)
 ニコに話したことはすべて、正真正銘リアがこの数年間誰にも話してこなかったことだった。この数年間だけじゃない、一生誰かに言うつもりはなかった。
 音楽を選ぶかわりに、リアはひとりになった。
 なんの悔いも未練もないと言ったら嘘にはなるけれど……せめてそのことに、どれだけ無理やりでも胸は張っていたかった。
 だからあんな弱音は、決して誰にも言わないつもりだったのに。
(ニコといると……弱くなる)
 温かさも、優しさも、誰かと分かち合う幸せもしばらくリアの日常にはないものだった。
 手放した方がいいのだろうか、と少しだけ考える。けれどもう、それには遅いこともわかっていた。

 ――その時。

 静かに店の扉が開き、新しい客がまた一人やってくる。
 その客はまっすぐに歩いて、リアの声がもっとも届く席を選んだ。
(……なんで)
 
 そこにいたのは、ニコだった。
 高いものではなさそうだけれど清潔感のあるシャツと、スラックス。
 ふわふわの茶色の髪は、今日は少しだけセットされていた。
 ニコだけど、そこにいるのはニコじゃない。
 いつものようにリアの歌を一途に聴いて、拍手をくれて。
 
 リアは、あの優しく温かな時間に終わりが来ていることを悟った。


 窓の明かりに、今日は別の意味で安心する。
 あの後、ニコはいくつかの歌を聴いて静かに席を立ち、店を出ていった。
 すぐにでも追いかけたい気持ちを仕事だからと堪えて、予定していた残りの歌を終えるなりリアは店を飛び出した。
 もしかしたら、もうニコはいないかもしれないと思ってーーけれどそれは、どうやら杞憂に過ぎたらしい。
 慣れた扉を開けるだけなのに、妙に緊張した。
 この扉の先に何が待っているのか、リアにはまだ、想像もつかなかった。

「おかえり、リアさん」
 出迎えたのは、初めて聞くニコの声だった。
 少し低く、穏やかでやわらかな響きの声。驚くリアに、ニコは続ける。
「急にお店に行っちゃって、ごめんね」
「ニコ、あなた、声……」
「ああ……うん」
 少し気まずそうに視線をさまよわせて、ニコは笑う。
 僅かに眉を下げて、困ったように。
「‥‥本当は、少し前に喋れるようになっていたんだ」


 あの雨の日、リアが家へと招いたのは「犬」だった。
 『ぼくは犬です。喋ることはできません』
 濡れたスケッチブックに書かれていたのは、その言葉だけ。半信半疑に「犬……?」と聞き返したリアに、ニコは黙ってスケッチブックをもう一度示した。
 自分が犬だと、主張するように。

「喋ることができなくなっていたのは、本当なんだけどね」
 色々あったんだ、と、ニコはそれだけ語った。色々あって、いっそ犬になってしまいたかったのだと。
 あのスケッチブックは戯れに書いたもので、まさかそれを見て本気で自分を拾うような人間が現れるなんて、到底思わなかったと。
「少し雨宿りのつもりだったんだけど、思った以上に雨がひどかったから途方に暮れて。そうしたら、リアさんが帰ってきた」
「この家の人だっていうし僕を怪しんでいたし、まずい、通報されちゃうかもって思ったのに……リアさん、あっさり入れてくれちゃうんだもの」
「何か騙そうとしてるのかなって、僕の方が警戒しちゃったよ」
 本当は逆のはずなのにね、とニコは笑う。くるくると変わる表情は、言葉を発するようになっても変わらない。
 ニコはニコのままなのだと、少しだけ安堵した。
「どうして、喋れることを黙っていたの?」
「リアさんは、『犬』を求めているみたいだったから」
 たしかにリアにとって、ニコとの距離感はとても心地いいものだった。人間同士としての気を遣わずに、一緒に生きる生き物同士として接することができるような。
 不器用さも、曖昧さも、許せるような。
「でも……もしかして、違うのかもしれないと思ったんだ」
「リアさんが求めているのは犬じゃなくて……自分を理解してくれる存在なのかなって」
 そっと、伸びてきた手が遠慮がちにリアの手に触れる。
 温もりは昨日と変わらないはずなのに、妙なくすぐったさで戸惑った。
「それに気づいたら……人間に、なりたくなった」
 あんなに犬になりたかったはずなのにね、と茶化すニコの声は少しだけ泣きそうで、かわりにリアの方が泣いてしまいそうだった。
「……ねえ、リアさん。雨はもう止んでいるし、僕は犬じゃないけど。もう少しだけ、あなたの側にいてもいいかな」
「一緒にご飯を食べたり、ピアノや歌を聴いたり……それだけでもいいんだ。犬の方がいいなら、もう一回戻ったっていい……」
「……いい」
 掠れる声で、リアはようやくそれだけを答える。
「できれば、ずっとがいい……」
 何かを選ぶことも、手にすることも苦手だった。
 家族でさえ失った自分には、何かを持ち続けることなんてできる気がしなくて。
 失うくらいなら、最初から持ちたくなくて。

 だけど、ニコのことは選びたいと思う。
 それはリアが、この家に来て初めてーーほしいと、思ったものだった。


 朝の日差しが差し込む部屋に、ふわりと香ばしい香りが漂ってくる。
 すっきりと目を覚ましてキッチンへ向かうと、カウンターには二人分の朝食が並んでいた。
「おはよう、リアさん」
「おはよう、ニコ」

 人間になったーー元々人間ではあるのだけど、感覚としてーーニコとの生活は、リアが思っていたよりもずっと順調で、穏やかだった。
 ニコは元々料理を仕事にしていたらしく、朝昼の食事を担当してくれている。おかげで、リアの部屋の冷蔵庫はいつも食材が並ぶようになった。
 夜はお互いに別々だけど、休みが合う時には一緒に食べる。ニコは最近、リアの職場の近くのダイニングで働き始めた。腕は確からしく、店の評判は上がっているらしい。
 ニコ、という名前はリアが付けたものだったので本当の名前で呼ぼうとしたけれど、「リアさんに呼ばれるのはニコがいい」と言われてそのままになってしまっている。
 一方でリアは、まだ自分が捨てた名前をきちんと正確には伝えられずにいた。
 ニコになら伝えても大丈夫と思いつつ……なかなか、踏ん切りがつかないのだ。
「デザートもあるからね」
 隣に座ったニコが食事を前に伝えてくれる。
 ニコの作る豪華な食事を載せるにはカウンターでは小さくて、リアの食べるペースに合わせておかずやスープ、デザートなんかを少しずつ出してくれることもあった。まるで、コース料理みたいに。
「‥‥ダイニングテーブルがほしいな」
 ふと、そんな言葉が溢れる。目を瞬かせるニコの表情に、リアも思わず自分の口元をおさえた。
 自分がこの部屋に、物を増やすことを望むなんて。
 だけどそんなリアの戸惑いごと包み込むように微笑んで、ニコは「いいね」と同意する。
「今度の休み、見に行こうか。丸いやつがいいな、2人用より少し大きいの」
 ニコの言葉に少しホッとしながら頷く。
 まだ買い物は苦手だ。物を選ぶことも。だけどニコはそんなリアに気づいて、少しだけ、選ぶことのヒントをくれる。
 何よりふたりで一緒に何かを選ぶのは、楽しくも思えた。

 一人には大きすぎる家は、二人で暮らしても尚広い。
 でも少しずつ、この空間が好きなもので埋まっていく想像ができるようになった。
 もちろん、その中心にはニコがいる。


 あの日拾われたのはニコじゃなくて私の方なのかもしれないわ、と、リアは思ってちょっと笑った。

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