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【全文無料】透『映らない暮らし』

今月はゲスト作家として透さんが登場です。
高級マンションのチラシを眺めながら考える。
『快適な暮らし』って……?

 何事も良すぎるに越したことはない。
 けれど、良すぎなくてもいい、ということもある。
 『快適な暮らし』というキャッチコピーをさまざまな広告媒体で目にする。街を歩く中で、電車の中で、テレビ画面の中で。それを目にする頻度が多いということは、そのキャッチコピーを人々が求めているということでもある。そりゃあ、日々の暮らしは快適な方がいいに決まっている。衣食住は僕たちの生命の根源と言っても良い。『快適な暮らし』を実現させるために僕たちは生きているといっても過言ではないのだ。
 
 僕は賃貸アパートの郵便受けに入っていた高級マンションのチラシを眺めていた。
 ペラペラの薄い紙切れは風に当たるとすぐにへたってしまう。こんなアパートの住民に何の勝算があってチラシを入れたのだろうか。『快適な暮らしを始めよう』とチラシが訴えかけてきて、その紙の薄さに見合わない写真の絢爛さに目がチカチカする。どうやら近くにマンションが建つらしい。アパートの周りを見渡すと、たしかに明後日の方向に空き地があって看板が立っている。その隣にはついこの間完成したばかりのマンションが、そのまた隣には昨年に完成したマンションが建っている。そこには幸せそうな灯りが漏れていて、中を見ずとも笑顔に満ち溢れた暮らしが伝わってくる。
 僕はその様子を背にアパートの鍵を開け、真っ暗な部屋の灯りを点ける。六畳半のアパートは築三十年になるが、八年ほど前に内装をリフォームしたこともあって古めかしさはそれほどではない。A型で几帳面な性格の僕は、物が多い割に整理はきちんとできているし、多少の埃やゴミは落ちているが最低限の清潔感は保っているつもりだ。足の踏み場がないくらい汚いわけでも、人から褒められるほどオシャレなわけでもない。『それなり』の暮らしを、僕なりに四年間続けている。
 マンションのチラシをニトリで購入したテーブルに置く。そのチラシは自分とは程遠い存在と思っていた。夢のまた夢。それでも、同級生にはマンションを購入した人はもちろん、一軒家を購入した人も、自家用車を購入した人も、チワワを購入した人も、ドラム式洗濯機を購入した人も、大型テレビを購入した人もいる。それぞれのインスタのストーリーに流れていた映像を思い出しながら、僕はドンキホーテで購入したテレビのチャンネルを点ける。
 バラエティやニュースをいくつかザッピングしていると、巷で話題になっているドラマがやっていた。一話目を見逃しているので内容がわからないのだが、他に観たいチャンネルもなくとりあえずそのままにした。丁度のタイミングでCMに入ったので、買っておいたコンビニ弁当をメルカリで購入した電子レンジで温める。一分半の時間が長く感じて、チンの音が大きく聞こえる。テーブルに戻るとCMも終わっていて、既にドラマが始まっていた。
そこには、主人公の男性が朝起きるシーンが映し出されている。主人公の心の声がナレーションになって、僕の小さな部屋に響き渡る。

 例えば、朝起きて、陽射しが当たった方が気持ちが良い。『日当たり』という一つの条件がほんの僅かでも暮らしの質を上げ、カーテンから漏れる眩しい光で目が覚める。
 朝食はしっかり食べた方が健康に良い。トースト、目玉焼き、ウインナー、サラダ、ヨーグルト。自分で挽いた豆で淹れたコーヒーは香りから上質な雰囲気を醸し出し、一日の始まりを優雅にしてくれるだろう。
 家事についても、最近は電化製品の発展で暮らしをどんどん良くしてくれる。掃除機は自動で部屋中を隅々まで綺麗にしてくれ、洗濯機は乾燥までしてくれ、声に出して指示すれば電気も消えるしテレビも点けてくれる。
テレワークが増え、自宅での時間が増えたことも暮らしに大きく起因する。仕事の効率を高めるため、より良い仕事環境を整えるために、家具を新調した人も少なくない。職場と自宅の垣根がなくなって、毎日の暮らしと仕事が直結する時代になった。
 趣味の時間も生活をより豊かにする。クラシック音楽を聴きながら本を読む。ときにはPS5でゲームもするし、ときにはプロジェクターで映画も観る。ペットのトイ・プードルと遊ぶ時間も至高のひとときだ。
 一日が終わろうとしている。寝心地の良いベッドに入って睡眠の質を高める。枕の硬さや照明の明度、音楽、香り。全てを自分の好みに合わせて眠りにつくことで安心が保証される。

 今日も僕は『快適な暮らし』に包まれて生きている。
 明日も、明後日も、この毎日はずっと続いていく。

 キャッチコピーのようなナレーションが終わり、またドラマはCMに突入する。CMではハウスメーカーが快適な暮らしを、家電メーカーが快適な暮らしを、家具メーカーが快適な暮らしを喧伝する。ここまでの映像の全てが、映像として見ていられるような、映像として見せることを前提としたような暮らしぶりだ。ドラマに映し出された暮らしの一部始終を振り返って、『快適な暮らし』のキャッチコピーをもう一度考えてみる。子供の頃に憧れたような、一人暮らしを始めた頃に目指したような、結婚するときに二人で描くような、そんな暮らしの数々。
 僕は部屋を見回して、そんな空想の暮らしと現実を見比べる。思い描いた世界と目の前の景色が重なることはなく、テレビから流れてきた笑い声で現実に引き戻される。ドラマはいつの間にか終わっていて、しがない芸人を密着するドキュメンタリー番組が始まっていた。最近よく目にするピン芸人が高円寺にある自宅アパートを案内している。汚らしいボロアパートの中に入っていき、あちこちに散乱しているゴミを背景にその暮らしぶりを紹介している。

 間取りは四畳半で、家賃は三万八千円です。風呂とトイレは共同、他のアパートの住人も漫画家とか歌手とかマジシャンとか、夢を追いかけてる人ばかりなんです。築五十五年なので壁がどんどん薄くなってるらしくて、隣の部屋のアラームで起きることは日常茶飯事。この前は僕の出演した番組を隣の部屋の人が見ててくれてたんですけど、全く笑ってなくて一人で落ち込んでました。
 冷蔵庫の中身ですか? いいですけど、何も入ってないですよ。あ、マヨネーズと納豆と水だけですね。あと、冷凍庫にうどん。食事は基本的に劇場で貰う弁当か先輩の芸人さんに奢ってもらうかアルバイトの賄いなので、基本自炊はしません。電子レンジも持ってないですし、この冷蔵庫も先輩が引っ越すときに貰ったものです。床に落ちてるお菓子は多分ウチで飲み会をしたときのものだと思います。片付けるのめんどくさくて、そのままです。えっと、これは、あ、賞味期限が三年前になってますね。そんな前のだったんだ。
 お菓子のカスも汚いですね。そろそろ掃除機かけないとなあ。一回掃除機が動かなくなって、それ以来かけてないんですよ。壊れてたらどうしよう。また誰か先輩に貰えないか交渉してみます。新品? そんなことに使えるお金ないですね。贅沢はできないです。
 洋服も基本は脱ぎっぱなしで、畳むのも大の苦手なんです。二、三週間に一回だけコインランドリーで洗濯して、そのまま放りっぱなしにしちゃうんですよ。まあ、どうせ着るんだし、床にあった方が取りやすいからいいだろうって。何気に効率的な暮らしをしてるんです。
 自分の中では快適な暮らしを送っているつもりなんですけどね。特に不自由もなく、毎日を生きられている。広くて大きな部屋だと動くのに疲れちゃうじゃないですか。それだったらこれくらい狭い部屋で、全部が手の届く距離にあった方が僕としては便利ですね。

 自分はどんな高級な暮らしよりも、この暮らしが快適です。
 明日も、明後日も、どんなに売れたとしても、この毎日がずっと続いてほしいですね。

 僕はチャンネルを消した。室内は急に静かになり、網戸を通して聞こえてくる微かな虫の音が耳をそよぐ。電車が加速する音が、カップルの上機嫌な声が、自転車の止まる音が、静寂の隙間を少しずつ埋めていく。隣の部屋からはガタガタと物音がして、そこにも暮らしが存在していることをたしかに感じさせる。隣の隣の部屋にも、上の階の部屋にも、上の階の隣の部屋にも、隣のアパート、真向かいの一軒家にも、それぞれの暮らしがあって、今日も同じように生活音をバックグラウンドにそれぞれの日常が再生されている。
 そして、それは僕の部屋も一緒だ。たしかに、ドラマにはならないかもしれない。ドキュメンタリー番組にならないかもしれない。CMにも広告チラシにもならないかもしれない。誰もが羨むような高級な暮らしはしていない。また、誰かが笑うような貧乏な暮らしもしていない。それなりで、そこそこで、そこまでで。
 人によっては夢のような暮らしが、人にとっては夢にも思わなかった暮らしが、同時進行で進んでいる。思い通りにならない人生がそこにはあって、今目の前にある暮らしをもっと良くしたいという願望は少なからず存在する。テレビのサイズを大きくしたい。音の静かな洗濯機にしたい。音質の良いスピーカーで音楽が聴きたい。最新のゲーム機器で遊びたい。寝心地の良い枕で寝たい。部屋を見回して、どこかしこにある快適な暮らしへの欲望を再認識する。目に映る大体のものをグレードアップさせたいという気持ちが、ないと言ったら嘘になる。
 それでも、僕はこの暮らしを気に入っている。身の丈に合った、と表現したらそれまでだが、快適すぎるのも居心地が悪い。蒸し暑い夜は初夏を感じるし、肌寒い朝は冬を感じることができる。そのちょっとした変化に気付くことができるのも、快適すぎない中途半端な暮らしのおかげなのかもしれない。
 スマホでインスタのアプリを開く。友達のストーリーにそれぞれの暮らしの数々がおよそ数秒という短い時間で映し出されている。食卓に並ぶ夕食。窓際で陽を浴びる観葉植物。コーヒーと本。膝で眠る猫。たこ焼きパーティー。
 それらはテレビには映らない。僕たちが求めている『快適な暮らし』ではないかもしれない。それでも、その暮らしの中心には笑顔があって、それは人生というストーリーの一部になっている。誰かに見せたいと、誰かに共有したいという気持ちが生まれている。それがたしかな生きるための糧になっている。かけがえのない時間になっている。
 僕もこのなんでもない暮らしを映そうと、スマホをぐるりと回す。ほんの数秒。安い賃貸アパート。映えない部屋。大した取り柄のない暮らしぶりだ。
 録画し終えてそのムービーを見ると、網戸の隙間から聞こえてきた知らない誰かの笑い声が僕の暮らしをそっと照らしていた。
 僕はそれを見て、一人で思わず微笑んでしまった。
 この映像をいつか、誰かに笑って語り合える日が来るかもしれない。
 そんなことを妄想する時間が、僕にとってはなんだか快適に思えた。
 
 僕たちはいつでも、暮らしを良くするために生きている。
 『快適な暮らし』のキャッチコピーに見合うような、誰かと時間を共有したくなるような、新しい一日を笑顔で過ごせるような、そんな暮らしを目指している。
 カレンダーをめくって、時計の目覚ましを合わせて、朝起きてから夜眠るまでの時間を少しでも快適に過ごそうとする。それは紛れもない事実だ。
 何事も良すぎるに越したことはない。
 けれど、良すぎなくてもいい、ということもある。
 無理に理想に近づけなくてもいい。自慢できなくてもいい。夢から目を背けたっていい。そこにある暮らしが仮に中途半端であったとしても、その中途半端さが快適になるかもしれない。『快適な暮らし』でなくても、その中心には誰かの笑顔が必ず存在する。
 その事実をしっかりと噛み締め、今日も、そして、明日も、明後日も、未来に向かって僕の毎日は続いていく。

Fin.

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