【掌編】ふくだりょうこ『きみと雨の待ち合わせ』
彼女を初めて見たのは、6月の中旬ごろ。
梅雨入り宣言から数日が経ち、雨にうんざりし始めていたときだった。
雨の日は、白と黒の世界に閉じ込められているような気がしていた僕は、歩道でぼんやりと立っていた彼女の周りの華やかさに足を止めた。
一瞬、彼女の周りにはピンク色の花びらが舞っている気がしたからだ。
しかし、よく目を凝らしてみると、そのピンクの花びらは彼女が持っているビニール傘に描かれたものだった。
昨日、授業の課題を夜遅くまでやっていたから、少し疲れていたのかもしれない。
軽く頭を横に振って、彼女のそばを足早に通り過ぎる。
でも、やっぱりその女の子のことが気になって、チラリと視線を向ける。
妙にぶかぶかのデニム生地のワンピースを着ていた。全然、体に合っていない。半そでから覗く腕は白く、とても細い。
女の子にしては短すぎるようにも感じられるショートヘア。
薄ピンク色の唇は薄く開いていて、大きな瞳は歩道沿いのまだ咲きかけの紫陽花をじっと捉えていた。
一瞬だけだったけれど、幼いようにも、とても大人びているようにも見えた。
かわいいとか、きれいとかじゃない。
印象的な子だった。
一度だけ偶然、すれ違っただけの女の子。
それで終わりだと思っていた。
でも、僕が2限目の授業に出るときの時間帯には決まって同じ場所に立っていた。
いつも紫陽花を見つめて。
『年いくつ?』いや、ナンパみたいだ。全然そんなことはないんだけど。
『紫陽花は好き?』そんなことを聞いてどうするんだ。
『その傘、かわいいね』……気持ち悪がられる可能性もあるな。
すれ違うたびにかける言葉を考え、自分で打ち消す。どんな声を発するのか聞いてみたかったけど、実際に話しかけるほどの勇気はなかった。
そんなある日……。
2限目の授業に行く道すがら、僕は少し期待していた。
彼女に会えることを。
少し雨が強いということが引っ掛かった。
彼女は長靴を履いていたっけ。僕は自分のぐじゅぐじゅにぬれたスニーカーに視線を向けながら考える。
目を凝らす。
少し離れたところから、彼女の姿を見つけて喜んだのもつかの間。
慌てて彼女のそばに駆け寄る。
「何してるの」
思わず、声をかけていた。
雨の中で、彼女は傘も差さずに立ち尽くしていたからだ。
傘を差しかけると、驚いたようにこちらを振り向いた。
その瞳が僕を捉えている、と分かっただけで、カッと体が熱くなる。
「……傘も差さずに、ダメだよ。風邪ひくよ」
できるだけ冷静を装った僕の言葉に彼女はにっこりと微笑んだ。
僕よりずっと年下かと思ったけど、その笑顔はとても大人びたものだった。
「傘、貸そうか?」
勇気を出して申し出てみたけれど、彼女は小さく首を横に振り、そのまま駆け出した。
あっという間だった。
追いかけることもできずに、その背中を見つめる。
彼女は全身雨でぐっしょりと濡れていた。でも、その頬は……。
翌日は、いい天気だった。
満開の紫陽花が、太陽の光に照らされてキラキラと輝いていた。
日差しは痛いほどで、夏はもうすぐだということを知らせている。
昨日、見た彼女の頬は濡れていた。雨じゃなくて、涙で。
振り返ってみれば、彼女を見かけたのはいつも雨の日だった。
太陽の下でなら、彼女はどんな表情を浮かべたんだろう。見てみたい。
梅雨が明けて、彼女を見ることはなかった。
紫陽花が枯れて、茶色くなった花びらが歩道を汚すころには、もう僕は彼女のことを忘れている。
そうであってほしい。
彼女がいつもいた場所で足を止める。
不意にそばで猫が鳴いた。
その瞳は、彼女のものととても似ている気がした。
END
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