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【掌編】衣南かのん『遠いひの花火』
薄いレースカーテンの向こうに映るぼんやりとした赤い光につられて、そっとベッドを抜け出した。
都心の少し端っこ、駅徒歩10分、単身向けの7階建てマンション。
その4階から見える景色なんてそう大したものではないから、ベランダに出ることはあまりない。そういえば、この家のベランダに出るのは初めてかもしれないとふと考える。
初めて立つその場所は、けれど新鮮さなんてこれっぽっちもなくて。どこにでもあるアパートとか、マンションとか、薄暗い道路とか、そんなものしか見えない。
だけど遠く見える赤色にだけは妙に惹かれて、あたしはしばらく星も見えない真っ暗な空の奥を確かめるみたいにじっと眺めていた。
暑さのまだ残るじわりとした空気の中に、ほんの少し肌を冷やすような風が混じる。ちょうど気怠さを抱えていたあたしの体には心地いいくらいの温度で、外に出ていても不快感はなかった。
「何してんの」
重たいガラスの扉からほんの少し顔を出した男が、寝起きの掠れた声であたしに問う。
答えることにどこか面倒くささを感じながら、あたしはさっき見えた赤い光の話をした。
「ああ、花火じゃん?」
理解した様子で頷いたかと思えば、ベランダに出てきた男が甘えた様子でもたれかかってくる。
ついさっきまで汗をかくのも気にせず重ね合っていた肌は、けれどこうして外の空気の中で触れると途端にひどい違和感をもたらした。
電子タバコの煙から逃げることを言い訳にするようにそっと離れて、柵に身を預けながら、あたしはもう一度遠い空を眺める。
「花火って、どこでやってるの?」
「どこだったかな……駅前にポスター貼ってあるのは見かけたけど。なんか、わりと大きいやつみたいよ」
「ふうん」
「何、花火行きたかった?」
その言葉には、わざと答えなかった。
行きたかった、も、行きたくなかった、もどっちも嘘になる。
答えないまま遠くに見える、花火の残像みたいな赤に染まる空だけをじっと眺める。
別に、花火が特別好きなわけじゃない。
わけじゃないけど、なんでか胸がざわついてしまう。
「……昔さ、浴衣着て行ったんだよね。花火」
「うん?」
「中学生の時、好きだったクラスの男子に誘われて」
「何それ、甘酸っぱい話? いいじゃんそういう思い出」
煙を吐き出すのと同時にカラカラと笑われて、途端に後悔する。
なんで今更、そんな話をしてしまったんだろう。
「なあ、それよりそろそろ中に入んない?」
ぬるりと後ろから伸びてきた手が少しだけ胸元を掠めるようにあたしを抱きしめて、ああ、と思う。
この男とあたしはそういう関係だし、それが嫌なわけじゃない。
今日だって予定のない休みを持て余して、家で映画でも見よう、なんてほとんど見え透いた誘いにそうとわかっていて乗っかったのはあたしだ。
だけど、どうしてだろう。
急に何もかも嫌になってしまった。
恋愛の真似事をさらにごっこでなぞるようなこの関係も、遠くに見える花火をその形すらわからないまま眺めることも。
「……今日は帰るわ」
「えっ、なんで」
「2回目する気分じゃないし。帰って寝たい」
「じゃあうちで寝てけば?」
「ううん、いい」
「ふーん。まあいいけど……」
散らばった服を身につけて、乱れた髪を鞄に入れてきたシュシュで一つにまとめる。
顔はマスクで隠れるから、汗で流れた眉毛だけ少し書き足している間に何故か着替えを終えた男が隣で待っていた。
「……なんで着替えてんの?」
「駅まで行こうと思って。暗いし」
「……ありがと」
「どういたしまして」
笑って立ち上がるその男は、悪いやつってわけじゃない。だからと言って、好きかどうかはまた別の話で。
さっきまで立っていたベランダに背を向けて玄関に向かいながら、なんとなく、この家に来るのはもう最後になる気がした。
遠くに見える赤い光はそれだけでもぼんやりと綺麗だったけれど、あたしには物足りなかったから。
駅に向かう道すがら、聞こえるはずもない花火の音を耳の中に響かせながら、あたしは来年の夏をほんの少しだけ想った。
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