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【エッセイ】衣南かのん『コトコト重ねて』

 ジーーとも、ぶぅーーーんとも聞こえる、低い音がかすかに響いている。
 仕事の傍らで作っているのは、牛すじのカレー。結婚して5年、度々夫からもリクエストに上がる、我が家の定番料理だ。
 
 牛すじや牛のスネ肉を煮込んで料理をする、と話すと、とても大変なことのように受け取られることがある。
 忙しい仕事の合間にそんなものを作るなんて、よほど料理が好きなのね。或いは、丁寧な料理を作っていてえらいね、と言った具合に。
 そのたび私は、「そんなに大変じゃないんだよ」と答える。
 「材料全部切って、鍋に入れて、オーブンに突っ込んだらあとは放置だよ」と。
 
 我が家には、結婚当初にちょっと奮発して買ったバーミキュラの鍋がある。牛すじカレーも、夫の大好きなビーフシチューや楽をしたい時のポットロースト、なんなら普通のカレーやシチューを作る時だって大活躍の相棒だ。
 重たい鋳物のホーロー鍋はずっと憧れだったから、自分用のそれを手に入れた時の喜びはひとしおだった。可愛くて、おしゃれで、料理の可能性が広がりそうな素敵なお鍋。
 そして実際その鍋は、私の料理生活をぐっと変化させてくれたのだ。主に、手抜きの方向で。
 
 鋳物のホーロー鍋をそのままオーブンに入れて煮込み料理が作れる、と知ったのは、結婚してまもない頃のことだった。
 きっかけは、大好きな海外の料理番組。
 色鮮やかな小さいキッチンに立って、手際よく調理を進めていく憧れの女性は、材料全てを入れた鍋をそのままオーブンに入れて煮込み料理を完成させていた。
 煮込みと言えば弱火でじっくりコトコト、が基本だと思っていた私にとっては衝撃で、すぐに調べた。
 けれどあまり日本ではメジャーな調理方法じゃないのか、それとも調べ方が悪かったのか、「鍋 煮込み オーブン」なんて検索キーワードを入れてみてもなかなか欲しい情報にはたどりつけない。
 最初の衝撃を与えてくれた料理番組は海外のものなので、オーブンの仕様や温度設定が異なるためあまり参考にはならない。
 結局いくつかの情報を組み合わせてーーその料理番組のレシピ本も片端から読んでーー自分なりの最適解を見つけた。
 160度、予熱なし。我が家のオーブンは90分が最長設定時間なので、煮込みの時はそれを2回。
 牛すじなど下茹でが必要な場合は、下茹でに90分、煮込みに90分×2回で合計270分。
 だいぶ長いその時間を、弱火でコトコトやっていたら一日仕事になってしまう。とてもじゃないけれど、気軽にビーフシチューやら牛すじカレーやらを作ろう、だなんて思わなかっただろう。
 でも、オーブンに入れるだけなら。
 その間に仕事を進めることができるし、映画を見たり、本を読んだりして過ごすこともできる。
 美味しくなるまでの過程は全部オーブンまかせにできるのだから、作らない理由がない。そんなわけで我が家では、時間がない時、手抜きしたい時、ご馳走っぽさは出したいけれど無理はしたくない時……などなど、オーブン調理が大活躍している。
 何も洋食に限らずとも、和食の煮物だってもちろんお手のもの。おでんだって肉じゃがだって作れてしまう。

 流行りの電気調理鍋を見ながら、いいなあ、と思うこともある。
 とはいえ賃貸の二人暮らしでは、調理家電の導入はスペースの問題からなかなかハードルが高い。
 何より私は、オーブンに入れた鍋がじわじわと美味しいものになっていくーーそれを部屋の片隅で待つ時間が、なんとなく好きなのだ。

 そんなわけで我が家のオーブンとバーミキュラには、今後とも鋭意働いてもらうつもりである。
 新婚の頃、ピカピカの薄緑色だったバーミキュラは、今ではすっかりくすんだ色合いになってきた。
 オーブンも同じく、なかなか使い込んでいる風合いを醸し始めてきている。

 だけどそんな風に、家電も、道具も一緒に年をかさねているような姿はちょっとだけ嬉しくて、誇らしい。

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