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「ポリティカルコレクトネス」VS「 八百万の萌え」(メモ的)

「キャプテン・アメリカを尊敬し、社会で落ちこぼれている人々を助けるために悪と戦うゲイの『キャプテン・アメリカ』」

「フィリピン系アメリカ人女性の『キャプテン・アメリカ』」

…キャプテンアメリカの新キャラなんだとか。なんだこれww

いっぽう米国で日本のマンガが売れてるという。

闇の組織が魔物を、とにかくめちゃくちゃに、狩ったり狩られたりする「鬼滅の刃」

悪魔の化身が悪魔の化身をとにかくめちゃくちゃに、皆殺しにする「チェンソーマン」ww

で、日本のマンガに侵食され、アメコミがやばいと問題視されてるという記事を目にした。ところで問題視ってなんだ??文化的?産業的に?

いやー…考えさせられる。

ポリティカルに、コレクトである…「政治的に正しく」多様性を描くという「制約」がアメリカコミックスならば、日本のコミックスにおいて多様性は、単なる「細分化されたニーズでしかない」のだ。

日本では、コミケとかネット上のものも含めたら、アホみたいな量の作家が存在していて、それぞれが命を危険にさらしても止まれないような圧倒的熱量で作品を生み出し続けている。

おそらく作家たちは「自分が読みたいもの」を描いてる。経済的に成り立つとか、産業的にどうとか、そういう問題ではない。彼らが追求するのは自分の自分の萌えであり自分のジャンルだ。

100人いれば100通りの性癖があるということを当然として受け入れられる土壌がこの国にはあった。春画で巨大なタコに絡まれる女性の絵を見たときは江戸時代の日本人は頭がオカシイのかと思ったが、まさにあれは作家の表現する「性癖」であっただろう。

現代において「性癖」を「萌え」と変換定義した功績は大きい。

それは例えば、単純にビジュアルの話として考えるとわかりやすい。マーベルにおいてキャプテンアメリカに萌えるヒトとスパイダーマンに萌える人がいる。「性癖」という認識すらない小さな子供でも萌えの傾向が観察されるということだ。

そこを鋭敏に捉え、どこまでも深めたのが日本のマンガだ。「鬼滅」も「チェンソー」も、「どんな思想なのだ?」と思うと混乱するが、「萌え」で読み解くならばシンプルだ。思想なんかではない、萌えを追求したらそうなったのだ。

その膨大なる純粋なるエネルギーには、ちょっとオエっとおもうぐらいだが、「八百万の萌え」を生み出すに至ったのは、人類の歴史に刻まれるレベルの偉業であろうとおもう。人類史上における新発見だ。人間とはそういうものだったのだ。

象徴的なのは「BL」ボーイズラブとよばれる、美しい男同士のソレだ。ここはニーズがはっきりしていてマーケットがある程度大きかったこともありその細分化もとんでもないことになっている。

それをさらりと「ジャンル」などというが、そんな生易しいものではない。もはやオーダーメイドかと見まごうほどの、とんでもなく細分化された「私が読みたいもの」を、読める環境が誕生してしまったのだ。

僕は、あまりにもこの状況がおもしろく、また、多くがネットで読めるようになったこともあり、いろんなジャンルを巡回する。「〇〇が××化して△△する@@マンガ」(伏せ字にせざるを得ない)が読みたい人のために、作品があるのだ。

中には、とても受け入れられないものもある。というかむしろほとんど受け入れられない。「その道のもの」でない限り、とても正視に耐えないものがどちゃっとある。世間様に知られたら生きてはゆけないであろうものもある。

当然である。人は、自分の萌え以外は受け入れられないのだ。秘密信仰のレベル。

そこで、改めて多様性について考える。

「君の萌えは君の萌え、僕の萌えは僕の萌え」であり、自然と他人の萌えを尊重もするが、決してそれは深入りできないものであるとも理解している。お互い様の精神だ。

多様性を尊重するとはどういうことか?その「仕草」の、至極、わかりやすい形がそこにある。

それは、個人情報どころではない究極のプライバシーなのだ。



まあ、いよいよこりゃクールジャパンなんつって政府がやる仕事じゃネンだわ。

そういう作家を海外に差し向ければいいのさ。アニメーターもAIも脅威ではない。萌えのスピリットを体得するには、まあまあの時間を要するだろうから。

萌えを熟知した職人たちは、その技術によって、世界中のあらゆる政治問題も人種問題も、みんな「萌え」にしてくれるであろう。「ヘタリア」しかり、「聖・お兄さん」しかりである。

八百万の萌神をばらまき、世界中の人々を解放してやったらいい。フロイトが生きていたら賞賛するかもしれない。(彼は萌えに気づきかけていたかもしれない。)

必要なのは、天がすべての交通整理をしてくれる「デウス・エクス・マキナ」ではない。わけのわからない巨大な鍋の、混沌にぶちこみ、形がなくなるまで煮込んでしまうのだ。曖昧にし、うやむやにし、そこから何かが飛び出す。

八百万の萌えを定義するにあたり、人としての手塚治虫と、場としてのコミケの功績はでかい。

あと、ビックサイトは人類の聖地になる。ゆかい。

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