『パパはニュースキャスター』セミナーに参加して、質疑応答しちゃいましたの話。
はじめに
本日(2022年3月21日(月・祝)、横浜の関内ホールで開催された、第51回名作の舞台裏『パパはニュースキャスター』セミナーを聴講してきました。
このドラマが大好きなボクにとっては夢のような時間でした。
(終了後も友達と語り合って、感動の余韻が残ったままで帰宅)
どんな内容だったのか、高ぶる思いが消えぬよう、記録として書き残します(怒られたら消します)。
僕個人のドラマとの思い出(私的話だから飛ばしてOK)
小学生時代のボクは、ドラマ『うちの子にかぎって…』(1984,85年)が大好きでした。ビデオデッキが無かったので、ドラマ放送後に発売されたシナリオ集を大事にして、どこに行くにも持っていき愛読していたくらい。
特に第2シーズンは、生徒たちとちょうど同学年であり(なにせいわゆる行儀のいい空想のお子様像ではなく、生の子供の姿が描かれていた作品でもあったことで)ドはまりしたのでありました。
と同時に、TBSの田村正和さんコメディドラマの虜になりました。
プロデューサーや脚本が同じ人であったり、『うちの子』の出演者が他にも出ていたりなども大きな要素だったかもしれません。
そして1987年1月~3月。
『パパはニュースキャスター』にもドハマリをしたのでありました。
参加までの経緯(これも私的話だから飛ばしてOK)
というわけで、子どもの頃からテレビっ子だったオイラ。
大学卒業を機に、まずは横浜で暮らしはじめたので、「放送ライブラリー」という施設で昔のテレビ番組のアーカイブを見られると知ったときは大変喜び何度か行ったものでした。
その後、イベントレポートを書く仕事をするようになり、2018年に同会場で開催の「ガチャピン・ムック展」の取材を志願したことで、ますます気になる施設としての位置づけとなりました。
その後も(取材ではなくプライベートで)いくつかのセミナーを聴講しにいくなどして、Twitterフォローやメルマガ登録はしておりました。
そんな中、2022年2月4日。
あるツイートが流れてきて、仰天します。
なによりも驚いたのはゲスト。
え? 3人の娘の愛(めぐみ)が全員来る!?
そんなことってあるの!?
もちろんすかさず応募。
そして、
情報拡散すると倍率が増えるはずなのに、、、と思いつつも、少しでも多くのファンと感動を分かち合いたいと共有してしまう自分もいたり。
(そうそう。先のイベントレポートサイトにも情報展開したりも。
https://evenear.com/event/detail/20059 )
そんなこんなではありますが、裏で手回しとかはなく、あくまでも一個人として抽選を待つ日々。
そして、
こちら「当選」の通知が届いて歓喜。
自分含めて3人分で申し込んだので、親友夫妻と一緒にいくことになりました。
当日(というか今日)は、少し早めに行っていい席に座りたいねーと会話。結果幸運なことに(というか彼らが教えてくれなかったら入場口がわからないところだった)前から2列目という超かぶりつき的な位置に着席できたのでありました。
開演
いざ開演。
まずは、全体概要でスケジュール案内など。
そして主催のひとつである「放送人の会」から、会長の今野勉氏による本セミナーそのもののいきさつの説明(1990年代のやらせ問題の反省から、番組の視聴者と作り手の関係を近いものにしようという動きがあり、会が設立。その最初の活動として、「名作の舞台裏」セミナーが始められるようになった)。
話が終わり、まずは全員でドラマを視聴(まだゲスト登壇者は現れず)。
45分ということでどのエピソードかなと思いつつ、第一話(そりゃそーですよね)。
TVerでの配信を見過ごしてた自分にとっては、本当に30年ぶりに近い視聴。
思ったことを箇条書きに。(なので登壇してからの話が知りたい人は、ここも飛ばしちゃおう)
・え、この交通事故シーンって、ドラマのためだけに作ったの? すごくお金がかかってない!?
(その後の本田美奈子の歌番組のシーンも、ドラマのためだけ?)
・そうだよなあ。ボクはこういう田村さんみたいな大人になりたかったんだよなあ(しみじみ)。
・オープニングの三日月に田村さんと娘3人がいるシーン、覚えてるなあ(しみじみ)。
・浅野温子とのベッドシーン、当時思ってたよりも過激だ。。。(とはいえ直接的なエロいものはない)。オトナの恋愛要素があったドラマだったのね。
・てか、浅野温子の言動一つ一つが、まあコケティッシュで可愛いこと!
・そうか、第一話だから芥川さんの「鏡竜太郎、40歳…」のナレーションは冒頭に入らないのか(少し残念)。
・ゲスト、松下アナは『ザ・ベストテン』の司会をやってた頃かしら? 小林繁さん、当時TBSのスポーツキャスターやってたなぁ。
・所ジョージと田村正和の会話が、まあ自然。
(さすが『うちの子にかぎって…』で同僚教師として共演してたことはあるんだろうなあ)
・所ジョージの「主夫」に対する(特に我が子からの)コメントが、なんというか予想以上に辛辣。今の時代は反響が来そうだと思わせるくらい。
・でも、ほのぼのとしててボクは好き。いわゆる「所さん」のキャラクター的には、『うちの子』の教師役よりも地に近いのかも
・当時だから車乗ってる時にシートベルト締めなくていいんだなあ。
うーん、思い返せば返すほど、いろんなことがあるぞ。
特に感じたのは「当時は、3人の娘目線で見てたのに、今は田村正和目線で見てしまっている(そりゃ娘たちのワチャワチャがうるさく感じるわな)」点でありました。
(たとえば初見では、西尾さんを追い払う本田美奈子さんの姿を「なんでこんな悪い役を演じさせるの!」と思っていたのですが、今見ると「むしろここまで相手しててエライわー」の感想に)
いやー、深い。
いよいよ登場
鑑賞後、20分の休憩の後、いよいよ後半のトークショーへ。
左から、司会役の堀井美香さん(TBSアナ……なのも今月末までなんだよね。しみじみ)、八木康夫プロデューサー(数年前にTBSを辞めNHKなどでも番組制作をしてるとのこと)、そして「3人の愛」である西尾まりさん、大塚ちか子さん、鈴木美恵子さん、脚本の伴一彦先生の並び。
・本田美奈子さんの「Oneway Generation」に乗せて登場。「踊りながら出てこようか」という話をしてたとか。
・娘の愛が3人で公の場に出るのは、相当レア機会。なお3人そろって集まるのもコロナ禍の今では少なくなった(結婚式で会ったよねーとのこと)
『パパはニュースキャスター』が生まれるきっかけ
まずは八木Pと田村さんのつながり。
1984年に大原麗子主演ドラマ『くれない族の反乱』の制作に関わり、最終回で田村正和が子どもと絡むシーンに涙ぐみ、田村さんのチャーミングさが脳裏に焼き付いていた。
その後、別のドラマを2クールやる予定が視聴率不振で打ち切り。代替として8話のドラマが必要となり、『うちの子にかぎって…』を制作。ただし、それまでの先生がスーパースターの教師ドラマ(『金八』や『熱中時代』)ではなく、先生も生徒も成長する・先生が生徒にやりこめられるドラマを目指したとのこと。
八木Pが田村さんのマネージャーに打診したとき「天下の役者になんてことを!」と怒られたが、田村さんご本人に1度だけプレゼンができ、その場で「やります!」と即答で実現に至った。
(フジで夏クールの時代劇も抱えていて、本来であればまず実現できないことであったらしい)
八木P曰く、田村さんの中でのセルフプロデュースもあったのではなかろうかとのこと。
一方、脚本の伴一彦氏は、1981年に脚本家デビュー。
その時の1つがにっかつロマンポルノで、役者からの紹介で八木Pと繋がる。「今度こんなドラマがある」との話で『うちの子』に参入。なお、当初は複数の脚本家が担当と聞いていたらしい。
伴さんは「田村正和でどう遊ぶか」を考えて、「まさかこんなことやらないよね」というのを盛り込みつつ(酔っぱらいの演技などすごかったよねえと全員の談)。
そして『うちの子にかぎって…』(1984,85年)が評判よく高視聴率でもあったので、(今度は穴埋め的ではなく)ごほうびで「好きなドラマをやってOK」との話になったそう。
「ホームドラマ」が好きな八木Pは、「田村さんと子供たちのホームドラマ(それも原点ともいえる家族というつながり)」をやりたく、伴さんと相談して、誕生となったとのこと。
(なお厳密には、1987年の『パパはニュースキャスター』より前に、外科医役の田村正和が幼稚園の園長となる『子供が見てるでしょ!』(1985年)でのタッグがあり。僕も見てましたが、『うちの子』が金曜8時でしたが、こちらは金曜9時なのでオトナ向けの話が多く。男性経験のない保母さんの初体験の話や、幼稚園児から「(父親が)蒸発って何?」と聞かれて「お仕事いそがしくて大変だねの意味だよ」と誤魔化すとかの内容だったもんなぁ。
ちなみに西尾さんは本作にも出演)
「ニュースキャスター」という職業となったのは、八木Pの夫婦の会話から。
カッコいい役はなんだろうという話から奥様が「ニュースキャスター」と出し、なるほど、となったとのこと。当時『ニュースステーション』(1985年放送スタート)の久米さんや、フジテレビの逸見さん(1984年に『スーパータイム』開始時キャスター。のち1988年にフリーに)の人気もあったとの時代背景も。
そして伴さん。
通常は企画から1,2カ月は設定など詰めるのに必要なのに対し、『パパはニュースキャスター』は大変スムーズに進んでいったとのこと。
当初は年代の違う子たちという話も出たが、すぐに「3人」「同じ歳」「どうせならば下の名前が同じ」という設定は決まっていったそう。
3人の愛たちの話
そして3人の愛たちが、どう選ばれたか……の話になるところが、制作陣と彼女たちとでは記憶の相違があり(笑)。
「なかった」という八木Pに対し、「オーディション、ありました!」とはっきり覚えているというのは大塚さん。
オーディションの最終段階で、この3人(西尾、大塚、鈴木)でよく会うという話をTBS近くのマクドナルドでダベっていた。そして、合格となり、記者会見の場で初めて「この3人」と知ったとのこと。
(八木Pの記憶では、『うちの子』にも出てたので西尾さんと鈴木さんはほぼ決まりで、大塚さん役はオーディションしたかもしれないとのこと)
伴さんによると、ホン打ちの段階で3人を苗字で呼んでいて、それがそのままドラマで採用となったとのこと。
以下、それぞれの思い出話。
西尾さん
「当時は八木Pや伴さんとは関わりが薄かった。八木Pからは「田村正和さんは子供が嫌いだからうるさくしないで」と脅された」
(八木P的には、特に西尾まりのことを喜劇のできる天才子役と思っており、西尾さん中心で3人を組んだ感あり)
大塚さん
「田村正和さんとは初対面。「こんなカッコイイ男の人っているの!」と緊張した」
鈴木さん
「『うちの子』が楽しかった居場所と感じて、終わってとても寂しかった。そのため、絶対に受かりたい、あの緊張もするけど暖かい「現場」に行きたいと思っていた」
(伴さん的には、『うちの子』の第一話で田村さんに「先生!ブスが好きなんですか」と直撃する役であった鈴木さんは一目置いていたらしい)
伴さん的には、娘3人は個性が違い、書きやすかったとのこと。
また地の部分も出ていたのかもしれない。
八木Pも1回目を終え「これはもう面白い」と確信を持ったそう。
(ボクの記憶があやふやですが、八木Pが3人をコメディ・ドライ・情と称していたような)
ドラマの裏話
・実はTBSの報道部は当初あまり協力的ではなかった。そのため(フジテレビなど他局の名前は出てくるし、TBSだとして作られてはいるが)ドラマ内では舞台は架空のテレビ局ということになっている。
・伴さん、フジテレビでの仕事もしていたため、逸見さんと相談したこともあり。
第一話のセリフで「今日からこの時間は…」というくだりは、当初は「本日から」としていたが、逸見さんからそう言わないとの指摘があり直したとのこと。
(ボク的余談ですが、その後のフリーになったばかりの逸見さんがスペシャル回に出て驚きました。その際に「自分にも娘がいて、愛情の愛と書いて…」「まさか、めぐみ!?」「いや、あい、です」という会話が繰り広げられワハハと笑いましたが、後に本当に娘さんが逸見愛(あい)さんだと知り、とても驚いた思い出)
・豪華ゲストについては、番組ファンだから出た人が多かった。なかでも、スペシャル回に「義理の息子が好きだから出たい」とオファーがあって出演となったのは、美空ひばり。
(との話に3人も驚く。いや、こちらからはオファーしないよーと八木P)
・虚実ないまぜ(TV局が舞台なので本物の有名人を出すなど)がドラマの魅力の一つ。特に伴さんは、フジテレビの名前を出してからかうという遊びもつい入れてしまったとのこと。
・田村さん、カメラ目線での演技は、最初は抵抗あったそう。
ふたたび、3人の愛たちの印象的なシーンの話
堀井アナからの、印象的なシーンがあれば教えて欲しいとの質問。
なお、堀井アナ「今回あらためて全話+スペシャルを見返した」とも言ってましたが、同世代なだけあってか、本当にドラマ愛があふれてるなーと感じました。
西尾さんは、リハーサル室が楽しかった印象。
終盤は、口数少なかった正和さんからもアドバイスがあったとのこと。
3人の掛け合いなども、楽屋で1人が練習しているとみんなが一緒に加わりわいわいと行われた。そのため目立ったNGも無かった
……と、大塚さんはNGを10回出した話。
「わたし、オンナになっちゃった」回は西尾さんメインで、大塚さんは軽い応答セリフだけだったのにNG連発。そして気を付けようと思うことで、余計に緊張してNG。
すると田村さんが「これだけ練習したから、もう出来るよな?」と言ってきて、うわわーーとなったとのこと。
そこへ鈴木さんから、田村さんは滅多に怒らないけど本当に怒ると京都弁になるという裏話が飛び出る。
ただ、娘たちに当たるのではなく、台を蹴るなどして発散していたよう。
大塚さんが印象に残る田村さんは、楽しくなるとギャグを言う姿。
香港ロケのグルメレポートで、豚の頭の丸焼きに対し「これはどう見てもオオサンショウウオじゃないか」という田村さんに、どう接したものかと…w
(八木P曰く、田村さんは人を笑わせ楽しませることを快感と思い、嬉しそうに見えたとのこと)
脚本で、最初は3人のセリフがそれぞれあったが、後半は「愛たちワイワイ」のようなト書きとなる。
アドリブで話しつつ、いつまでたってもカットがかからず(スタッフも楽しんでいたよう)。
さらにそこに田村さんが加わったりもあったらしい。
鈴木さんによると、3人で家事をするシーンで「あ、パパのパンツ」という脚本には無いアドリブがあるが、これは田村さんから言ってみたらとの提案があったとのこと。
(伴さんによると、脚本であまり話を深くは考えず「車を買い替える」「温泉に行く」と大枠のみを決め、あとはどう田村さんを困らせるかでおまかせ的につくられていたそう)
ちなみに鈴木さんが語った印象的なシーンは2つあり、大塚さんが母親に「ママは男に騙されやすい…」と語るシーンと、パパから自転車を買ってもらえなかった西尾さんが自分で買っても怒られ「もういいよ!」と不満を爆発させる回……と、演者というより視聴者目線からのコメント(笑。なんで自分が出てるシーンじゃないの?とツッコまれてもいた)。
ちなみに伴さんの思い出のシーンは、(黒田福美演じる仲居を口説こうとした)温泉の回。
3人も、湯河原?でのロケは楽しかったとのこと。
なぜか娘たちの部屋に八木PがやってきてオロナミンCだけ飲んで帰ったり、夜はスタッフらによる一芸大会が行われたり。
八木Pの思い出はNYや香港ロケ(いい時代だったなあと)。
正和さんが、子どもや新人が相手でも、ADに任せるなどせず、ずっと付き合う姿勢も見られたとの話も。
……ただ、田村さんは飛行機が苦手。
でも海外は好きとのこと(笑)。
娘たちが語る、海外での田村さんの思い出
現地のお店(ラルフローレン)に3人を連れていき「遠慮せず、好きなもの買っていい」と。
おそろいのブルゾン&ブーツを買ったらしい。
(また普通の撮影の時でも、3人おそろいのセーラーをプレゼントされたなどあったらしい。すごいなぁ)
ドラマの舞台としての裏側
箇条書きにて。
・TBS社屋内での撮影もまあまあ多かった。
・回が進むにつれ、報道局からのクレームもなくなった(まあ真面目にニュース作る立場からしたら、キャスターがあーゆー性格だと思われるのもイメージダウンですからなあ。そういうコメディドラマだとわかってもらえたらしい)
・ドラマ内に、本田美奈子やC-C-Bなどの楽曲が出てくるのは、八木P発信。その指示を受け、伴さんが脚本内に取り入れていった。
・この『パパはニュースキャスター』での虚実いりまぜスタイルが確立したことで、よりその要素が強くなった『ママはアイドル』(1987年4月~)ができた。
・堀井アナから、鏡竜太郎と娘たちが住む部屋がうらやましかったとの話。テレビが何台もあり、当時憧れのロフトがあり……と。
→ セットとして立体感を重視した。
特に娘たちが動き回れるための動線を多く作っていた。
・ラブシーンとファミリードラマのさじ加減の絶妙さ。
伴さんも今日改めて見て「すごくいい」。
・浅野温子さんについて。
西尾さん曰く、楽しそうだった。田村さんとのシーンも「大人のラブラブだー」と見ていたとのこと。
・リハーサルで、温子さんもアドリブを入れるなど楽しんでいた。
初対面だったが、「西尾!大塚!鈴木!」とテンポよく呼び、違和感も感じなかったそう。
田村正和さんへの思い
途中で鈴木さんが泣く。
西尾さんが、コロナ禍だからきちんと田村さんとのお別れ会などができず、今日がある意味とてもいい機会だったと語る。
・田村正和さんの呼び名については個々それぞれだが、3人で話をする時は「パパ」と呼んでいるそう。
・八木Pの話。彼の中で田村さんはナンバーワンの役者。
・田村さんのセリフで印象に残ってるのは、「役者は自分が「この役やりたい」と言っちゃダメ」(役者が楽しんじゃうようになるから)。
「周りから「こういう役をやって」と声がかかるようにしたい」
・そのおかげで、プロデューサー側から、田村さんを通じることで、色々なドラマを作ることができた、とあらためて感謝。
・晩年の田村さんから「最後は八木Pのドラマ出演で締めたかったが、できずに申し訳ない」とのお詫びの手紙があった。
(実は田村さん主演の「父と娘のドラマ」構想を持っていたとのこと)
・先にも述べた通り、どんな役者にも対等に接する人だった。そのような役者は非常に少ない。
『カミさんの悪口』(1993,95年)に当時新人の大沢たかおが出てNG連発したがきちんと接しており、本人も「一生忘れない」と語っていたとのこと。
・芝居やドラマをより良いものとすることを最優先し、個人のわがままなどは捨てている。そのため、他の役者からも共演されたく思われていた。
(その象徴が『古畑任三郎』ではないか)
・西尾さん。今だからこそお話したかった。
役者を続けている今だからこそ言える話がたくさんある。
訃報後は「お前さんがんばりなさいよ」と言われた感じがし、あらためて背筋が伸びる想いである。
・大塚さん。出演時には大役であることに浮付いた気持ちもあった。
しかし、正和さんがスタジオに脚本を持ち込まず、セリフを叩きこんでいる姿に引き締められた(実際、リハーサル段階ですべて入っていて、テイク1がもう勝負だったそう)
・鈴木さん。1シーン1シーン終わるごとにへとへとになっていた。でも、それは疲れではなく、一試合ずつ本気でやっていたから(そして号泣)。
・伴さん。田村さんのことを大スターであると強くは思わなかった。そのため書いてて楽しかった。ただ話したことはほとんどなく(一度フカヒレをおごってもらったが、その時も特に芝居のことは話さず)。もうちょっと現場に行けばなぁという後悔がある。
『パパはニュースキャスター』はあなたにとって
・八木P
幼児体験として、テレビでは海外のホームドラマが流れており、それが原点。人間関係の中で一番普遍的なのは親子と思っている。
その中で田村さんと出会い、いちばん最初につくったホームドラマが『パパはニュースキャスター』であるのは、幸せなプロデューサー人生だったと思っている。
特に今のドラマ界は漫画原作多く、ラブコメが強い。「ホームドラマ」をつくりたい人が大勢いるのに残念。
・実は海外で『パパはニュースキャスター』のリメイク話があったとのこと(!!)。……しかし、各地に隠し子がいるということや、酔っぱらって女性を口説くなどの行為が、その国でのテレビコードやジェンダー的なご時世的にアウトで実現はしなかった。
・『パパはニュースキャスター』的な作品は、他にもいくつかある(例えば映画の『スリーメン&ベビー』(1987年11月)など)。でも、このドラマのほうが先なんだぜ!というのが内心自慢である。
・伴さんの元にも、脚本作品に出演した役者さんからリメイク版をやりたいとの声は多く来ているとのこと。
しかし、田村さんに申し訳ないので断っている現状。
・西尾さん
色々な現場で『パパはニュースキャスター』見ていた、と声をかけられる。特にスタッフさんに多く、入社面接で好きなドラマとして挙げたなどの声も聞く。
いつか超えなくてはならないとは思っているが、確実に自分のものとして刻まれている作品である。
・大塚さん
人生を大きく変えてくれたドラマ。子役人生は全然うまくいかず、オーディションも落選が続いていた(西尾さんは同じ劇団の大先輩でもあった)が、『パパはニュースキャスター』以降はオーディション無しでの出演も増えていった。
その中でも『パパはニュースキャスター』は、和気あいあいととても楽しめた。夜遅い日はスタジオにそのまま泊まったりと、まるでファミリーみたいに過ごせた。
・鈴木さん
『パパはニュースキャスター』の現場はものすごくいい現場。1つ1つのシーンについて、直接教わるのではなく、本気で体感ができる場でもあった。
その後の全部に繋がっている、自分の原点である。
・伴さん
(脚本の面白さについての話をうけて)当時と今のドラマのつくりの違い。『パパはニュースキャスター』は、オチは考えていなかった(ドラマが進むにつれて、竜太郎が娘たちに情愛が湧くのは、脚本側での指示はなく、田村さんの演技だった)。
主役・アイデア・シチュエーションの最低限を決め、これらでどう遊ぶかを考え、あとは現場にまかせてる部分があった。
(今のドラマづくりは視聴率重視・プロット必須なので、同じような作り方はできないのではなかろうか)
その他(台本やあれこれ)
・伴さん、第1話の台本を持参。
(役者ではないので書き込みなどが無く)キレイな状態。
・実は鈴木さんもスペシャル回の台本を持参。
と、「ここで2つの奇跡の出会いがあった」とのこと。
・その1。
NYへ向かう空港で、手塚治虫先生を発見!
すかさずサイン&イラストください!と出向き、ヒョウタンツギにしようかピノコにしようか悩んでいた中で「リボンの騎士でいいよね」と、台本に描いてもらったとのこと。
・その2(こちらは台本自体は関係なし)。
その帰り。空港に着いたとき「君たち、タワレコにいたよね」と3人に話しかけてきたのが坂本龍一。女優とは知らずに声をかけられ、コンサートに招待され、3人で行ったとのこと。
そしてフタを開けば、実は坂本龍一も『パパはニュースキャスター』ファンだったと判明。
・鈴木さんからは、女優を続けていった中で田村さんと再会(ドラマ『国選弁護人』)した話も。
スタッフらは知っていた中、田村さんに挨拶したが、ごく普通の返事のみ。
が、ちょっと経ってから「鈴木か?」「はい!」「太ったな~」と声をかけられ、周りが一気になごやかムードに。
ちょうど役者や進路など悩みを抱えていた時期であったが、撮影後に田村さんが両手で迎えるポーズをし、そこへ抱きついたことで、特に相談会話はしなかったもののすべての悩みが解決できたとのこと。
(最後「もう少し痩せろよ」と言われたけど、ゴメン、また少し太っちゃったとの話もあり)
質疑応答タイム
以前参加したセミナーで質疑応答の時間はあったものの、今回話が盛り上がっていたから無いかもなぁと思いつつ。
が、堀井アナから「会場の皆さまからの質疑応答の時間を」との発言が。
わお!
実は入場時に友達と「もし質疑応答タイムがあれば、真っ先に手をあげますよ」という会話もしていたのでした。
言った以上は挙手をしよう!
それに、色々なイベントに参加してて、こういう場面で誰も手を挙げないとなんか変なムードになるのも目にしてきたので、「少しでも聞きたいことがあれば、切り込み隊長的に真っ先に手をあげて質問する」(そしてほとんどの場合、絶対聞きたいことがある性分)と決めていたのでありました。
「質問のあるかた、挙手を」の声に、手をあげるオイラ。
というか、前列なので、正直客席の後ろがどうだったのかは見えていないため、それこそいい意味でも空気が読めてなかったかもしれません。
「では、そこのクリーム色の、眼鏡の男性のかた」
え、お、オレ?
やったー!
実はこれまでの間に「もし質問することができたら」で思っていたことは2つ。
1つは「3人の役柄について、それぞれどう個性を出されていたのか」
ただ、これはセミナー内で、どうやら役者当人の地の部分が大きいとの話もあったので、それで解決かなと。
そしてもう1つは、次回作について。
最後のスペシャル(1994年)では、次があるとしたら(孫の誕生もあり)『おじいちゃんはニュースキャスター』というネタがドラマのエンディング内で出てきて幕。
もちろん冗談とはわかっているものの、(リメイクなどではなく)本当に続きがあったら、それぞれどんなことを考えているのだろうかは気になっていたのでした(もしかして、本当に続きを考えていたのかもしれないし)。
マイクを渡され、まずは本日のお礼を述べなくてはと
「同じ世代で見ていたので、今日はこの愛ちゃんたち全員に会える機会に……」
アカン、緊張してる、というか涙ぐんでるぞ、俺。
きちんと質問しなくては!
というわけで、
「続編はあったのか。どんな続編を考えたりしてたか」
という、なんかこうやって文字にするとわかりづらい質問。
まさに、話してはみたけど言葉が一方通行みたい(赤面)。
しかし登壇者のみなさまはお優しく、次の世代の話、(まさに思い浮かんでた)最後のスペシャルでの〆のフレーズの話などが答えとしてあがる。
そして、西尾さんは「書かれたら、どんな話でもやる!」と、まさに役者ならではの心強いお答え!
一方の鈴木さんは「実はこういうのを考えていたんですよ」と語られる。
と、これが想像の斜め上!
「舞台が江戸時代で、お坊さんが各地に隠し子を作っていて……」
なんとなんと!
嬉しくなって、思わず泣き笑い。
ああ、質問をして、本当によかった。。。!(他に聞きたいことがあった人、スミマセン!)
終了後、友人らに「夢のような時間だったー」という中、「質疑応答時に、壇上からみなさんが頭下げてたよ、よかったね」と言われ、ますますジーンと。
いやぁ、本来頭を下げるのはこちら。
(こんなご時世だから言いづらい表現ではありますが)同じ空気を吸える一緒の空間にいることができて、最高のひと時でありました。
35年も忘れられない素敵な作品をありがとうございましたっ!!