18年前、40歳の時に妹と母を一気に失った私が伝えたいこと。
「どんなに苦しい経験も、必ず何かの役に立てられます。自分の身を通して、そう思えるよ。癌で闘病中だった妹を一人で自宅介護し、看取った経験があります。苦しい日々の中にも、たくさんの幸せがありました」。
株式会社リクルート出身であり、クーポンマガジン「Hot Pepper」の全国女性初編集長を務めた杉山美香さん。現在はご自身の会社・株式会社JOYSTYLEの代表取締役として経営コンサル・マナー指導など中心に活躍中。57歳を迎えた今もなお、安定を選ばすに初の有形商材にチャンレンジして、新規事業のインナー開発に奮闘中の彼女。
高校卒業後、金融機関に就職。女性唯一の営業マンとして成績を残して、建設関連企業でもトップ営業として活躍後、株式会社リクルートへ。華々しいキャリアの裏側に、波乱万丈のストーリーがあったことを前回お話していただきましたが『あの話は、ほんの触り(笑)』とおっしゃる美香さん。さらに苦しかった思い出と乗り越えてきた壁について、今回もライター松はるながお話を伺いました。
前編【57歳女性経営者の私が、安定を選ばず挑戦する理由】がこちらから↓
40歳の時に体験した、人生のどん底。
ーー美香さんが40歳の時に妹さんが38歳で癌になってから、最期まで自宅で看護をしたというお話を伺って、衝撃的でした。想像を絶する経験だったのでは・・・?
そうね、壮絶でした。今回はさらに深いお話をしたいと思います。前回、お話させていただきましたが、私は幼い頃に両親が離婚して、母子家庭で育ちました。お金に余裕がない状況から、必死で働いて、リクルートに入社して全国女性初のホットペッパー編集長にも就任。ようやく安定した穏やかな生活……と思いきや、ここからが大変な時期でもありました。
妹は私と真逆の性格をしていて、本当にマイペースで自分の欲望に忠実に生きているような子だったのね。私は誰にも頼らずに、というか母にも妹にも頼れない現状があって必死でコツコツという感じ。妹は水商売で働いていて、お金が貯まったら海外旅行に行くような自由奔放な子だったの。
ーー美香さんは堅実なイメージですが、妹さんは自由奔放だったのですね。
そうなの。突然、フラッと海外に行っちゃうような子で。私が寝ている時間に突然電話をかけてきて『お姉ちゃん、今私、キプロス島にいるとよ! こっちで恋に落ちたけんしばらく帰らん。お母さんにはうまいこと伝えといて!』とだけ告げて切るような子(笑)。母に『妹はいつ帰ってくるの!』と私が怒られたりして、本当笑えるなって思います。これ以上ないほど、面白い子でした。
いつも元気に動いている妹が38歳の時。今でも鮮明に覚えているけれど、その日、東京に住む夫と私のもとに、熊本の妹から電話がかかってきました。告げられたのは『お姉ちゃん、私、癌になっちゃった!』という言葉。妹に深刻さはなかったけれど、戸惑っているような口ぶり。
腹痛で近所の病院を受診したところ、すぐに大きな病院へ行くよう伝えられたとのこと。『先生が自分の知り合いにも10年生きとらした、とか恐ろしいことば言わすとよね……(言うのよね)』。妹も状況が分かっていなかったし、私も癌は早期発見で寛解すると聞くし……。夫に『……妹が癌になったって』と話したら、彼はしばらく黙ったあと『これから僕たちの生活は、ずいぶん変わってしまうかもしれないね』と言いました。私と妹が深刻に捉えることができなかった中で、彼はとても冷静で、客観的でした。
診断は大腸癌でした。私の熊本入りを待ってすぐの入院手術。手術を終えてから、付き添いの私だけが主治医に呼ばれて聞かされたのは肝臓とリンパ節にすでに転移していること。癌は取りきれなかったこと。そのときは癌のことをまだよく知らなくて、先生の説明の意味もよく分かりませんでした。妹はこれからどうなるんだろう。
ーー手術時のことは今でも鮮明に覚えているそうですね?
手術が行われる階だからか、妹の病室に戻る途中の廊下は暗くて、患者さんもあまりいませんでした。まだ若い私に同席してくださった看護師長さんに戸惑いを伝えると『予後のこと?そうね……。10年も20年もって訳にはいかないかもしれないけど……』。
未熟さ故に思いもしなかった、まさか妹の命があと10年しかない可能性がある恐怖。急に泣き出した私に、師長さんは『ごめんね、ごめんね』と何度も謝られました。師長さんのそのときの言葉は、実際よりも遙かに希望を持たせる言葉であったことを、私が知るのはずっと後になってからです。
ーー美香さんお一人で結果を聞いたので、お辛かったでしょうね。
そうね……。当時、母も体調が悪く、妹と相談して、限界まで妹の病気は隠しました。だからその後も、厳しい告知は全て私一人で受けることに。思い返すと、ドラマなら説明を受ける患者家族はいつも2~3人いるよね。最初の手術を終えてから数日後に、腫瘍細胞検査の結果を聞かされたときは、主治医と研修医の2人対私。腫瘍の状態を説明されてもとても想像が追いつかず困惑する私でしたが、察した主治医に『治療しなければ2年は持ちません』と言われて、泣き崩れてしまった。
ーー想像できないほどのショックだったでしょうね……。
本当に。主治医から慣れた口調で『もう少し、ここにいますか』と言われ頷いた私は一人、狭い個室でしばらく体を震わせることになります。主治医は何事もなかったかのように、研修医は私を気に掛けるそぶりを見せながら無言で部屋を出ていきました。早く泣き止まなきゃと。何度も自分に言い聞かせて。早く病室に戻らないと待っている妹が心配する。泣き顔を見せるわけにはいかない。必死でおさえるものの涙は簡単には止まらず。顔を洗って化粧を直し、彼女のベッドに戻るのには少し時間がかかりました。
すでにステージ4の状態でした。
介護生活でこれまでの日常が一変。
ーー手術後はさらに、生活は変わっていったのでしょうか?
そうね、夫が言う通り、本当に変わったと思う。手術後、2年間のことだけど熊本在住の妹はシングルマザーだったので、幼い子どもと一緒に過ごしたい希望もあり、抗がん剤治療は入院ではなく通院で受けていたのね。彼女の治療中、私は妹と母と妹の子を看るために東京と熊本を行き来する生活を続けました。
およそ2年が経ったころ、妹に『黄疸が出て手術することになったけん来て』と呼ばれまたすぐに熊本に飛びました。手術室に入った妹を見た私でしたが、その後、医師から思ったより癌の進行が進んでいて手術ができなかったこと。結果、余命1ヶ月を宣告されました。そのまま私は妹を見送るまで着替えの洋服もろくない状態のまま、東京の自宅に戻れなくなります。私にとって妹に、この事実を告げるのは想像以上に苦しく強さを必要とすることでした。しかし妹には幼い子どもがいました。子どものこれからを選択する責任が妹にはあります。告げないわけにはいかなかった。
妹は、実家での介護を望みました。子どもと一緒に過ごしたい。お母さんがいた家ですごしたい。それが彼女の望みなら、私に選択の余地はありませんでした。病院の先生や看護師の方々からも『末期癌の妹さんを自宅で、お姉さんひとりで見るのは、無理です。お姉さんの負担が大きすぎる』と止められたけれど、妹が『家で過ごしたい』と言うのなら。私は妹を最期まで自分で看ていこうと決めます。その結果、私も精神的にボロボロになっていくのだけれどね(笑)。
ーーそこまでして、妹さんの願いを叶えてあげたかった理由はなんでしょうか?
あまり公には話さないことだったけど、妹が亡くなる前年に、母が亡くなりました。鬱からの自死でした。母はあんなにも助けを求めていたのに私は理解しようともせず、たった一人で苦しませたあげく逝かせてしまった。私には妹のことで精一杯で、母までを受け止める余裕がなかった。鬱が悪化していたのに気付いていながら見て見ぬふりをしてしまった。
私は病気である母に言動は優しかったと思うけれど、心の奥底では憎しみにも似た気持ちを抱えていました。本当なら、母と一緒に、妹のことを支えたい。苦しみを分かち合いたかったのに、それすら許されない。全て私に背負わせて、自分だけの苦しみに浸れる母がうらやましくさえありました。鬱を全然理解していなかった。まさか本当に死んでしまうなんて思いもしていなかった。突然の連絡を受けたときは、私は自分の体を支えられず立つこともできませんでした。
誰からも共感されずに、一人で苦しんで自死した母。後悔してもしきれません。母があんな亡くなり方をしたから、もう後悔は絶対にしたくないという気持ちが大きかった。だから妹のことは、最期まで『どんなわがままでも聞いてあげたい』という一心でした。
ーー妹さんへの愛情ですよね。本当に、凄いことです。
愛情と言ったら綺麗に聞こえるけれど、『妹のためではなくて、自分のため』だったと思います。とにかく母が亡くなった時のような後悔は2度としたくなかった。末期癌の患者を自宅で介護するのは、本当に壮絶。ここではちょっと話し切れない。
訪問看護の方にもケアをお願いしていたけれど、私もやっぱり精神的にはボロボロになっていた部分があったようで。実際は3ヶ月続いた、24時間休みなく末期癌患者と4才の子どもの世話が伴う介護。当時の私は、おそらく精神的にギリギリの状態が続いていたんだと思う。最後のひと月は集中力に欠け、注意力も散漫。友人が自宅に来た時は私のことを見て、第一声、『美香、お願いだから今すぐ妹ちゃんをホスピスに入れて!』と言われて驚いたことがありました。
客観的な判断も出来なくなっていたんだろうね。当時は、眠れず、看護師さんから『寝ないと倒れますから』と強く言われて睡眠導入剤も服用していたし、相当様子もおかしかったのだろうと思います。
自分の仕事、妹の看護、妹の子どもの面倒を看るのと、生きているのに必死な時期でした。ある意味、母の死や妹の現状を悲しむ暇もなかったな。
どん底の中にも感じられた「幸せ」とは。
ーー想像を超える辛い時期だったと思いますが「幸せを感じることもあった」とおっしゃっていましたよね?
思い出すと辛いことも多いけれど。不思議なことに、すごく幸せを感じている時期でもあったのね……。今でも思い出すのは、4月の晴れた日。心地いい風が入ってくる部屋の中で、妹が『お姉ちゃんがいてくれて良かった。私だけだったら、片付けできないから散らかったブタ箱で死ぬところだったよ(笑)』なんて、妹がポツリと言ったの。ブタ箱ってね。これから死を迎える人との会話じゃないよね(笑)。
妹も幸せそうにしていたし、訪問介護の方々や、訪問看護師長さんも『お姉さん、大丈夫ですか』と寄り添ってくれて。そういう温かさに涙が出ることもあって、矛盾しているかもしれないけれど、幸せな時期でもありました。
ーー壮絶な体験から、美香さんが多くのことを得られたというのも感慨深いですね……。
そうだよね……。壮絶な体験だったけれど、妹のわがままを全部叶えられて良かった。母の死の時に残した後悔を糧にできた。妹の見送りに関しては、私も本当にやり切って、何も後悔していません。そうできて、本当に良かったと思う。
母と妹が私の残してくれたことは、とても大きくて、良いことも悪いこともあります。だけど、それを悲観していても何も変わらないからね。母は妹と違って『頑張り続けて我慢の人生だった人』。妹は『自分の欲望に忠実で、自由にわがままに生きた人』。正反対の二人から学んだことはたくさんあります。それを今生きている私が、どう活かしていくかだなと思っています。
それでも前向きでいられる秘訣。
ーーそういう体験を経て、心の闇が大きくなる人もいると思うのですが、美香さんはどうして前向きでいられるのでしょうか?
この話を知っている人には、そう聞かれることもよくあるのだけど。私には『なんであの人は?』とか『どうして私ばかりこんな目に合うの?』と嫉妬というか、恨み?のような感情はなくて。その理由は『人生は平等じゃない』ということを受け入れられているからだと思う。
不平等であるのは当たり前で、みんなそれぞれ何かを抱えていて、だから不平等じゃない現実をいかに楽しめるかどうか。そういう視点で見ると、前向きでいられるのかもしれないね。
お母様と妹さんの思い出も、新規事業につながる部分があるのですよね?
ありますね。やっぱり『自分を大切にする』って、本当に大切。言葉では簡単だけど、実際にはとても難しいですよね。私も40代までは、母のように頑張るだけの人生を送ってきたけれど、現在57歳にして、自分の娘も社会人になって自立して『自分を大切にする』がとてもバランス良くできてきている気がします。最近は、良い意味で無理しないで人生を楽しもうと思うの。
母も父も65歳で逝ってしまって、妹は40歳で他界。短命の家系に生まれて、どんどん自分も65歳に近づいてくると『もっと人生楽しみたい』『自分を大事にしたい』と変わってきた部分がありますね。周りのことを優先して、相手の気持ちを大事にする人ほど、頑張り屋さんで、ひとりで抱えて我慢の人生を送る人も多いと思います。そういう人たちにも『もっと自分を大事にしてあげてね』と心から伝えたいな。
頑張る女性を応援したいと前回もお話しましたが、それも母と妹の体験があるから。頑張る女性ほど自分を後回しにしたり、大切にしたりってことが難しかったりするのよね。新規事業のインナー開発を通じて、自分を大切にする、ケアすることの大切さを伝えていけたら良いなと思います。
新規事業にチャレンジする理由。
インナー開発にはどんな想いが込められているのでしょうか?
よくぞ聞いてくれました(笑)! 新規事業は初の有形商材『インナー(下垂を予防して健康に美しくなれるブラジャー)』を開発中です。私自身、ありがたいことに『実年齢よりも若く見えるね』と言ってもらえることが多くて。でも実は、スキンケアも人並みにすらしてできないタイプなの。よく『何もしていませんよ〜』という謙遜のアレじゃなくて、本当に化粧水すら塗らないとかもあるし、メイクだけは毎日落としているけれど。
夫にも呆れられているくらいで、夫の方がちゃんとケアしている(笑)。もっと若い頃からきちんとケアしていたらよかったな〜と思うところはあります。
そんな私が唯一、お金と時間をかけて、しっかり40年以上ケアしてきたのがバストケアでした。私にとって、大きなコンプレックスだったとはいえ『なぜブラジャーなの?』と疑問に感じる人がいるのは当然だなって思っていて、だって、バストって誰に見せるわけでもないでしょ? でもだからこそという想いがある。自分の体を自分で見た時に『バストが下がったな』と感じたり、体型の変化に気付いたりすると、自己肯定感がすごく下がると思わない?
思います。見えない部分だからこそ、より大事というか……。
そうなの! いつまでも若々しくいるために、見える部分を大事にケアしていくのも大切だけど『見えない部分のケア』って、自分のマインドや生き方にも深く繋がるから本当に大事だと思うのよね。私がなぜか若いと言ってもらえるのは、見た目の部分ではなくて、マインド、生き方、考え方とか見えない部分のインナーケアを大事にしているからじゃないかなと考えさせられています。
夜につけるインナーから予防美容を広げたい。それは『現状を悪化させないための美容』が、自己肯定感を安定させて、自分らしさを輝かせる方法のひとつだと考えているからです。ないものを求めるのではなくて、今あるものを悪化させないで愛するケア。若々しくいられる人はとても素敵ですが、若くなりたい!と、ないものねだりではなくて、自然と年齢を重ねることも受け入れて『いくつになっても自分を好きでいられるための美容』も大事だなと個人的に思っています。
『人が認める美しさよりも、自分がありたい美しさ』がやっぱり自己肯定感に繋がるなと思うのは、例えば誰かに『綺麗だね』と褒められても、自分がそう思えていないと素直に受け入れられないこともあるでしょ。バストケア、インナーケアとか、心のケアとか、見えない部分のケアをしていくと『自分がありたい美しさ』を実現できると思っていて。誰かが認める美しさよりも『自分が自分を気に入られるかどうか』だなと、現在57歳の私は思います。
最後まで読んでくれた方に、伝えたいことをお願いします!
私が今まで体験してきたことは、辛い思い出もあるけれど、見方によっては『誰かの役に立つ貴重な体験』でもあるのよね。母が鬱で亡くなった経験は、夫や、他の誰かが鬱になった時に役立ったし、妹の死は、人生が有限であることや、今を楽しむことの大切さを知らされました。起きたことを『どう見るか?』で人生は180度、変わります。人それぞれ、色々なことがあると思うけれど、その経験が、いつか自分の・誰かの役に立つということだけは忘れずにいて欲しいですね。
新規事業へのチャレンジも『もっと自分の人生を楽しんで欲しい!』が本当に伝えたいことです。残された時間を考えたら、自分の貴重な時間が無限にないことを実感できるでしょ。母と妹を早くに失った私はそう感じられるけれど、残された時間の大切さに本気で気づけば気づくほど、人生は豊かになると思います。
長くなりましたが、私の過去の経験と、これからのチャレンジを見て、誰かが元気になったらいいな〜というのが一番。残された人生、どう楽しむかが重要です。自分を大切にすることで、周りの人も大切にできて、より幸せになれると思います。一緒に楽しんでいきましょう!
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