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大満足・潔さ・チェンソー
看板にはテリーヌとだけ書いてもいい。
「大〇〇」という言葉に弱い。
大成功、大発見、大好き...
どれも大をつけなくても成立する言葉なのに、あえて小学校1年生で習うような根源的な漢字を添えるという行為が、両手を目一杯広げて伝えようとしているようでグッとくる。
先日友人と車を借りて旅行に行った。
その帰り、いよいよ旅もおしまいというところで、友人が突然「いや〜大満足!」とつぶやいた。
おお、良いな。大満足、なんて無防備で純度の高い言葉だろう。
そこに自分がどう見えるかという戦略的なものは一切なく、心の底までたぷたぷに満たされているようすを開けっぴろげに見せてくれているかのよう。
無邪気さや裏のない人のもつパワーはすごい。
世界にありのままで存在し、喜怒哀楽を正しく味わっている感じがする。
ただ何も考えていないのではなく、理不尽にはきちんと傷付き、納得いかないことに怒り、楽しい時は全力で楽しむ。これがどれだけすごいことか。
傷つくことを恐れているくせに、他者からの承認が欲しくてたまらない私のような人間とは対極の存在だ。
ところで、私は「チェンソーマン」が好きだ。
話が変わったようで変わってないつもりなのでちょっと聞いてほしい。
チェンソーマンは、タイトルが「チェンソーマン」であることが最も気持ちいいポイントだと思っている。
ダークな世界観や数々の表現の発明、展開の予想できなさ。そのとんでもなさをチェンソーマンというタイトルでパッケージングすることで、作品がバラバラにならずに成立しているような気がする。
…感じたことをそのまま書くとそんな感じ。上手く言語化できず悔しい。
作中で読み手が経験したことのない表現や展開がたくさん起こり、普通だとついていけなくなりそうなところを「〇〇マン」というわかりやすさの極致のような名前で包むことで、一連の内容が塊になるというか…
その塊感の気持ちよさを、チェンソーマンには感じる。
そして、この感情と大満足という言葉に感じる気持ちよさに近い気がするのだ。
共通するのは潔さだろうか。
複雑な要素を「これでいいじゃん」と表現する気持ちよさというか。結果、受け手にするどく刺さる。
私も「大満足!」と言える人間になりたい。
ごちゃごちゃ考えていたとしても、アウトプットはシンプルに、潔く。