ゴジラの「怖さ」を考察する:ゴジラ-1.0を見て(4)
ゴジラ-1.0について、私なりの感じ方、考え方として評論めいたものを3回書いてきました。今日が最後、と思っていたのですが、その前にもう1つ。ゴジラの「怖さ」論を書いてみます。
今回もまたネタバレありなので未見の方はご注意を。
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言うまでもなく、ゴジラは怪獣映画です。ゴジラに限らず、怪獣映画において怪獣は、人間が普通の生活を送っているときに襲ってきます。そして人間はその怪獣に対し「恐怖」を感じ、立ち向かっていくことになります。
この「怖さ」がこそが怪獣映画の怪獣映画たるゆえんであり、その意味では映画の世界観を成り立たせる根本的な要素であると言えます。
そしてゴジラにおける「怖さ」の最高峰が1954年版のオリジナルの「ゴジラ」だということは衆目の一致するところでしょう。
「怖さ」は主観ですから、見る人それぞれに「怖さ」があると思うのですが、自分としては、人間の事情など無視してたたみかけるように繰り返しゴジラが出現するその「テンポ」それ自体に、人間を超越した存在としてのゴジラの「恐怖」を感じました。何度見ても変わらぬ「怖さ」があります。
同じような形での「怖さ」を感じる怪獣としては平成ガメラシリーズでのギャオスがあります。このシリーズ、ガメラ自体は人類の味方なので「怖さ」はそれほどありませんが、ギャオスが、ただただ食料を得るために人間を捕食したり共食いをしたりしていくことで、やはり人間を超越した存在としての「怖さ」を印象づけます。
他に、怪獣の「怖さ」としては造形に由来するものもあるでしょう。その点で言うと、瞳がない生物には人間は「怖さ」を感じるそうで、劇中で白目になるゴジラが登場する作品があったと思います(怪獣大戦争だったか?記憶違いだったらすみません)。
「シン・ゴジラ」のゴジラはどうでしょうか。率直に言うと、私はあまり「怖さ」は感じません。
進化・変態を遂げ(このあたり、ファイブスター物語のドラゴン/ブリッツと同様ですが)、B-2ステルス爆撃機さえ探知・撃墜するゴジラに、兵器的な「強さ」、そして「強い敵」に由来する「怖さ」は感じるものの、1954年版ゴジラやギャオスに感じるような、「人間を超越した存在」としての「怖さ」は感じ取れなかったのです。
そして本題。「ゴジラ-1.0」のゴジラ。
繰り返しますが「怖さ」は主観です。なので私の感じ方はあくまで私の主観でしかありません。
その前提でということになりますが、最初に大戸島守備隊の整備員たちを捕食した恐竜時代のゴジラも、光線を発するようになったゴジラも、私が受けた印象はどちらも兵器的な「強さ」に留まりました。
特に、重巡高雄を光線で倒したあたりで、「あ、このゴジラは『無敵の超兵器』なんだな」と思い、「怖さ」を感じるスイッチが入らなくなってしまったのです。造形的には、獰猛な顔つきや身体の表面の荒々しさなど、「怖さ」を印象づけようと工夫されているとは思いますが。
ここまで言語化してきて自分でも整理できたのですが、「怖さ」と「強さ」は違うということなのだと思います。「強さ」をリアリティを重視して描くとすれば、「劇中に登場する兵器との関係」での「強さ」と言うことになります。そうなると、例えば「20cm砲弾を受けてもゴジラは死なない」とか、あるいはシン・ゴジラでの「120mmAPFSDS弾でもゴジラの体表は貫通できない」と言ったように、「現実に存在する何か」との関係での「強さ」の描写になるので、「(現実とは関係ない)得体の知れない怖さ」を感じにくくなるのかもしれません。
このあたり、第1回で書いた、「怪獣映画の『リアリティ』」とも関わってくることなのかもしれませんね。
本当は今日で最後にしようと思っていたのですが、またも1500字を超えてしまいました。次こそエンディングについて書いて最後にします。