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お山のふもと に移住して、3回目の初夏が来る。その1

なぜ、わたしが東京から赤城山麓、群馬県前橋市富士町に移住したか、そしてなぜすぎな農園の進さんに農業を学んでいるのかを紹介しようと思います。

長くなる予感がしたのでその1ってしてみました。

わたしは田舎が向いていた

「田舎に向いている人」と「向いていない人」っていると思うんです。田舎暮らし2年目を終えようとしているわたしは明らかに「向いていた人」です。
田舎はまずお店が少なく、わたしが住む群馬県は、車移動が中心で、電車にもバスにも乗ることがほとんどない。

東京の密集した場所にいると電車に乗っただけで、乗り換えをしただけで、街の風に触れるだけで、一気に多彩な情報が流れ込んで来ます。そしていつも知らない誰かと至近距離。毎瞬感じるあの東京独特の「皮膚感覚で流行を感じるようなこと」。あれはここに住んでいると、ほとんどないです。それは我が家にテレビがないから余計そうなのかもしれないんですが。なんなら自宅ワーカーな私は1日中誰にも会わない日すらあります。

車移動も苦じゃないです。
近所付き合いも隣組みたいなものがありますが、年に数回会合があったり、野菜をいただいたり渡したり、ゆるやかで暖かな繋がりが心地いいです。

というかそもそも東京に向いてなかった

私は、もともとは東京っ子です。厳密にいうと多摩っ子です。
東京の西のはずれ、あきる野市という平成の大合併でうまれた町で生まれ育ち、東京多摩地区に長く暮らしていたので、里山の風景が身近だったんですよね。


だから30歳すぎてからの23区への移住は結構しんどいものがあり、23区住み、23区勤務は、あっという間にヘトヘトになってしまいました。
うん、だから里山が恋しかったのか。里山に戻りたかったのか。今更ですけど、そう思ってます。

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東京で勤めてた場所は色々でした。立川が長くてあとは、三鷹、中野坂上、都庁前、歌舞伎町、田町。


ある時は高層ビルで。
40階のオフィスで、朝から夜遅くまでキーボードを叩いて液晶画面とにらめっこ。満員電車1時間近く真っ暗なトンネルを駆け抜ける大江戸線で通勤していたこともありました。地下深い地下鉄の駅から外の空気を吸うこともないまま一気に地上40階。エレベーターに乗ると毎日耳はキーン。ってなってたなぁ。

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勤めていた会社の窓からのショット。当時のスマホに入ってました。
(悲壮感よ・・・。)

あの頃は、「会社の業績があがるために」とか「お客さまが喜ぶために」とか「自分の成績をあげるために」とか、なんだかよーわからんいろんな大義名分があって、頭ん中クルクルしとりましたです、はい。
目の前の仕事は作業でいかに効率よくとかそんな感じだった「気がする」。うん、もはや、「気がする」という感じです。記憶喪失に近い感覚で、そういうことを考えながら仕事をしてた時期があったなんて、今からすると別の人の人生をなぞっているような気さえしてますが、あれ?そっかまだほんの5年前までそんな暮らしをしていたんだ。私。


無理やり東京で暮らしてて遂にクラッシュ。

大学を卒業したあたりから「普通に社会人にならなければ」と社会について行こうと必死でした。人に何かを伝える仕事で何かを作り上げたくて、広告という物を作ってみたくて広告制作会社に入社しました。

20代後半になってようやく社会に馴染み始めた頃、今作ったら周りに迷惑がかかるなあ。って子どもを作ることは「もっと先になってから」と後回しにしていました・・・。そんなことをして気がついたら30代半ば。気がついたら当時の結婚相手とは、反対方向を見て歩いていました。
家族は解散・・・。


自然の中で、いのちのめぐりを目の当たりにしている今となってみると、
私は生き物としてなんて不自然な考え方をしていたのかと、愕然とします。


離婚して一人暮らしが始まって、23区への通勤が長く感じて、多摩地域から23区に引っ越したあたりで「これは無理だ」と身体がレッドカードをあげ始めました。とにかく今にして思うと東京に、サラリーマンとして働いて社会についていくのが本当に必死でした。

一体、何してたんだ、私。

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上野で。


あの頃の私は、”野の草たち”と、「今、この時を」、同じ星に暮らしているだなんて、実感していなかったように思います。もっと正確にいうと「実感してはいけない」と思っていたような気がします。そんなドリーミーなことを、考えてはならぬ。自分で勝手に脳内奴隷制度を敷いていました。こわ!


野の草たちと戯れることが許されるのは、「非現実」な旅の間だけ。「非現実」な休みの束の間だけ。毎日なんだか地球みたいな まーるい星には暮らしてるんだけど そこはぐるりと一周全部ネオン街でできていて、それなりに毎日はあるんだけどその星をひたすら遠泳して生きてた。そんな感じでした。


でも、心も身体もほんとうは”野の草たち”の近くに居たかったのでした。
”野の草たち”に見守られた暮らしがしたかったのでした。

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渋谷。まだ駅前がずっと工事していた頃。学生さんたちが
魚の群みたいだな。って思ってシャッターを切ったことだけ覚えています。


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東京駅。よく八重洲口の魚が美味しい居酒屋に行ったっけ・・・。
さては酔っ払って撮ったんだな、記憶がない。これもスマホに入ってた写真。毎日疲れて何も考えたくないからお酒に逃げてたなあ。


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そして池袋。写真の学校の課題として撮影したものか?それにしてもこれまた悲壮感がすごいぞ私。

東京での自分の暮らしを想ってちょっと心が冷え込んできたので
最近久しぶりに見つけたテニスコーツを貼ってみる。
東京だって、素敵な場所、大好きな人がたくさん住んでる。
なのになんでこんなにすっごく切なくなるんだろう?
(全然関係ないけどテニスコーツの二人が、わたしが今お世話になってるすぎな農園の夫妻に似てて、なんだかシンクロニシティした。)


ふぅ。



今こうして写真を並べてみても、あの場所と今ここにいる場所が同じ星だとは。

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東京に住んでいたころの、窓からの景色。



これが



今は

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こう。



目をさましたら、こんな景色が一面わたしを包んでくれる。

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すぎな農園のみなみの畑から前橋市内をのぞむ。

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わたしの畑。

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裏の竹林からいただいた、掘ったばかりの筍を、ついたばかりのお米から出た糠で茹でる。大好きな調味料で煮るしあわせ。




東京脱出。

1980年生まれのわたしは、2018年38才になる年に、38年暮らした東京を後に、前橋市に移住しました。東京に住んでいた頃は、前橋っていうと県庁所在地、街の印象があったんだけど、ここ富士見はとてものどかな里山で、わたしの暮らす場所は隣のおうちまでは歩いて3分くらい。大きな声で歌を歌いながらお風呂に入っても誰の迷惑にもならない。ここも平成の大合併で、もともと「富士見村」という村が、前橋市と一緒になったのだそうな。
群馬の真ん中より少し上あたりに位置し大きな山「赤城山」の麓にあって、標高は300mくらい。前橋の街中よりも気温は2、3度低く感じるような場所。
今は、毎日が、平穏でおとぎ話の中にいるような景色です。

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田舎暮らしの先輩である友だちの投稿をみて、すぎなを摘む。カラカラに干して、塩と混ぜて、すぎな塩を作った。

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夫は前橋街中でサラリーマンをしている。
毎日お弁当を作ってるから、自分の分も一緒に作って、借りているお家の隣の畑でお弁当を広げてブレイクタイム。


やっとやっと、身体全体で、呼吸できている、そんな感覚です。


ちょっと長くなったので今日はここまで。


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丸山 えり Eri Maruyama
1980年東京都あきる野市生まれ。
広告制作会社を経て、有機農業に興味を持ち群馬県内の野菜を取り扱う草木堂野菜店に勤める。2018年群馬県前橋市赤城山麓に移住。日々すぎな農園に入り浸り遊んでいる。2020年は進さんに農を学びながら、自分で畑を借りて、おさらいをしている。
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すぎな農園
前橋富士見町で平飼い養鶏と自然農で、野菜と穀物を栽培しているすぎな農園です。すぎなは畑の嫌われもの。でも、すぎなは、珪酸をはじめ、多くの薬効ある成分を、地中深くから地表に運んでくれているのです。
“かえりみられなかったもののなかに宝はある”「すぎな農園」という名前には、そんな思いが込められています。
たまごは、ひよこからお米を中心としたエサで育てたニワトリが産んだ平飼いたまご。 耕さない畑で、農薬や化学肥料を使わずに季節の野菜を栽培しています。
お問い合わせは suginanoen@gmail.com竹渕 まで。
これまでのブログもぜひ読んでみてください。https://plaza.rakuten.co.jp/suginanouen/diary/201611190000/

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