東京

『東京。東京。お降りの際に足もとにご注意下さい』
 僕はその瞬間記憶を無くした。というより、元から記憶なんて無かったのだと思う。あるのは、眼前の風景だけで、この身体のうちには優しいものも悲しいものもなんにも無い。肥えたサラリーマンが不満気に、立ち尽くす僕を避けて階段へと向かった。どうして東京駅にいるのかも分からない。ただ、ここに来ないといけない理由があったと思う。電車が次の駅へと向かった。質量が動いて生まれた風に吹かれて一歩だけ前に踏み出した。すると目の前に白いワンピースを着た女性が立っていてこちらを見ている。僕より五センチくらい低く、黒髪が艶々と都会の無機質な光を反射している。
「君、このあたりで天に一番近い塔を知っているか」
 僕は呆気にとられたが、知らないと答え、せわしなく列を作る大勢の人間の後ろに並び、無心でエスカレーターに乗ろうとした。横目には横浜に向かう電車が遠くのホームに到着して、ここまでの人をはき出し、南下を目論む人々を吸収していた。眼前の一段高い所の黒いスーツを来たサラリーマンがスマートフォンをいらっている。スマートフォンが魂を吸っているように無表情だった。窓越しには車内で虚空を眺めている人が多くいた。電車が起こす無機質な風が、無機質に植えられた木々の葉を乱暴に揺らしていた。黒いドレスで正装したポンパドールの婦人の右手に左手が繋がれた小さな子供の少し見える顔に表情は無く、その繋いだ体温から魂が吸われているようにも見える。無表情、無表情、スマートフォンに写る無表情。
待て、よく見たら、彼ら全員に目や鼻がない。のっぺりとした皮膚の上に髪型がのっているばかり。エスカレーターは強制的に僕を動かす。大量の人、人、人は、その名刺である顔の部位がすべて消滅していた。行き交う人、行き交う運動、その動機であるはずの感情が全く分からない。慌てて自分の顔を確認しようとしたが、付近に鏡がない。通路で複数の脈絡のない動作をしもう一度ホームへ戻り、取り乱す。そうだ、触覚か、と手で顔を触ったら、あるべきはずの凹凸がない。やはり、ないのか、自分にも表情が。怖い、恐ろしい、感情だけ膨らみ続け、泣きたいと指令を出すが、目がないから泣けない。叫びたいのに、口がないから叫べない。ふと気付くと、視界が真っ暗だった。当たり前だ、目がないのだから。感情だけが爆発しそうになるのに、表現ができない。口がない。恐怖心由来の吐き気、吐きそうなのに吐くことも叶わない。吸うこともできない。今までどうしてただろう。当たり前にしていた呼吸ですら、やり方があったのだ。そもそも今までとは何だ。鼻もないから息ができない。僕は何をしている最中だった。確か、どこかから来て、東京駅に降立ち、記憶をなくしたところだ。僕が今持っている情報は、ここが東京駅だということと、自分と数十名の無表情と、先ほどの女性のみ。待て、先ほどの女性には表情があったはずだ。どんな顔をしていたのだ。思い出せない。人の顔が恋しい、人の顔が恋しいのに。唯一の頼みの綱である彼女の顔は全く思い出せない。苦悩に起因してかきむしろうとする頭と手の感覚は勿論ない。心中に不安と焦燥ばかり増幅する。死ぬのか。死んでも良い。ただ、苦しんで死ぬなら、せめて最後に人を思い出したい。なのに、彼女の表情を何故覚えていないのだ。ぶつかったサラリーマンの体温すら愛しい。あのサラリーマンすら僕は好きだったのだ。夕日に映える鳥も、公園の隅のおでん屋も、政治家の必死な演説だって、愛を歌うシンガーソングライターだって、みすぼらしい自分だって、このたくさんの矛盾を抱えた東京の街だって、全部、何もかも好きだったんだ。感じた全てに、美しさがあったのに。何で気づかなかったんだろう。好きだったのに。心中には情景もない、思い出す自分の面影もない、あるのは刹那を刻み続ける意識だけ。考えるのを止めたら意識もなくなりそうな気配がする、嫌だ、でも、もう考えることがない、息苦しいし、恐怖を保持し続けられるだけの体力もない。ああ、もう一度、会いたかったな。全人類にかな。いや、白い、ワンピースを着た、女性。遠のく意識の果て、自分が無に帰してゆく……。やっと、無に、帰れる。そうか、無が、真理……
「君、この辺りで天に一番近い塔を知っているか」
 知っているよ。
「生きることでしょう」
 僕の目が開いた。こんなにも希求した知覚なのに、眩しすぎる朝日にやっと開いた目を細めてしまう。手を、太陽と視神経の間にかざし、また再びまぶたの筋肉に、見させてほしいとお願いする。見させてほしい。息は上がって、肩で幸せに呼吸する。太陽光に包まれた薄ら白い世界、太陽と手の間には白いワンピースを着た女性が立っていた。眼下には、東京の街が広がっている。大きなビルディング、遠くに山、海、広がる街中に人間の姿は確認できない、ただ眼前の彼女だけ。都会の真ん中にそびえ立つ地上六百三十四メートルの電波塔。あなたは何を、発信する。
「何もないことで、縮小し続ける。何かを知覚するたびに、拡大。エネルギーが混ざり合って、拡大。人と人が出会って、人が人に恋して、生きる意味に気付いて、死ぬ意味に気付いて、たくさんの人が一緒に生きていることに気付いて、心を振るわせる歌に出会って、魂を揺さぶる関係性を構築して、人と同じ幸せを獲得しようと、創出しようと思いまた人に恋して。拡大を繰り返して、人は天をようやく見渡せる。この景色を共有できる。どれだけ高い塔を作っても、そこは物理的な天であって、我々が望むものではないことは、もう分かっているでしょう」
 彼女は都会を振り返り、僕に背中を見せた。傷だらけの背中に、羽などなかった。ただ、生臭い血の臭いと、深紅の液体がこぼれ落ちている現在進行形によって、生命が強調されているばかり。概念じゃない、彼女はそこに生きている。止血しなければ。生の肉も見えている。かさぶたになっている傷跡もある。傷のない右肩に右手を乗せた。温かかった。左手も回し抱き寄せた。僕の表面にも血がついていく。温かかった。僕の内側にも同じものがあるはずなのに、それは知覚できなかった。
「ここは、天ではない」
 そう彼女が言うと、ガラスが一枚綺麗になくなって、外気が爆風となって空間に入ってきた。風と一緒にたくさんの紙と埃が室内に巻き上げられている。自分の質量を存分に使って、彼女を離すまいと、必死に床に立つ。しかし、吹き飛ばされてしまった。彼女との距離が開いて知った、彼女に傷はなかった。僕の服に血も付いていなかった。よく見ると室内を飛んでいる紙はラテン語で書かれた聖書だった。小学校の頃使っていた理科の教科書だった。中学生のとき描いた自画像だった。高校生の頃書いたラブレターだった。いつか徹夜して読んだ青春小説だった。自転車を放置していたら貼られた警告切符だった。遊園地の案内図だった。携帯電話の契約書だった。ダブルベッドの領収書だった。涙をぬぐったティッシュだった。出せなかった婚姻届だった。一緒に聞いた歌手の歌詞カードだった。クラシックコンサートのチケットの半券だった。二人で写った写真だった。
 全部捨てたはずだった。記憶も、質量も、夢も、希望も、生きる意味も。知覚は麻痺し、思考は錯乱し、現実は僕を置いて進んでいっていたはずだった。僕は物理法則から取り残されていれば良かった。精神の死んだ肉体が、あらゆる化学的原因に支えられて存在し続けることを、現象として絶対に認識してやらなかった。目を開けると、彼女はいなくなっていた。風も止んでいだ。ただ、紙が散らばった室内と僕と、太陽光線だけだった。小さな円から放射状に伸びる鮮やかな色の光線。優しく温かな光に包まれ、膝をついた。眼前の恒星は、地球だけでなく、色々な星を色々な強さで照らしている。
普段は彼が眩しくて他の星が見えないけれど、見える時に僕らは星に名前を付けるから大丈夫なんだ。ああ、僕にとっての君も同じなのか。普段に君がいなくても、きっと、色んな名前の奥に君を見つけられるから大丈夫なんだ。君に、会いたくて、数え切れない夜が今後も続くけれど。君のいないときに広がる景色もたくさんあると君は言った。君は世界に散らばった。僕は、また、貴女に会いたい。同じ水平線上にいないだけだ。喪失はそれだけでは何も生み出さなかった。簡単に全てを殺していくのは楽な作業だった。それでも君に会いたい気持ちが残ったのは、僕は儚い生き物だと、そろそろ気付かないといけないからだ。そう、否、君は世界中に存在している。探しに行けば良い。だから、もう少しだけ、生きることをしなければならない。自己満足が回答ではない。だけど、自己満足もできない人生は多分に猥雑だ。
 ふふ、と君がいつもそうしたように笑って、深く目をつむった。
 喧噪を、電車の発射音を、人が取引先と電話する声を、知覚して目を開けたら、僕の目の前に満員電車が止まって扉が開いた。暑苦しい汗をかくサラリーマンや、けだるげな女子高生、体積をとる外国人観光客らが下りてくるが、そこに僕の姿はない。皆、様々な表情を浮かべ、他人の振りをしていた。僕は電車にも乗れないまま、ずっとホームで立ち尽くしていた。思い出したことがある。僕はずっと、東京に愛する人の面影を求めて、巡り巡る山手線に輪廻を重ねて、何もしなかった事実があった。
 思い切って、その電車に乗り込んだ。スマートフォンをいじる中学生、ファッションの話をする高慢な大声の二人のおばさん、居眠りする青年。いる人を確認するのはこんなにも簡単なのに、いない人を探すのは何故こんなに難しいのだろう。めまぐるしく変わる外の風景、桜並木、川、ビル、飛行機雲。
 君が見せてくれた風景は、どこにいけばあるのだろう。君が見たかった景色はどこで見られるのかな。僕はどこにいる。知覚しなければ、議論すら始まらない。知覚は、素敵なこと。君はいつもそれを教えてくれたというのに、今の今まで理解できていなかった。今も良く分かっていないと怒られるかな。少しずつしかできないと思うけど、拡大して、僕も天まで行くよ。遅くなって申し訳ない。だけど今、列車は走り出している。終点は――

(了)

いいなと思ったら応援しよう!