上野

『上野、上野。お降りの際は足元にご注意ください』
 降立った上野は焼け野原でした。零戦が空を飛び、空襲警報のサイレンが鳴り響き、頭から血を流した母親の何か抱える腕からは、服なのか皮膚なのか最早区別のつかない黒くただれたものが見えます。東京文化会館は向かって右上の屋上が既に崩壊していて、演奏会のポスターやチラシが風で吹き飛んでいます。けたたましく爆撃音とサイレンの音が重なり、大惨事です。
「パンダは大丈夫だろうか!」
 不意に横を通り過ぎた朴訥そうな制服姿の青年が駅の方向へ走りながら、群衆に押し戻されながら、叫んでいました。皆も彼も、必死です。私は、今なら入園料も取られないのでその言葉をきっかけに動物園に向かうことにしました。二十年ほど前に登録された世界遺産も空襲を受けその姿が分からないくらいで、結局すべて原子の結合なのかと情けなくなるくらい、何らかを構成していた破片が辺りの景観を害しておりました。遠くに普段なら遮られて見えるはずのない東京都美術館も見えます。火を消せるありがたい噴水は役に立たず、通りを形成する木々は燃え尽きています。そちらの方向は人ももうまばらです。主に人は動物園の方から来ているようです。
「なんだ!邪魔だ!」
 普段は気の良いだろうサラリーマンが醜い罵声を腹の底から出すほどの動乱です。押し戻されまいとただ、進みますと、動物園の入り口は全くの無傷でした。しかし園の敷地を囲む柵はあちこち破れています。園の近くは人が少なく、フラミンゴがいます。細い脚を余すことなく見せつけていました。逃げ惑う人間によって、フラミンゴの毅然した様子は際立っていました。続いて上空に見慣れない鳥も確認できました。まだ午後四時くらいなのですが、周りの炎で赤く夕暮れのように見える空で、どこかへとせわしなく飛び立っていきました。動物園の中も、あちこちの柵が壊れており、木とその下の雑草が燃えています。
ライオンは檻の中であくびをしていました。外を薄目で眺め、また閉じて低く唸りました、一見ではいつもと変わらない様子です。メスの方はしきりに檻の中でうろうろし、たまにうなり声をあげています。遠くで象が吠えました。少なからず、動物らも異変を身体で表現しているように思います。クジャクが前を横切りました。キリンが鉄格子の檻に向かって何度も体当たりしています。道でグッタリとしている山羊、アルパカ。フラミンゴは園内にもいました。やはり優雅なその脚を伸ばし、こちらを見つめてあちらを向きました。そしてようやくお目当ての建物に着きました。
 パンダは笹をむしゃむしゃ食べています。のんきに食べカスの笹で自身の身体が埋もれていっています。天井に穴が開いていて、観覧スペースはコンクリート片や、説明のパネルが静かに破壊を物語っています。尚もパンダは笹を食べ続けていました。山積みになった笹を食すには、このペースだとあと数時間かかりそうです。むしゃむしゃと食べています。パンダは大丈夫でした。このことを急いで青年に伝えなければと思いました。
駅の方に戻ろうとしましたら、戦車が前から現れました。四トントラックも後ろにいます。キャタピラの轟音が私の横を過ぎていき、しばらく耳が機能しませんでした。駅までの道のりは往路よりも荒れています。そもそも動物園の入り口は消えていて焼け跡になっていました。入園券や案内図が空中に歌舞いています。地面は砂利が向きだしになり、複数のモニュメントが破壊されていますが、現代芸術と言われれば合点しましょう。近代国家の面影は全くなく、駅前に人も何人か倒れています。
 彼はまだ駅前にいました。私が近づこうとすると、彼は全く動かず直立していている様子でした。あと数メートル。そんな距離で彼の膝は曲がり、同時に右肩を先頭にして地面に倒れました。よく見ると頭から血を流しています。目は開いたままですが、もう駄目そうです。彼に「パンダは無事ですよ」と伝えようとしましたが、適いませんでした。私の嘴などの器官を持ってしては、人間の言葉が話せないことに気付きました。私にできることと言えば、灰色の翼で空にはばたくくらいでした。所々から煙を上げる、焼け野原の上野で、隊列を整えた戦車とトラックが、都庁の方向へ帰って行きました。後に知ることになるのですが、これは、世界で上野動物園にしかいなくなってしまったパンダを懸けた戦争だったそうです。

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