東京
『東京。東京。お降りの際に足もとにご注意下さい』
僕はその瞬間記憶を無くした。というより、元から記憶なんて無かったのだと思う。肥えたサラリーマンが不満気に、立ち尽くす僕を避けて階段へ向かった。どうして東京駅にいるのか分からない。ただ、ここに来ないといけない理由があったと思う。電車は次の駅へと向かった。質量が動いて生まれた風に吹かれて一歩だけ前に踏み出した。すると目の前に白いワンピースを着た女性が立っていてこちらを見ている。僕より五センチくらい低く、黒髪が艶々と都会の無機質な光を反射している。
「君、この辺りで美味しい刺身が食べられるお店を知っているか」
不意に女は僕に尋ねた。僕は彼女の望む店を知っている気がして、改札を出て八重洲方面へ向かった。大勢の人の間と改札をくぐり抜ける。
「君、東京はもうすぐ滅びることを知っているか」
また不意に女は僕に尋ねた。僕はそれは知らないので何も答えずたくさんの無表情な人とともに信号を渡った。女は不服でもなく、かといって詮索する様子も無く、僕の半歩右後ろをついてくる。僕は再び前を向いた時に、何となく東京は滅びるような気がした。心配になって後ろを振り向いたが、東京駅の文字は日に燦燦と照らされていた。もうすぐ刺身の旨い料亭に着く気がする。
「君、少し昔のことを語ってはくれまいか」
信号の前で止まっていると女はまた問うた。昔と言われても今の記憶すらない。僕は昔は動物を追いかけて穴に落とし、弱らせてから身を切って火であぶって食ったと言った。女はそうか、と言って多数の知らない人らと共に信号が変わるのを待った。信号が青になった。不意に僕は青も赤もどうでもよくなった。人間が後で決めたことである気が強くする。それでも白々しく皆と同じように渡った。ビジネス街の、無機質なガラスや灰色の道路にばかりに挟まれてその間を車が礼儀正しく通っている。
「君、今思っていることを語ってはくれまいか」
僕は、立ち入り禁止なんて無いんだと呟いた。秩序は僕より後だ。君より後だ。そう言った。すると、そうか、と言って、少しの間が感じられた。と思うと、私は原始だから、と言って車の行きかう道へと踏み込んだ。すると、車が、現れた彼女を避けたり、他の車がその車を避けたり、トラックが反対車線に進入して信号待ちの乗用車群に玉突きを起こしたり、無機質なビルの一階のガラスに車が刺さり、爆音と共に火が噴き出したり、煩雑で眩しい世界が現れた。そして最後に前から突っ込んできた二トントラックが思い切り彼女をはねた。彼女は僕の三メートルほど手前に人形のように転がってきた。不思議と恐怖や焦燥や何らかの非日常の感情は起こらなかった。むしろ、これが世界のあるべき姿であるな、と感心すらした。彼女の下まで歩み寄った。
「君、私の目を見てみないか」
顔には多少のすり傷があったが、彼女は先ほどのトーンと何ら変わらずまた問うた。言われるがまま彼女の目を見た。黒い目には光彩が一点に向かっていって奥行きがある印象を受ける。そこで東京に来て初めて自分の姿を見た。周囲にはクラクションや悲鳴などの喧騒に包まれた、愛しい時間、空間があった。再び、彼女の瞳が反射する世界でなく、彼女自身の瞳を見た。どこまでも奥に行けるような気がする。喉が勝手に浅く呼吸をさせる。息が上がり、心臓の位置が従来よりも上に来た感覚があった。
「人は恋をすると一度死んで、二度蘇るのよ」
きっとそれは東洋的な考え方ではないのだろうな、と思いもう一度東京駅という掲示を振り返った。相も変わらず、そこが東京駅であることを主張していた。多くの人にその掲示は安心と希望を与えてきた。もう一度彼女の目を見ると、光彩は消失していて、水晶体が平面に見える。なるほど、死んだな、と思ったが心は穏やかであった。
「君、世界は今始まったのだろうか」
僕は質量のみになった女にそう呟きながらそっと日差しで暖まったコンクリートに寝かせた。そして自分も横に寝そべった。太陽が見える。不意に先ほど彼女の瞳に映った自分の顔を思い出した。その自分の顔に映った彼女の瞳を思い出した。その彼女の瞳に映った自分、と言ったように二点の間に無限を認めた。なるほど、自分は真理なのだと感じた。