池袋

『池袋。池袋。お降りの際、足もとにお気を付け下さい』
 朝五時にもかかわらず、公園では叫び声が聞こえ、酔狂な若者らが噴水で泳いでいる街で、昏睡状態の女性がいる。彼女の自室には、許嫁が仕事が終わると現われ、(また寝ている)、と確認しにくる。許嫁は木製のチェアにうなだれながら、美しく息をする彼女に今夜も見とれ、うな垂れた。数年前、医者からは、「彼女は、街と均衡を保っている。街が眠らないと彼女は起きられない病にかかっている」と診断された。
 許嫁は、思いあぐねていたが、ある熱帯夜の晩、街が静寂に包まれた。許嫁はうとうとしていると、女性は目を覚ました。「あら。おはよう」と許嫁に告げた。許嫁は、待ちに待った久方ぶりの会話だが、会話の仕方を忘れており、じっと見つめるにとどまった。「ずっと、夢を見ていました。夢の中であなたは眠ったままで、私は木の椅子に揺られながらあなたが目を覚ますのを待っていますのよ」。どこか古代で聞いたことのあるようなフェアリーテイルを許嫁は聞き流した。「どうしたら、君は起きるのか」、と問うが、「分かりません」とぽつり呟くに終わった。
 許嫁は、大手証券会社の営業であり、めまぐるしく東京を駆け回り、英語も達者なので時には海外にも行く男であり、過労していた。有一の慰めであった彼女が、働き始めて以来どんどん弱っていき、次第に起きている時間の方が少なくなった。愛らしい変わらない寝顔と空に消えていく切ない希求の気持ちを紛らわすべくさらに勤労を重ね、その病気が治る原因を探すために、稼いだお金を貢いだ。だが、神経内科の医者も、精神科の医者も、心理学者も、哲学者ですら残していく推測は当てはまらず、許嫁はさらに謝礼を稼ぐべくまた都内を駆け巡る日々を重ねる他なかった。十年が経った。許嫁は疲弊していく。不意にまた熱帯夜の日、「んー」と意識がどこかにある彼女が唸った。前の熱帯夜以降十年間、彼女の行為は何一つもなかった。それは幼い頃から何度も聞いた、彼女を代表する感嘆詞だった。昼下がりの公園で日差しを浴びたり、夕暮れの教室でカーテンの中で夕日にくるまれていたり、初めて手を繋いで家族以外の体温を感じた時であったり、菜の花畑で寒さも感じさせず山を見上げて風を浴びていたり――彼女の「んー」は等身大の彼女がそこにいるという証明だった。霞む意識の中、許嫁は彼女の白く細い手を掴んだ。「いつになったら、結婚できるのだろう」。そう呟いて眠りに落ちると、彼女は目を覚ました。
 起きた彼女は許嫁の手の温もりに「ん」と言うも、低下していく温度を感じながら少しごつごつとした苦労人の手を確認して手の甲を掌で包んであげた。何もしていない右手で、布団にうつぶせになっている許嫁の髪を優しく撫でた。彼女は起き上がり、部屋を出た。
 街は静まっていた。今宵は原子が眠っているように、生きた何かの温かさだけを残して、生きものは皆隠れているように心地よい静寂があった。「ふう」と噴水に腰を下ろし、夜のとばりの数を数えた。店とビルの間の路地裏。重複する木の葉っぱの隙間に見える幹。地面の黒い砂。星と星の間の、見えない星。
 光と影は同時に生まれるもので、どちらかがあるからどちらかがあるものではないと彼女は感じた。
 彼女は部屋に戻り、布団に入り、眠る許嫁の手を掌で包み、瞳を閉じると朝が来た。タクシーが滑走し、ビジネスバッグを提げた男や作業服の人間が活動を始め、許嫁は目を覚ました。彼女の顔を確認し、また涙が出た。ため息も出た。押し寄せる問答と感情群から逃れようと許嫁は今日も街の中に入っていく。

いいなと思ったら応援しよう!